バナナマンのラジオ番組である、『バナナマンのバナナムーンGOLD』を聴いていたときのこと。
番組中で『部屋とYシャツと私』が紹介されていて、(MCの設楽も言っていたが)はじめて、ちゃんと歌詞を耳にする機会になった。
愛するあなたのため 毎日磨いていたいから
時々服を買ってね 愛するあなたのため きれいでいさせて
時代を感じさせるというか、なんというか、時勢にはそぐわなくなった言葉だな、というのは率直に感じた。
もっと正直に言うと、とてもキュートな印象もあらためて抱いたのだが、そう口にすることさえはばかられるような気もする。「そういう頃もあったんだな」という感想は、歌っている平松愛理さんには失礼だろうか(あるいは、いまだに途上にある性差の改善という観点からも、逆に問題をはらむかもしれない)。
ところで、同曲の歌詞にはこんな言葉も登場する。
大地をはうようなあなたのいびきもはぎしりも もう暗闇に独りじゃないと 安心できて好き
イビキが原因で離婚なんてことも、ときどき聞くけどなあ、と思ってしまうが、意外とわからなくもない、と考えてしまうのは、次のような話もあるからだ。
俺の住んでいるアパートはあまり壁が厚くないので、隣人の生活音が割りとダイレクトに聴こえることがある。
鬱陶しいと感じたことはなく、どちらかというと迷惑をかける側ではある。それこそ芸人のラジオとか、ロックミュージックのデカい音とか出すのは俺の方なので。
隣に住んでいるのは高齢の男性で、夜遅い時間になると、就寝したその人のイビキの音がときどき聞こえる。
現にいまも聞こえていて(深夜1時)、はじめは「おいおい、マジか」という感じに、不快感ではなく物件の状態について単純に驚いたが、いまはもう慣れた。
それは音というより響き、振動のようなもので、定期的に生起しながら、隣に生命の存在を感じさせる。
聴いていて安らぐ、というと言い過ぎだろう。心地よいということもない。
ただ、「知り合いのいないこの土地で、一応、周りに他の人間だけはいるんだな」というのはわかる。
そりゃそうだろう、という話だし、そこに過剰に意味づけするつもりは俺にもないが、とりあえずそういう効能はある。
もちろん、これで音がもっとデカくなったら普通にムカつくだろう。ご近所トラブルだ。ギリギリというか、割りと繊細なラインではある。
高橋源一郎の『「ことば」に殺される前に』という新書を読んでいたら、「最近の人が本を読まないのは、他人に興味がないからだ」という意見が紹介されていた。
どうかなあ、という反論したい気持ちはある。
俺はもともと、他人にそこまで興味がない(つもりだ)が、世間一般と比較すれば書籍に触れる方だろう。
正確な反駁にはなっていないが、他の人間にあまり関心がなくても、純粋な好奇心や、それこそ自己愛まみれの動機で文章を読むのが好きな人間はかなりの割合でいる気がする。
ただ、自室の壁の向こうから響いてくるイビキの音を聴いていると、俺にも誰かの存在に対する欲求が存在しているのはわかる。読書は実際にそことつながっているのかもしれない。
なんというか、存在感のちょうどいい濃度というか、「他」が発する情報量としてちょうどいい波長みたいなものが、あるのかもしれない。
実際にそこにいる個人や肉体、そこから発せられるものはヘヴィすぎるが、それが物理的にバッファされたり、言葉というかたちに置き換えられることでうまい塩梅になる、そんなことはあるのかもしれないな。そんなことを思った。
以上、よろしくお願いいたします。