あらすじ
DVや薬物依存など、様々な問題を抱えた女性たちが共同生活を営む山中の施設で、ある夜、落雷による火災が発生する。居住者たちは命からがら建物の外に逃げ出すが、入居者の一人が連れた乳幼児を救出するため、施設の精神的支柱であった「先生」と呼ばれる女性が命を失くす。
しかし、社会の人道的アイコンでもあった「先生」の葬儀の後、彼女の遺体からわかった特徴が過去の医療記録と食い違うということ、つまり、どこかの時点で何者かが「先生」に入れ替わっていたという驚愕の事実が判明する。その正体の候補として、ある女性が浮上するが、彼女は実は…という話。
感想
サスペンス/ミステリーなので完全なネタバレは避けるが、ある程度明かしてしまうと、謎解きとしては中盤ぐらいでほぼ決着している。
「ほぼ」というのは、別に物理的に不可能ではないが、なぜわざわざそんなことをする? という動機の部分が、最後の闇として残るからだ。その闇を合理的に説明するのは、一般的な常識では至難の業としか思えないので、「さあ、どう種明かししてくれる」と考えながら付き合っていく。
結末は必ずしも、科学的と呼べるものではない。ただ、俺は腑に落ちた。
そういうこともあるだろうな、という読んでいる側の人生観と波長が合った、ということもある。ただ、何よりも篠田節子という作家の技巧に説得された面もありそうだ。
人間が生まれ変わるということ、人間が何かに懸命に努めるということ、人間が過酷な環境でサヴァイヴすること。
そして、人間が自分の罪悪を克服すること。
人間という、一つの自我を引きずってこの世を歩いている存在について、作中の大半を使って築き上げてきた価値観を、『鏡の背面』は最終盤であえて壊乱させる。大げさでなく、むなしさと救済、脆弱さとしたたかさが同時に現れる人間観を示す。
これは、人間の精神が題材となるサスペンス/ミステリーというより、謎解きの構造を使った自我の探求を描いた小説、という方が正確だと思う。
娯楽として質が低いという意味ではない。いくらか冗長だけど、抜群に面白い。
最後の、「禁断の部屋」が暴かれる場面と、奇跡的に生存していたフロッピーディスクが読みだされる展開は、戦慄と感動を同時に覚える(陳腐な表現だけど)。
どれだけ邪悪なものであっても、それが滅びることは、やはり一つの喪失なのだ。
そして、鏡という日用品が、聖人でも悪人でも、何より普通の一般人でも接するものであることを考えると、この作品が最初から誰を見つめていたのかを何となく理解して、少し寒気を覚える。
ところで、ミステリー形式を使って自己をめぐる探求を描いた小説というと、アメリカのポール・オースターを思い出す。
実際のところ、オースター作品と『鏡の背面』はけっこうよく似ているのではないかな、と思う。どちらも、「鍵のかかった部屋」が登場するし(ミステリーだったら当然ですか?)。
俺は篠田節子を和製ポール・オースターと呼びたい。この相似に気づいたのは俺だけでしょう。えへん、と胸を張っている。
以上、よろしくお願いいたします。