中二病は色々なかたちで発症するが、俺の場合は「絶望したい」というのが大きかった。
世の中に、そして自分にも絶望したいと思っていた。これからどんな幸せも劇的な展開もなく、なにも起こらないことを自らに対して徹底的にわからせたいと思っていた。
世の中の悲惨な出来事を不健全なほど追い求めて、そこに救いがなければないほど、なぜか安心した。現実以外でもたくさん本や映画に触れて、ペシミスティックな作品もかなり多くて、でもその感覚が好きだった。
何かに絶望している、というのが俺にとっては知性や成熟ということだった。『死に至る病』は、ちんぷんかんぷんなものがほとんどだった哲学・思想書の中で、数少ない腑に落ちた作品だった(ちなみに『死に至る病』における絶望はフックにすぎず、最終的には希望を目標とする本ではある)。
結局、俺にとっての絶望とは同年代に、それから大人に対しても先んじるためのもので、根本には教養を身につけたい、という願望があった。それが「どこにもなんにも希望はないことを、心底から実感したい!」という姿かたちを取ったわけだ。
それを突き詰めたところで本当に「絶望」できるのか? とは、俯瞰してみると思う。だって、本当の入り口は誰よりも教養人になりたいという「希望」なわけだから、トンチンカンなことになっている。
でも、知識が欲しいという願望そのものはいいことだ。あんまり頭のよくない方法ではあったけど、憎めない気がする。我ながら。
30代半ばになった現在でも、もっと絶望したい、もっと、もっと悲観的になりたい、救いのないものに触れたい、という欲求は十分に残っている。でも、それも適当なところで切り上げないとな、と思っている。そういう理由でこの文章を書いてる。
世の中にはひどい物語、悲惨な話があふれていて、でもそれを好む人もいて、なんでわざわざそんなものを、と不思議に感じる場合もあるだろうけど、あれは本当は安心したいのだ。
普通に考えたら、陰惨なストーリーに触れたら気持ちが不安定になるんじゃないの、と思うかもしれないが、逆なのだ。
俺たちは、ひどい物語や悲観的な思想と接することで、子どもの頃から自分の中にあった大切なものや汚れのついていないものを徹底的に破壊しておとしめたいんだ。
その方が安心する場合もある。
ある意味では、絶望ほど安定した心の状態はないと思う。
もちろん、安定しているから全然問題ない、というわけではない。
単純にハッピーな状態じゃないからな、というのもあるが、なにしろある意味ではすごく安定した状態なので、これはこれで住み心地がいい。よすぎる、これが問題だ。
不安定さがないものには、なんというか、魅力がない。つまり、希望がない生き方には。
俺たちの人生では、希望が叶うことはあんまりなく、これは大きければ大きいほど難しく、時間の経過とあわせて抗いようがなくすり減っていくのを知っているので、持たない方が合理的なのだが、そういう不安定さをあえて抱えることだって大事だろう。
世の中には希望と一緒に歩いていく強さをはじめから持っている人もいて、その立場からすれば「何をいまさら言ってるんだ?」という感じだろうし、俺もそう思う。
でも俺の場合は絶望がスタート地点にあったから仕方がないのだ。ずいぶん遠回りをしたが、ようやくそういう状態になったのだ。
別に、だからといっていきなり楽天的に生きていけるわけではなく、基軸としてペシミスティックなところが大きくて、木っ端のような望みを忘れずに持っている、という具合だろうけど、それでいい。それが俺のアンバイだ。
希望は大事だな、と自分なりに思えるようになった。俺にもそういう時期が来た。そのことにけっこう救われている。