『チ。―地球の運動について―』1巻の感想について

はじめに

 絵はあんまり上手くない。表紙イラストはたぶん頑張って描いていて、本紙の方はもっと未熟なビジュアルになっている。
 なんでそんなことを最初から言ったかというと、この漫画について、絵の巧拙はたいした問題じゃないからだ。要するに、ひたすら強烈に面白い。ここから試し読みができるので読んでみて欲しい。
 

感想

 舞台は15世紀。C(キリスト、だろう)教による原典的な解釈が全てに優越した時代。地球が宇宙の中心にあり、太陽を含むあらゆる天体がその周りを回っているという天動説以外は認められない中、科学と合理性を重んじる立場から地動説の正しさを主張する人々の物語。
 
 とてもシンプルなストーリーで、まずこれは信念をめぐる物語だ。
 この時代では、地動説を主張すると審問によって殺されてしまう。社会的に、という意味ではなく、異端として、文字通り刑死の定めを課せられてしまうのだ。
 フィクションの主人公が、自分の主張を貫くことに命をかけるのは珍しくない。しかし、そのほとんどは信念がどうこうよりも、対立するライバルたちとの闘争の方に重心が置かれ、その点をエンターテインメント化することによって成立している。『チ。―地球の運動について―』のように、信念のために命を放棄できるかを真正面から問いかける物語はものすごく希少な気がする(ただ、何百年か前までこの世界は実際にそういう場所だった)。
 
 何を信じているか、を突き詰めると、その根底には美しさという概念が存在する。世界があるべき姿を知性の光の前にさらしたとき、人間は、それを美しいと感じずにはいられないように「作られている」。
 そして、この美しさの意外なほど近くに、死もまた潜んでいる。なぜなら、ごく一部の苛烈な人間にとって、自分が美しいと感じる真実を否定することは自分自身の存在意義を認めないのと同じであり、ときとして真実=美が自分の生命に勝ってしまうからだ。
 第1部の主人公ラファウにとっての美しさとは合理性であり、彼は物語を通して大きく変わったようでいて、何に最大の美を感じるかという点では、実は一本の芯が最初から最後まで通っていた。彼が変わった部分があるとすれば、世界は自分のためにある、という感覚から、自分こそが世界の真実をさらすために「使われる」べきだという転倒だったかもしれない。
 
 というわけで、(ケレン味の利いた漫画的演出や、人を食ったような題名とは裏腹に)ものすごく愚直で、熱をはらんだ作品だった。他の人にも読んで欲しい。
 ところで、繰り返すが絵はあんまり上手くない。この点をなんで二度もこするかというと、物語への感動とはまったく関係のないところで、ある感銘を受けたからだ。
 それは、絵という漫画作品におけるキーファクターが発展途上でも、スタートラインは切れる、切られるべき、ということだった(特に、この作者のように隔絶して優れている才能があれば)。
 俺たちが未体験の何かを始めるとき、そしてその成果を人前にさらそうとするとき、そのタイミングは技量がある一定の水準に到達してから、と考えがちだ。
 でも、それは本当に重要だろうか? まるで無意味な心配とは言わないけど、「見せても恥ずかしくないレベルを上回ってからリリースすること」は、何にも優先して大事なことだろうか?
 『チ。―地球の運動について―』において、恐怖という感情が人生の大切なファクターとして扱われている。恐れは、けっして避けるべきものではなく、むしろ人生の本質となるものとして語られている。これをさらに解釈すると、人生においては恐れないこと、ではなく、何を恐れるかが大事、ということになるかもしれない。
 この漫画の作者は、たぶんとても若い。嫉妬してしまうほどに。そして大きな才能を武器にスタートを切った。
 皮肉なことに、齢を重ねるほど、新しいことを始めることへの恐怖は増していく。長く生きて経験を積んだだけ、その恐れって実は全然意味なくないか? という知見が身についているべきなのに、まったく真逆の方向にブーストがかかってしまうバグが、人生には存在する…気がする。作品とは関係ないが、そんなことを思った。俺もそういう恐怖を振り払って、人生を正しく恐れたい。
 
 以上、よろしくお願いいたします。