先日、日課である浜辺の散歩。
普段から貝殻が打ちあがっていることが多い砂浜だが、前の日に風がとても強かったせいか、あまり見たことがないほど大きな巻き貝がいくつか転がっていた。
貝は言うまでもなく生き物だが、肉体(?)が潜んでいる硬い殻のせいか、俺の中で妙な位置付けにある。生命と物体の中間という印象がある。
その一方で、不定形で、とにかく「生きている」としか言いようがない様子が、むしろ命の本質そのもののようでもある。二つのイメージが重なっている。
砂浜で貝をひろうと、その多くに小さな穴が空いている。
ツメタガイという、これも貝の一種である生物のしわざで、他の貝に取り付いて貝殻の表面を溶かし、舌の先で穴をこじ空けて中身を食ってしまうらしい。
すげーな、と感じるのと同時に、考えてしまうのだが、はたしてツメタガイ自身は自分が何を食っていると思っているんだろうか?
自分と同じ貝という生物、もしくは、何かしらの命というもの。それらを食べているとは、おそらく考えていないだろう。
きっと、感覚と本能のままに行動しているのだと思う。もっと高等な生物になれば、捕食という行為に喜びや、もしかするとあわれみが伴うのかもしれないが、貝にはたぶん存在しない。そこにも、生命の原始的なあり方というか、本質を感じる。
穴の空いた貝を拾って中を見てみると、がらんどうになった殻の中に、別の小さな貝が何枚か張りついていたりする。
少しゾッとする。
他の生命のむくろの中に無感覚に住み、暮らしていることに、一般的な意味での悪とは違う、ニュートラルな邪悪さを感じる。でも、それこそが命っぽいという気もする。
今朝の浜辺に打ち上げられていた大きな巻き貝の一つは、単に大きいだけではなく、表面にフジツボが死ぬほど張りついていた。
集合体恐怖症の人なら卒倒しているだろう。気持ちわりいな、と俺も思ったが、妙に惹かれるところもあるのだ。
このフジツボまみれの貝は、一つの貝であると同時に、極端に密接した命の群体でもあるわけだ。
命というのは根本的にお互いが仕切られていて、当たり前だが、俺の命と足元に転がっている貝の命の境界があいまいだったりはしない。貝が死んでも俺は死なないし、俺が死んでも貝は死なない。
ただ、無数の命が物理的にきわめて密に共生している目の前の姿と、貝もフジツボもおそらくは原始的な自我しか持っておらず、それはただ無色透明な本能であり、互いの区別もクソもないだろう、という想像をかけ合わせると、目の前のこれをX個の生命として考えることは適当なのか? という気もする。これは、一つのこういう生き物なんじゃないか? という錯覚が起きる。
実際のところ、もっと高等な生き物、それこそ人間も、無数の細胞の集まりであって、細胞一つは個々の染色体と栄養供給のシステムを持っていて、遺伝子はそれぞれの細胞の中で傷ついたり変性したりしているわけだから、ある意味では独立した命だと言えるかもしれない。
そういうものを統合する(していると信じ込ませる)システムを、便宜上、こころと呼んでいるだけかも、と思わなくもない。
巨大フジツボ巻き貝をつま先でひっくり返したら、驚いたことに中身がまだ入っていた。
つついてみたら、「やめてくださいよ…」という感じで弱々しく動いたので、波間までつまんで持って行った。
運が良かったら波にさらわれて海に帰れるかもしれない。その前に鳥に食われたかもしれない。帰れていたらいいと思う。