クモについて

 出先の電車の中で、ふと気付いたら詰めの先ほどの大きさのクモが服の袖口をちょろちょろしていた。

 えーっ、と思う。

 車内で振り落としても乗客の誰かに踏まれてしまうだろうし、仮にそこで暮らしていくにしても、特別快適な空間ではないだろう。

 とにもかくにも、袖から内側に入ってこられてはたまらないので、指先に誘ってすくって、両方の掌でつくった覆いに閉じ込める。

 早く次の駅に着かないだろうか。着いたら線路の上にでも放り出してしまおう。

 そう思ってる間に、掌のわずかな隙間からちょろちょろ出てくる。

 うわあ、まいった。

 再度、指先に誘導。再び掌の中に確保。と思ったらまた出てきてしまって、今度は姿が見えない。

 どこに行った、と思ったら、糸を吊って袖から下に垂れていた。切れて落ちていってしまわないよう、慎重にすくいあげる。

 そんなことを繰り返すうちにようやく次の駅に着いたので、わたわたと降車して外に放り投げた。

 

 朝、自宅のアパートのドアを開けたら、廊下の床面から十数㎝ぐらい上の、ほこりっぽくて暗い空間に張られたクモの巣に、地味な蝶が吸い寄せられるように舞い込んでかかるところだった。

 巣をゆするように暴れる蝶のところに、それまでじっとしていたクモが音もなく近づいていく。

 十年前なら、きっと、巣を指先で切って助けただろう。そう思いながら光景をあとに階段を下りた。

 クモはああして獲物を捕って生きているのだから、蝶を奪えばクモが飢える。

 あそこで起きたのは、不運と幸運のプラスマイナスゼロのバランスであり、自然の帳尻が合っている。食べられる側でも食べる側でもない者が介入するのは不自然なことだ。

 しかし、俺はいつしか、目の前で起きている手が触れる現実よりも、見えない摂理(のようなもの)に、自分が確実に救える命よりも、自分のせいで飢えて死ぬかもしれない命に、それぞれ重きを置くようになっていたのだった。

 こういう変化をなんと言うのだろうか、と思う。

 成長というのか、俯瞰というのか。ただ、いろいろ無関心になっただけか。どんな言葉でも表せないのかもしれないな、と思った。

 

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと