叔母に似てきたことについて

 三十代半ばの男なのだが、年齢で言えば二回り以上離れた叔母に、色々と似てきた気がする。見た目ではなく、立ち振る舞いが。

 俺は声が低いうえにあまり滑舌がよくないので、店先で注文するときなど平時よりトーンを上げてゆっくり喋ることをこころがけているのだけど、さっきファストフード店で若いあんちゃんにハンバーガーを頼むとき、生き霊がのりうつったのか、ぐらい自分の口調が叔母に似ていてびっくりしてしまった。

 

 叔母は接客業が長くて、還暦を過ぎたいまでも、客というテイでやってくるろくでもないのから仕事中に苦労させられている。

 そのためか、自分が客になるときは特徴的と言ってもいいぐらい丁寧に店の人と接していて、まあ自分が客の立場に回ったときは相手に不快な思いをさせないように気を遣ってるんだろうな、と思いながら、そのやり取りを以前から見ていた。

 だが、まさか自分がそうなるとは。俺はデスクワークだけど、それでも「他人に圧をかけることで変に成功体験を得たせいでいい年こいてずっとその戦法にハマってるバカ」には一定の割合で出会うので、自分ではそうならないように気を付けた結果、こうなったんだろう。

 で、店のあんちゃんから受取り待ちのプレートを渡されて、ひょこひょこ椅子に座ろうとしたときも、ああ、叔母さんもこういう歩き方をする人だよな~、とあらためて思う。

 叔母は身長が170㎝弱くらいあって女性としてはかなり大柄で、でも、自分のイメージしてる身体はそこまでデカくないのか、感覚と現実のサイズ感が食い違っているのが少しだけ居心地が悪いように見えて、外に出るとよくそうやって身をこごめて歩く。俺も180以上あってけっこうデカいんだけど、そうか、こういうところまで似てくるのか…。

 両親になら似てるところはたくさんあって、それがこれからも増えていくのかな、という気はしていたし、親を飛ばして祖父母と孫が似る、というのもよく聞く話だけど、まさかここで叔母が来るとは予想外だった。驚いた。

 

 遺伝子おそるべし、なのか。

 シッダールタ・ムカジーというめちゃくちゃ面白いノンフィクションを書く医師兼作家がいて、この人の著作である、その名も『遺伝子-親密なる人類史-』という作品に、遺伝子が人間の行動に及ぼしたと思われる信じがたい逸話がいくつも出てくる。

 双子として生まれたある姉妹は、一方は下位中産階級、一方は上流階級の娘として別々に育てられた。二人とも笑い上戸で、IQテストの点数は同じ。いくらかオカルトめくが、どちらも幼いころに階段から落ちて足を骨折していて高所恐怖症。二人とも社交ダンスのレッスンで結婚相手と出会っている(もしかすると、当時はそれがよくある出会いの場だったのかもしれないが)。

 また、別の男性の双子は、一方はユダヤ人の家庭、一方はカトリックで育つ。二人ともかんしゃく持ち、どちらもウソのくしゃみをする奇妙な癖があり、トイレで用を足す前と後、計二回水を流さないといけないという強迫観念を持っていたという。

 

 もちろん、双子でも違う部分がたくさんある。

 遺伝子の影響は強烈であり、ムカジーが紹介したように、外見だけでなく癖や思考の傾向にまで及ぶ可能性があるが、遺伝だけですべてが決まるわけではない。いわゆる生まれと育ちでいうところの育ちの方、環境が及ぼす影響もおおいにある。

 だから、『遺伝子』という本だけでなく、遺伝学そのものの理解として、遺伝子がすべてを支配しているという考え方は曲解だろう。あるいは、遺伝子それ自体は逃れようのない設計図かもしれないが、エピジェネティクスと呼ばれる、遺伝子における後天的なスイッチのON・OFFが環境や経験からもたらされることもあるため、いずれにしても人間は「育ち」からも逃れられない。

 遺伝子による影響の強さがわかればわかるほど、逆説的に、環境からもたらされるものの大きさもわかってくる。ムカジーも、「遺伝子を共有する一卵性双生児がなぜ同じか、という問いより、『なぜ同じでないか』という問いの方が重要だ」ということを書いている(はずだが、引用しようと思ったら原文が見つからなかったので、みなさんは自分で読んでください)。

 

 俺が叔母に似てきたなあ、というのは、そもそも俺があの人を割りと観察していたからかもしれない。それがなければ、俺は自分の癖に気づくことはあっても「誰かに似てきた」とは認識できなかったはずだ。

 つまり、「似る」ためには、(第三者に指摘される場合を除けば)ある程度、他人への理解と一緒にいる年月が要るのかもしれない。

 そういう意味では、親には「似やすい」が、祖父母はかなり苦しい。

 曾祖父母となると、もうどうにもならない。っていうか、曾祖父母っていま考えたら八人もいるのか。多すぎる。そんなにいるのにほぼ誰も知らん。

 別に、人間は誰かに「似る」ために生きているわけではないし、似ていることが苦しさにつながる場合もあるだろうから自覚できなくても良いっちゃあ良い。

 そもそも、遺伝子が同じとか受け継ぐという考え方自体が大きなお世話で、不自由なのだ。

 例えばサイコロの目は大抵1から6で、それは他のサイコロも1から6だからお手本にして同じにできているわけだけど、スゴロクで6を出そうが1を出そうが、それが他のサイコロのおかげだったり責任だったりしないのと同じことだと思う。そうでもないか。

 ただ、俺は割りと両親のことだが好きだし祖父母のことも好いていたのだった。まあできるだけ観察したり、思い出したりして、「おっ、こんなとこが似てきやがったか。しょーがねーな」と思おうと思っている。

 

 以上、よろしくお願いいたします。