はじめに
殺された、という以外に言葉が見つからないので、こう表現するが、日本の小説で読み終わって殺された作品が二つある。夏目漱石の『行人』と町田康の『告白』だ。
圧倒的に、なぎ払われるような体験だった。自分がこれまで学んだもの、尊んでいたものがあっけなく、というか、重きを置いていたからこそ消し飛ばされ、読み終わった後は、こころの中に何も残らないような作品だった。
舞城王太郎の『淵の王』も、影響で言えば負けず劣らず大きなものがあったが、『行人』、『告白』はベクトルが異なっていて、この二作を読んだ後は、単純に途方に暮れてしまった。
どちらも20代の頃に読んだ小説だった。
何を言いたいかというと、そういう読書体験はかなり若いうちに訪れてからは、もう自分の身に起こることがないものだと、どこかでタカをくくっていた。これから先、読書で感銘を受けることは、もちろん何度もあるだろうけど、いち経験としての域を出ないだろう、と。
小説を読み終わって、自分を見失ってしまうようなことは、もう起こらないだろう、と思っていた。
『弥勒』について
篠田節子の小説である。90年代に発表されたのち、版元を変えて2019年にあらためて刊行されている。
読んでいて焼き尽くされるような本だった。あまりにも過酷で、読んでいると体力が削り取られるような内容だった。物語として登場しがちな展開や希望を、繰り返し、執拗に火で潰すような作品だった。
そして、なんというか、割りに合わない本だった。
この小説を書くために、篠田節子は膨大な量の時間を費やしたはずだ。何しろ分厚いので、原稿を書く作業そのものも当然ながら、舞台となった東アジアの美術文化、宗教から農業、軍事史まで、下地になっているものがあまりにも多く、取材にいくら時間を要したのか、見当もつかない。
それが結実した作品世界は見事だが、なぜそこまでするのか、という気持ちになってしまう。
小説を書くためにそうまでする必要があるのか、と思う。他の作家は(おそらく)ここまでしない。というか、篠田節子の別の作品でも、ここまでのものは感じなかった。
『弥勒』はどうかしている。率直に言うと恐怖心さえわく。
「ああ、そういえば」と思う。
そういえば、町田康の『告白』も、同じように「割りに合わない」本だった。
すさまじい分量で、詳細な小説だった。当時の風土、文化に関する取材、作家本人の美意識、作家自身への愛情とそれさえ超えようとする意志、すべてがぶち込まれていた。そこには一人の殺人犯の心境を描くためにわざわざ新造された一つの世界があった。
割りに合わないなあ、と感じさせる本だけが持つ迫力がある。
作家が調べたもの、作家が費やしたもの、あるいは犠牲にしたもの、色々なものが想起させられて、読みながら首根っこをつかまされて、作家がまみれていた血や泥に顔を漬けられるような作品だ。
小説はここまでしないと読んでいる人間を殺しきれないのかもしれない。このぐらいやらないと、「傑作」「名作」で済まされてしまうのかもしれない。
じゃあ、「割りに合わない」作品は、本当は割りに合うのか。
それだけの労力を費やすことで、はじめて、読んだ側に規格を外れたインパクトを与えられるわけだから。
それでも、俺は「やっぱり割りに合わないよなあ…」と思ってしまうのだ。
『弥勒』は新聞社で美術展の企画などをやっている男性が主人公で、若いころに東アジアで訪れたパスキムという架空の国の美術展を開こうとするのが物語の発端だ。
何か有事が起きたらしく不穏な状況のパスキムを調査するため、現地に入った男性は、反政府クーデターに巻き込まれて山村に隔離されてしまう。そこで他の国民とともに生活することを命じられ、それまでの文化・風習を廃絶しようとする反政府軍によって望まない結婚までさせられるのだが、変化はそれにとどまらず、状況はクーデター派の思惑さえ超えて、果てしなく混乱し、悪化していく。
人間の希望が裏切られる様子を、「あざ笑うように」と表現することがあるが、すべてが際限なく崩壊していく『弥勒』においては、それがあまり当てはまらない。
その様子を見て笑う誰か(神? 悪魔?)の存在など感じさせず、無関心の冷たささえなく、何もかもがフラットに意味をなくしていく。
反政府軍が開始した、はじめはうまくいっていたように見えた農政も、失脚した元国王の知性も、西洋があこがれる東洋的な神秘も、西洋科学も、若い世代への希望も、相いれないはずの陣営との融和も、新しい生命の誕生も、すべてが無価値になっていく。
それを見ている感覚は不思議なものがあって、まず、「すごく良い」とされていたものに血がぶっかけられて破壊される。
「その次に良いもの」にも、同じように血がぶっかけられる。破壊されるものの価値がどんどん低くなっていって、しまいには最初から血だまりだったものに血をかけているような、まったく無意味な行為になる。
それから、こんな気持ちになる。
最初にあった「すごく良いもの」は、一体なんだったのだ? ということだ。
それは本当に、「すごく良いもの」だったのだろうか。というか、俺たちの歴史上で、本当の意味で「すごく良いもの」が築かれたことなんて、あったのだろうか。
こんなことは言いたくないが、たぶん、本当はなかったのだ。
あえて言えば、「そんなものは本当はなかったし、これからも生まれることはない」という悟りだけが、かろうじて価値を持っているのだ。
仏教では、いまから五十六億年後に弥勒菩薩がこの世に生まれて人間を救うとされている。
あまりに遠い未来すぎる。遠すぎて、そこには一つの含意があるように思う。
つまり、これだけ膨大な時間を待つ意味はもはやない。すでに答えは示されているのだ。
この世を冷静に観察する限り、世界にも人間にも意味はまるでなく、そして、その真理だけが救済なのだ。五十六億年待つというより、五十六億年後も変わらない真理として、それはすでに示されているのだ。
こんなこと、小説で書いてどうする。
そして、読ませてどうする。
「割りに合わない」というのはこういう点にも関わっていて、篠田節子が費やした労力というだけでなく、物語のメッセージそのものが、あまりに異質過ぎる。
感動させるとか、勇気を与えるとか、逆にショックを与えるとか、そういうベクトルから完全に逸脱している。絶望さえできない。
それでも、俺は『弥勒』を読んでよかったと思う。まあ、よかったんじゃないかな。
エンディングはいくつか解釈ができると思うが、五十六億年後の弥勒という、冷徹でさえない、ただ単純な真理に手を置きながら、かろうじて人情というものの存在感にこだわるような結末だった。
その点は『行人』とも『告白』とも違う。上手く言えないけど。
一番近い表現では「落としどころ」だが、そういう妥協的な感じでもないし。とにかく、『告白』ほど「もうどうにもならん」という感じではない。
宇宙の彼方で太陽が冷たく凍りつくのを眺めるような時間のスパンを含めた物語として、その意味するところを意識しつつ、生きることを続けようとする、まあ、このエンディングしかないんじゃないんだろうか。これしかないんだけど、ちょっとすごすぎるよな。
以上、よろしくお願いいたします。