じいさんの墓を潰すかどうかで考えたことについて(前編)

 先日、祖父母の骨が納まっている墓の整理について母と叔母(ともに還暦過ぎ)と話す機会があった。

 祖父は次男だったため、まだ存命中に自分のための墓を買い、死後はそこで眠ることになった(などと書いているが、俺は世事に疎いのでその辺の慣習をよく知らない)。そして、祖父が鬼籍に入って数年後、祖母も同じところに加わった。

ただ、じいさんは自身とその伴侶の死後について当面の道筋はつけてくれたが、死後数十年が経過して、娘たちや孫(俺だ)に墓をどうして欲しいかまでは決めていなかった。母も叔母も高齢者になって、その点をいよいよ、生きている者たちでちゃんと決めなくてはいけなくなったのだ。

母と叔母はどちらも同じ墓に入るつもりはないという。大まかには、一まとまりの金をあらためて寺に納めて永代供養扱いにするか、俺が管理を継いでいまのまま維持するか、もしくは墓自体を潰してしまうかの3択になるようだった。

 俺は別にどれでもいいと思ったが、なんとなく意見を聞かれるっぽい感じになったので、「死後どうするか具体的な指示がなかった以上、故人がどうして欲しいか想像して考えるしかないんじゃねえか」と知ったようなことを言った。

当座の出費で言えば永代供養がもっとも金がかかる。現状維持も、長期的に考えればそれなりのコストだ。その辺の負担を子孫に強いることを「俺たちの心の中のじいさんとばあさん」はどう言うか、例えばそんなことを想像してみるのが、一つのヒントになるんじゃないか、ということだ。

 

 死者が何を望んでいるのか。これをちゃんと意識して考えるのは、けっこうめんどくせえ話だな、ということに俺はようやく気がついた。

 身もふたもない話だが、そもそも人間は、自分が死後どうなるかさえ選ぶことができないのだ。

 個人的には何もない無になると思っているけど、もしかすると天国や生まれ変わりがあるのかもしれない。いずれにしても自分で決めてどうにかなるものじゃないだろうから、本人の宗教観なんて関係なく、何かたどるべきものをたどってどこかに落ち着くしかないのだと思う(だからこそ、某漫画の「死の他にあった4つの結末」というフレーズには激烈にしびれたが)。

 一方で、「自分が死後どうなったと周囲に思ってほしいか」、これぐらいなら故人の意志(遺志)でどうにかなりそうな気がする…が、実際はかなり難しいかもしれない。

 例えば、海に撒かれて地球に還りたいとか、樹木葬にされたいとか、資金と協力者さえ整えば、葬式のやり方ぐらいはある程度の融通がきく。

 問題はここからで、「あいつは生前に望んだとおり海洋に散骨されて地球に還った(故人の死生観)」→「いまはあの世で他の死者たちと楽しくやっているだろう(残された側の死生観)」という具合に、結局、死んだ本人の死生観はなあなあのうちに、生きている側の宗教観に取り込まれて処理されてしまう気がするんだよな。自分の中に自前の死生観と他人の死生観とを共存させて二重に持つことなんて、そうそうできないからだ。

 こうした故人の死生観の放棄と生きている側の宗教観へのシームレスな回収は、無意識、かつ悪意なく実行されるのだと思う。

 だからこそ、今回のうちのじいさんの場合のように、故人がいまどうして欲しいかをあらためて意識させられると、どこか戸惑いを覚える。死者をどう扱うか、その裁量が生きている側に完全に委ねられていると自覚することで、かえって何か試されているように感じてしまうんだろう。

 

 この前、若くして亡くなったある漫画家についてググっていたときのこと。

 それほどメジャーな作家でなかったにも関わらず、俺が調べている当日に更新されたページが見つかったので訪問してみて、少しゾッとしてしまった。その漫画家だけでなく、あらゆる著名人について亡くなってから何日が経過したか、ずっとカウントして更新し続けているサイトだったのだ。

 あるクリエイターは死んでから何日。ある俳優は死んでから何日。新しい人が亡くなるたび、そのリストに加えられ、故人になってからの時間がカウントされていく。

 死人をあまりにも無機的に管理している雰囲気も嫌だが(じゃあ有機的な管理ってなんだよ?)、理由のよくわからないもっと強い嫌悪感を抱かされたことは、死者と死者は亡くなった日付の開きを抱えて、その差は永遠に縮まらないままカウントが進んでいくのだ。

 なんだか、死んでからも延々と終わらない競争を強いられてるみたいだ。やめてやれよ、と思ってしまう。死んだら(ゴールを切ったら)、みんなもう同じでいいじゃないか…と思ってしまう。

 やろうと思えば、人類全体を対象にして同じことができるんだろうな、なんて妄想もする。現実にはあり得ないんだけれども、これから死んでいく人間すべて、人類の最後の一人まで死亡した日時を記録していく。もう誰も確認する者の残っていない遠い未来の世界で、何十億・何百億の人間に関して死んでから何年経過したか個々のカウントを続ける、デジタルの集合墓標。

 『マトリックス』的というかギーガー的というか、先に書いたとおり俺なんか人間は死んだらそこで等しくみんな終わり、と思っているから、死んでもまだそうやって管理される目に遭うのかよ…と思ってしまうのだが…(後編に続く)。