惨状と説教

誰か山から降りてきてほたえてから山に帰っていく記事。ブログ

彼女/彼とそうじゃない新しいものについて

 あるPodcastを聴くためにSpotifyに登録したら、アカウントをつくるときに確認される性別に男性・女性に続いてノンバイナリーの項があり、時代だなあ、と思った(揶揄も称賛もありません)。

 当事者たちがこれで生活しやすくなるなら、いいことだろうと思う。こういう具合の当事者意識を欠いた考えも、批判されるべきなのかもしれないが。どうせなら項目自体失くしちゃえばいいのに、と感じたけど、性自認と愛好する楽曲の統計がまとめられて、マーケティングに利用されたりするのだろうか?

  

 学生の頃に英語でレポートを書かされたとき、三人称単数の人称代名詞を使用する場面で性別が特定できない場合は、he/sheと書いていた。「人間」という意味にはhuman、もしくはhuman beingを用いた。

 manで表すことを避けていたのは、確か、人間たる存在として男性を優先的に想起させかねないという発想だったはずだ。俺がこんな殊勝な考えを自分で思いつくはずがないので、大学側から指導されたのだろう。

 ただ、指導というのが「必ずそうするように」だったか、「そうすることを推奨する」だったかは覚えていない。人間をhuman、human beingと書くべき理由についても、「manと表記するのは男性主権的な姿勢だからやめようね」だったか、「男性主権的だとあなたが誤解されるからやめようね」だったか、どう説明されたんだったか…。

 別にフェミニズムや男女同権の意識から求められる慣習をあげつらうつもりはなく、「めんどくせえな、でもまあ、そういうものか」と当時から思っていたし、いまも思っている。表記としてのhe/sheが現在でもイケてるのかはわからないが。

 

 外国の人物が登場する文章を読んでいると、名前から性別がわからないことがあって、彼女と言い換えられたときにはじめて、「こいつは女だったのか」となる。女だったのか、という印象自体が暗に男性優位的だったりして。こういうケースにおける疑念にはキリがない。

 考えてみれば、その人物の性別が男だろうと女だろうとどっちでもいい内容の文章もけっこうあるよな、と思う。

 性別を誤認させようとする叙述トリック…という例は極端すぎるとして、小説やジェンダーに関するノンフィクションなんかは人物の性別表現に配慮した方がいいだろうけど、いま読んでる医療系ドキュメンタリーだと別にどうでもいい。

『ファーバーも夢見たのだ。悪性細胞が特異的な抗がん剤で殺され、正常細胞が再生して本来の生理的なスペースを取り戻す夢を。彼はがん医療に挑戦状を叩きつけた。』

  「彼」というからには男性だろう。

  それはわかるが、別にわからなくてもいい。まあ代名詞を使わないと不便だからな、という以外の理由は何かあるのだろうか? おっさんの漠然としたビジョンが、もやっと浮かんだりはするけども。

  こういう面倒くさいことを言われた場合、英語圏ではhe/sheというとんちを使うのだろうか。

  日本では彼か彼女を使わざるを得ないよな。「彼」は「かのひと」の意であって、性差を含まないんだぜ、というコンセンサスができればいいが…(と思ったら、かのひと・あのひともどちらかと言うと男性を指す意味合いが強いらしい)。

 

 要するに、彼女でも彼でもない、文脈において性別が重要でない場合における代名詞が、日本語にもあっても(広まっても)いいんじゃないの、ということだ。

 別に表記のたびに当人の苗字を繰り返してもいいのだが、ずっと名前ばっかり言いやがって矢沢永吉かよ、みたいなことになるので、何かしらあってもいい。それこそ「彼人」とか(ダセえ)。

 俺自身に割と、言語的相対論的というか言霊信仰みたいなものがあって、彼/彼女の二元論で表記している限り世の中の認識はあらたまらない気がしていて、そこに収まらない人たちは居心地悪いのかもしんねえな、と思わないでもない。というか、収まらないという表現自体が逸脱を意味としてはらんでいてムカつくのか。すいません。

 ちなみに、俺はフェミニズムを重んじていたりLGBTに関する問題意識が強かったりするわけではないので、この文章丸ごと、てんで見当違いのことをしゃべっているのかもしれない。

 見識の広い方からすると「てめえいい加減なことほざいてんじゃねえ、こっちまで馬鹿だと思われるだろうが」という可能性もあって、俺はあくまで思い付きでしゃべってるだけだからどうもすいません、と思っている。

 以上、よろしくお願いいたします。