夕方、海岸で本を読んでいるときのこと。少し離れたところで、父親らしき男性とその息子と思われる8、9歳ぐらいの男の子が、サッカーボールでパスを回して遊んでいた。
少年はなかなかボールさばきが巧みだ。男性が蹴ってよこした球をつま先で受け、勢いを流して空中に跳ねあげる。それを足の側面や膝を使って何回かリフティングしてから、男性に向かって蹴って返す。
男の子がボールを弾ませるたびに、球が体を打つ乾いた音が浜辺に聴こえる。その音が思いのほかしっかりしているのが印象に残る。
以前ブログにも書いたけども、俺は父親が嫌いだ。ただし、それは年齢を重ねて大人になってからで、子どものころは大好きだったし尊敬していた(というか、それは実はいまでもそうなのだが)。
幼いころ、俺も父親とよくサッカーボールを蹴り合って遊んだ。そのときの俺の意識は、父というより自分に飛んでくるボールにばかり向けられていたけれど、今日浜辺で男性と少年のサッカーを見ていて、俺の父親はあのとき何を感じていたんだろうな、とはじめて思った。
自分の血を受けてこの世にやってきたものが、無事に大きくなって、いま自分とボールを使って遊んでいること。二つの腕を使って体のバランスを取りながらボールを受けて、それを自分に向かって蹴り返してくる肉体の動き。はじめはかなり手加減しながらボールを蹴っていたけど、少しずつ力を強くしても、ちゃんとそれを受ける。
「僕はこんなことができるようになったよ」とは子どもは言わない。そんなつもりでボールを追って蹴っていないからだ。
しかし父親からすれば、ボールをやり取りするパスの毎回がそのメッセージに等しい。そこに言葉はないし、片方には発信している意識さえないけど、これも一つの会話なのだろう。
たぶん、あのとき俺の父親もそういうことを思っていたのではないかと思った。そういう話。
以上、よろしくお願いいたします。