2021年のブックマークについて ③

anond.hatelabo.jp 奇しくも(?)、イーロン・マスクの個人資産がハンパじゃねえ額面になってるぞ、というニュースと、ユヴァル・ノア・ハラリの「貨幣はフィクションだぞ。信じてる方が便利だからみんなそうしてるだけだぞ」という言説に触れたタイミングで、「はたして人にとって物を買うとは…」となっているときだった。

 購入した悩みはもちろん、その喜びもおかしさも、特段必要のない高価なものをあえて買ったところがポイントに見える。そういう使い方もいい。

 

anond.hatelabo.jp  書いてる人が苦しんでる文章が好きで、この記事の場合はそれと軽妙さがうまくミックスされていて上手だなあと思う。

 ラブレターと遺書と漫才の台本が一つになったような文章は俺の理想だが、俺の場合、実力が伴わないことが多い。世間はそれを怪文書と呼ぶ。

 

anond.hatelabo.jp  システム(生態系)を俯瞰して冷静に分析することと、細部(個々の種)に対する愛情が両立する視線にあこがれる。

 

www3.nhk.or.jp 色んなところから来てミックスされている、ということらしい。

 なお、縄文人については本文でルーツが触れられておらず、すでに列島にいて、大陸から来た人たちと混交した、とだけ説明されている。こちらの記事によれば、縄文人ももっと昔に大陸で分化して日本列島に渡ってきたのだそうだ。

 

natgeo.nikkeibp.co.jp  サムネイルの本人がまったくなんのこっちゃ理解していなくて笑える。

 自然はよくできてるなあ、と思うがそれは逆で、崩れても適当に、次第にバランスされていくものを自然と呼ぶのかもしれない(だから破壊しても平気、とはならないが)。

 

anond.hatelabo.jp インターネットで読む怪談の特徴として、文章の質や書き手の知識が一定の水準を超えると、「なんで表に出てきたのかわからない」という不思議な現象を起こすところがあると思う。

 惨酷なことを言うが、文章の質が低ければ、「創作の練習かな」とか「単に反応が欲しいんだろうな」と処理されて、歯牙にもかけられない可能性が高い。

 優れた内容になると、この辺の動機が上手い具合に見えなくなる。

 代わりに、「なぜ書いた」という独自で奇妙なポジションを得る。と同時に、怪異が真実味を帯びてくることさえある。

 これに対して商品として扱われる実話怪談は、売り物である以上内容も優れていてしかるべき、という暗黙の了解があるし、信憑性を伴うためのハードルも一緒に上がっているので、ある意味不利だ。タダなのに妙によく書けてるな、という不気味さはネットの怪談だけの長所だと思う。

 

note.com ① ジャンルを誤認させること

 ② マイノリティに関する情報を意図的に見えなくさせること

 ③ 役柄としてのマイノリティをマジョリティの俳優に演じさせること

 この三つは、それぞれ別のこととして整理されなければならないし、その是非についても個々に議論する必要がある。

 

 特に、③については納得のいく説明を見た記憶がない。

 何年か前、『笑ってはいけない』で浜田雅功が黒人を模した黒塗りのメイクをして、ミンストレルショーだとして大きな批判を受けた。

 黒人差別にまつわる忌まわしい演出であり、現代においてあってはならない、という意見には反対しない。ただ、「自分とは違う何者かを演じることについて、良し悪しの線をどういう権限で誰が引くのか?」という疑問が、率直に言えばあって、それはまだ俺の中に残っている。

 加虐と反抗の歴史があることが重要なのだろうか。

 演出に、演じられる役を愚弄する意図があると問題なのだろうか。

 では、『トロピック・サンダー』(ロバート・ダウニーJr.による黒塗り)は許されないのか?

 『メゾン・ド・ヒミコ』でオダギリジョーが同性愛者を演じたことには問題があったのか?

 『英国王のスピーチ』における健常者による吃音の演技はどうなるのだろう?

 

 『笑ってはいけない』の議論のとき、浜田雅功の黒塗りがなぜいけないのか、合理的に説明していた言説は俺の覚えている限り存在しなかった。

 「これが差別であると、こんな簡単なことが、なぜわからないのか(だから説明しない)」といったものや、「それが差別であるか許容される演出であるかは、文脈によって判断できるのだ」といったものしかなかった。

 

 前者は解説を乞う余地さえなく、後者も理由としては納得がいかなかった。

 文脈をふまえるとは、つまり、作品内で言語化されていないメッセージを汲み取るという想像力や、視野を物語の外に向け、監督や俳優の過去の言動まで意識して解釈する努力が必要になるということだ。

 そうまでしないと、「良い黒塗り」と「悪い黒塗り」は区別できないのだろうか。

 例えば、女性にも参政権がある現代日本で、それが正しい理由を誰が「文脈によって」説明しようとするだろうか。

 同一の業務内容と責任が与えられているなら、外国人と日本人の給与に区別があってはいけない理由を、誰が「文脈によって」説明しようとするだろうか。

 ナチスユダヤ人虐殺や、関東大震災のときの朝鮮人虐殺が悪である理由は、想像力や背景の学習がなければ説明できないのだろうか。

 

 できないのかもしれない。

 より正確に言うなら、「できなかった」のかもしれない。

 まったく見方を変えてみれば、「女性の政治参加? 何をバカなことを」「外国人を平等に扱う? どこにそんな必要が?」「自分たちを異なる人種を排斥して何が悪い?」という常識を、相手の想像力に訴えかけ、相手を教化し、丹念に駆逐して、少しずつ歪んだ偏見だと気づかせることを平等というのかもしれない。

 

 俺には、どちらが正しいのかわからない。

 正直に言って、本当にわからないと思っている。

 俺はいまだに黒塗りについて納得いっていないし、これは(比較的)リベラルを自認する俺にとって一つの汚点であると同時に、馬鹿げた話、ある種の矜持でもあり続けている。

 

 以上。今回はテーマにまとまりがなかった。