少し話はズレますが、キミたちも神学を学んだらいい。『 チ。―地球の運動について―』4巻の感想について

はじめに

 破竹の勢いと言ってよいでしょう。超話題作、第4巻。

 以下、ネタバレあります。

 

 

 

 決闘代理人オクジーが偶然残した手がかりから、知と神の信奉者である修道士バデーニがついに地動説の証明らしきものに到達する。

 次に待ち構えているのは内容をいかにして、安全かつ確実に世の中に問うか、というフェーズ。いかにも天動説が支配的だった数百年前ならではの問題、とも思ったが、学問や表現におけるこうした段取り、いわばプロモーションは、現代でも重大に意識するべきものですね。

 一方、異端審問官にして拷問のプロフェッショナルであるノヴァクがついにオクジー・バデーニのペアを捕捉する。バデーニ逃亡の時間を稼ぐため、オクジーはかつて相対して圧倒されたノヴァクの前に立つ。

 

 1巻において、天動説が常識=それを疑うと死の危険さえある=その常識に沿って生きていくのは優れた知性を持つ者には超楽勝、という世界観を示した上で劇的に破壊してみせたのと比べると、2巻以降は世界観の新たな構築にあてられている感じがする。

 例えば、天動説もけっして非科学的な妄信ではなく、科学的に追求された結果の一つであること、その確立に一生を捧げる者も存在することが明らかになるのは、作品の現在の方向性が序盤よりも複雑になったことを示している。

 4巻でタイトルの「チ。」が地球の「地」のみでなく、バデーニが全霊を捧げる「知」、ノヴァクが世の中を安定させるために必要と説く「血」も含むトリプルミーニングとなったが、これも物語のテーマが広がっている証だと思う(特に「血」)。

 1巻で若き天才ラファウを死亡させ、その死にざまに衝撃を受けたように見えたノヴァクが、現在も平然と異端審問官を務めているのは少し意外だった。

 ただ、彼が説く「血」の中に、今のノヴァクの心境が表れている気がしないでもない。というのは、暴力というのが実は合理性の行使だからだ(というか、そういう論法じゃないと正当化されないのだが)。

 ある種の暴力は、将来的に大勢傷つけなくて済むように、早いうちに少数を痛めつけるというロジックによって発動する。ラファウの死を受けて、ノヴァクはもしかすると、必要最低限の暴力を振るうことが将来的に同じような被害者を出さずに済ませる解決策だ、という方向に、自らの生き方を推し進めたのかもしれない(ちなみに、作者の魚豊さんがこちらの記事でノヴァクについて語っています)。

 他にも学問と信仰をめぐるジレンマに関する面白い議論があって、とにかくこの問答によって、作品が混沌としてより強いエネルギーを内蔵したように見える…が、それは以下でくわしく書く。

 

本題

『自らが間違ってる可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです 第三者による反論が許されないならそれは――信仰だ

 

 4巻の後半で学問と信仰の関係をめぐる議論が登場する。

 これを読みながらかなり興奮した。それは、この問答が新鮮だったからではなく、むしろ学生の頃によく親しんだ内容だったからだ。

 引用した部分を語っているのは決闘代理人オクジーで、修道士バデーニが言葉を投げかけられる相手となる。

 学問や宗教の素養はまったくないオクジーは、知性の面でバデーニに到底かなわない。つまり、オクジーがバデーニにこんなことを言う構図はすごく奇妙なのだが、もう一つ面白いのはバデーニが信仰者だというところで、「お前の示した姿勢は信仰だ」と言われても、それを批判として受け止める必要が微塵もないはずなのだ。

 しかし、実際はこの言葉がバデーニに刺さってしまう。それも、猛烈に。

 

 俺の通った大学にはCコードという概念があって、常勤の教員はクリスチャンでなければいけないという決まりがあった(おそらく今も)。

 ということで恩師たちはイエス・キリストの復活という非科学的な現象を信じていたはずだが、同時に、大学の教授という知のプロフェッショナルであり、論理的で、博識で、もはや常軌を逸して頭の良い人たちだった。

 少なくとも一部の人間にとって、知性というのはきわめて器用で、かつ悲劇であるのかもしれないが、不合理を信じるという信仰と学究のために必要な疑念とを一緒に抱えて、まったく正反対の方向に同時に走り出すことができた。それは神や救世主は無条件で信じるがそれ以外は疑ってかかる、といった都合の良いものではなかったはずで、そこには常に、一方から一方への慌ただしい往復と、恐ろしくなるような緊張があった。

 神学という、多くの人がその名詞を知っているが内容はいまいち理解されていない学問の一つの側面は、こうした答えのない問題を扱うフィールドであって、そして、俺も非信仰者なりにそれを学んでいた(ほとんどモノにならなかったが)。

 

 修道士でありながら信仰という言葉が批判として機能してしまうバデーニの姿を見て、学生時代を思い出してうれしくなった。

 あわせて、こうしたきわめて神学的な議論がちゃんとエンタメしうるのを教えてもらったことに、本当に興奮させられる。4巻を読んで、この部分に「おもしれえ」という印象を抱いた方は、ぜひ大学や専攻の選択肢の一つに、神学を加えてみてはいかがでしょうか。人間という存在のポジティブな悲哀や奥深さについて、理解が深まると思います(死ぬほど就職では役に立たないけど)。

 以上、よろしくお願いいたします。