西蔵の山中でPCR検査は受けられない。『チベット旅行記』の感想について

はじめに

 先週の土曜日、外出先でのこと。建物の入り口に設けられた体温モニターの前に立ったとき、「ん?」と思わせるものがあった。

 36.4度。平熱が36度を下回っている俺なので、いくらか高めと言っていい。「ん? ん?」。そういう引っかかるものを密かに抱えたまま、その日の夜を迎えた。

 21時ごろ、少しずつ呼吸が苦しくなってきた。妙に痰がからんだ。

 このご時世、集合住宅の薄い壁の向こうで隣人が執拗に何度も痰を切ろうとして咳を繰り返しているのはなかなか恐怖を感じさせるかもしれない。

 そんなことを想像してはみたものの、当の本人だって息が苦しいわけなので、しかたなく何度も咳をするしかなかった。

 (自分にしては)微熱、呼吸の苦しさ。どうしても「ある可能性」が思い浮かぶ。今の家には体温計がないので、現在の体温はわからない。あまり深く考えたくないので布団に逃避した。

 

 翌日、日曜日。朝7時半ごろ、普段よりもかなり早めに目が覚めた。単に覚醒したというわけではなく、息が苦しいのが原因で目を覚ました、という実感があった。

 呼吸を整えながら、しばらく状況を冷静に受け止めようと努めた後、俺が最初に起こした行動はコンビニまで体温計を買いに行くことだった。悪い方に、悪い方に想像がふくらんでいく。少し歩いただけで息が切れる気がした。

 購入した体温計でさっそく計った体温は、36.9度。上がっている。もう普段の体質とか関係なく発熱していると言っていい。

 続いて俺が取ったのは、いまとなっては滑稽きわまりないが、家中の匂いを発するものを嗅ぎまわって自分の嗅覚を確認することだった。

 洗剤。

 ウィスキー。

 数週間前に買ったまま放置しているオレンジ。

 カレールー。

 …どうかな~。微妙だな~。でも気のせいかもだけど、「感じにくい」気もすんだよな~…。

 来たか、ついに。そう思った。

 コロナウィルス、感染したか。

 ものすごい恐怖が突然わきあがってきた。主な原因は昨晩から引きずっている胸の苦しさで、噂では一部の感染者に、深刻なレベルまで進行した呼吸器の不全を生じながら自覚することができない症例があるというのを思い出したのだ。

 正直「ちょっと苦しい」ぐらいでしかないのだが、実際のところはどうなのだ? 自分の体のことなのにまるでわからん。

 まさか、救急車呼ばないと後悔する状態ってことはないよな…。いやいや、ちょっと待て、そもそも、もしも本当に状態がひっぱくしていて病院に搬送されたとして、すぐに受け付けてもらえるものなのか? もう、そんな余裕どこにもないって聞くぞ?

 「救急車で搬送先を探してもたらい回し」とか「自宅療養を指示されて待機してる間に急変した」とか、報道で見聞きして漠然と「こえーな」としか思っていなかったこと(なんて危機意識の低さだ!)、それでもこの社会のどこかで実際に起きていたことが、凶暴な奔流のようになって自分に同化してくるのを感じた。

 

 あれ、俺ここで一人で死ぬ? 嘘ぉ? っていうあっけなさが本当にマジで死ぬときっぽい、っていう実感があって日曜に8時に絶望する。

 そうなんだよ、日曜の早朝なんだよ、いま。なんで平日の昼間じゃねーんだよ~もう~…。

 とにかく、これからどうすべきかアドバイスを誰かにあおがねば、ってことで、まず、自治体の相談窓口に電話。24時間窓口開けててすげえよ。頭が下がる。

 そこで近所の緊急診療施設の電話番号を教えてもらい、続けて電話。状況説明して「来てもらって大丈夫ですよ」と言ってもらい、安心するとともに、ようやく少し落ち着いてくる。

 緊急診療施設ではあわせて、近隣の大きな病院でも急ぎの診療を受け付けているとの情報をもらった。PCR検査受けるのなら、結果出せるのはそっちの方が早いかもね、とのこと。

 目下、俺の一番の心配事は自覚している「少し呼吸が苦しいです」という症状が実際はそれどころじゃない危機に陥っている、という可能性だったのだが、他の人間と話している間に、検査結果という少し未来のことまで想像する余裕が出てきた。病院にも電話して考えた結果、こちらまで出向くことにする。時間は午前9時、起きてから1時間強が経過していた。

 

チベット旅行記』の感想について

 …というのが前置きである。

 その後の細かい顛末は書かない。大山鳴動してなんとやら、結局、PCR検査は陰性であり、呼吸もよくある気管支炎というかたちに落ち着いたからだ。

 もし他の誰かが自身の体調に抑えきれない不安を感じたときに、それを軽んじて笑ったり、ましてやその後に起こす行動に制限をかけるようなマネは俺がこの文章でまったく意図していないことで、実際に危機感を覚える場面があったら、ためらわずに医療機関に連絡するべきだと思うけども、少なくとも俺の場合は全然問題なかったのだった。それにもかかわらず自室でひとり死を思ったりして、これはかなりバツが悪い。

 ただ、一つ後日談を追記するなら、俺はおよそ8,000円という高額を支払い、いわゆるパルスオキシメーターという器具を購入した。指先にセットすると血中の酸素量や心拍を計測してくれるというやつだ。これで、いつ自分の呼吸器に主観では判断できない不安を生じても問題ない(現在の酸素割合99%、心拍53。徐脈だがまあ健康と言える)。

 

 話がまたズレた。『チベット旅行記』の感想だ。一種の冒険記であり、明治時代に日本を出立、インドからネパールを経由してチベットに入国した河口慧海という僧侶(兼冒険家)の旅を記録した手記である。

 現在、中国との間で強烈な緊張関係にあるチベットだが、1800年代後半の当時は当時で、諸外国(特に西欧)に対して厳密に国家間交流を閉ざしており、まともな方法では外国人は領地にも入れないという特殊な状況にあった。

 そうした国を目指して、日本の僧侶が中国大陸の苛烈な自然を攻略しながら突き進んでいく物語がつまらないわけがない…と思いきや、実はこの本、何回も読み通そうとしては失敗して屈してきた作品なのだった。

 

 身もふたもないことを言うと、文章を記している本人に内容をドラマに仕立てようという意思があまりないんだろうな。

 物語で何が起きたかを過剰な修辞で盛り立てようとするのは書き手として三流だと思うけど、一方で、やっぱり文章のメリハリは大事なわけで、河口慧海の言葉遣いにはそうした視点が欠損しており、どんなトラブルも、生命の危機でさえもが、きわめて淡々と日記でも書くようにしか(というか日記なんだけど)記されていない。

 今回、それが読破にいたったのは、面白がるポイントのチューニングが上手いこと合ったのだと思う。

 読んでいてどこに意識を合わせたかというと、河口慧海という人物の奇妙さに集中した。過酷な環境で死ぬかもしれない、悪人に殺されるかもしれない、という状況さえ他人事のように記述するそのキテレツさを楽しむことで、本の様相が変貌したと言える。

 河口慧海というのはメチャクチャな人物で、自分で選び取ってチベットを訪ねることに決めていながら「チベットの町もチベット人もとにかく汚ぇ」なんてことを繰り返し書いており、「チベット人は500人いたらそのうち450人まではクズ」みたいなことまで言い出して、お前、そんなこと言うくらいなら行くんじゃねえよ、という気もするが、河口慧海の心的内部では誰かへの悪口というのは我々の世間一般の悪口といくらか重さの置きどころが違っていて、散々こき下ろした相手でも評価するところは評価する、非難も称賛もどちらも慧海の精神においては同じく平坦であり、自分が下した評価というものにまるでとらわれる気配がない感じがただよっていて、不思議なのだ。

 慧海も妙だが、それに接するチベット人にもおかしいのがいて、チベットに入国してから携行した薬で病人を治して評判を呼んだ慧海と話しているとき、唐突に「お前のせいで国内の医者が面目を潰したから、近々毒を盛られて殺られると思うよ」など、まったく脈絡なく言ったりする。

 「それだと勉強ができなくなるから困るんですけど」と答える慧海も普通ではなく、やはり『チベット旅行記』は何かの活劇というより、出てくる人間のトンチキさを楽しんだ方が面白いと思うのだった。

 

 身近に頼れる者がいない中でときには身体の不調を抱えて過酷な旅を続ける河口慧海に、前述のコロナ疑惑をふまえて親近感を覚える瞬間もあったが、慧海が未開地で渡ろうとした川の急流に巻き込まれて溺死しかけたり、高山における気圧の影響か血塊を唐突に吐き出したりし、それを「まあ死ぬなら死ぬでしかたがないな」と言って取り合えずやるべきことはその場でただ座禅、瞑想しているうちに体調を戻してしまうという怪人であることを考えるとまるで比較にならず、苦笑いするしかない(繰り返すが心身に不調を覚えること自体は笑えるものではないので、みんな異常を感じたらすぐに医療の判断をあおぐべきだとは思う)。

 ところで余談だが、訪問した不案内な土地を持ち前の知識とアイテムによってなんなく攻略し、一切まったく焦る気配を見せずに余裕しゃくしゃく、という河口慧海のキャラクターは、いかにも昨今の「なろう系」主人公を想起させるところがある(もうトレンドとして古いんですかね?)。

 ただ、河口慧海の場合、自身の生死でさえあんまり勘定に入っていないがチベット仏教の学習には執着するという、かなり奇態な人物に映っており、それと対峙するチベット人もトンチキである状況でのトンチキ対話・対決となっているため、別にカッコよくもなんともなく、「なろう系って、実は主人公の有能さと人格の理解可能性が並び立ってないと成立しないバランスなんだな」と知ってすげえな、と思った。主人公も周囲も異常だと、憧れようがないのである。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

チベット旅行記〈上〉 (白水uブックス)

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  • 作者:河口 慧海
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チベット旅行記〈下〉 (白水uブックス)

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