www3.nhk.or.jp 先日、両親と会って食事をする機会があり、そのときにこの事故の話題が出た。
母と父は事故に対するとらえ方がそれぞれ異なっていて、俺はというと、父寄りだった。そのせいで、険悪というほどではないが、少し緊張感のある時間帯になってしまった。
もちろん、いたましい事故であるという点ではみんな同じだ。その上で、母が「高齢者が深夜に工場で仕事をしていたこと」に同情を示していたのに対し、父と俺は「仕事があること自体は、収入面でも社会に参画している自覚としてもいいことだろう」という考えだった。
補足する必要があると思うのは、父はメーカー勤めが長いため、深夜に工場が操業しているのは当たり前、という認識を持っているところだ。つまり、夜勤は自然に発生するものであり、やりたくないけどやらざるを得ない労苦である、という感覚があまりない。
これはこれで正しいと思う。少なくとも簡単には否定できない。
問題になるのは、こうした合理性の追求がどこかで人間の尊厳を傷つけていないか、ということだろう。
そして、おそらく母の方はこの尊厳に重きをおいて、深夜の清掃業務を「労働者としてできればやりたくないが、就業しなければ生活していけない労苦」として認識していた。
あらためて考えてみれば、あえて深夜帯を好んで就業する者が多いとは思えないし、母の考えているとおり、「生活のためには年金だけでは生きていけず、やるしかない」という方が現実に近いように思う。父も俺も、どこかで想像力が欠如しているのだろう。
一方で、父の持っている「工場というのは普通(この『普通』も問い直しがいるのかもしれないが…)、夜も稼働しているものである」という感覚を母がふまえていたとは思えない。
大げさに言えば、そこには誤解が生じていたように思う。父も俺も、想像力がゼロというレベルで欠如しているわけではなく、これまでつちかった感覚によってこう考えざるを得ないところがあるのだ。だからそれを修正しろ、ということかもしれないが。
最近、生物の遺伝に関する本を読んでいて、遺伝というのは生物学的にはもちろん、文化・伝承の面でも似たようなことが起きるわけだけど、自分を「間の世代」として認識することが多くなった。
独身のまま30代半ばを過ぎた俺が、将来子どもを持つ可能性は年々低くなっているが、もしも父親にならなくても、下の世代というのはどんどん出てきて、一方で俺より先にこの世に出てきた上の世代も当然いて、俺はそこにはさまれた間の世代、ということだ。
togetter.com ここにも似たような話が出てくるが、ある存在Aと存在Bは常にどこかに相違を抱えている。
というか違うからこそ区別されるわけで、その差異は一つの誤解であったり、不可避的に移行していく価値観であったりする。
そして、AとBの境界にはどちらにも属したり属さなかったりする日和見的な存在がいる。それがたぶん、俺なのだと思う。
境界にいる者に何か役目があるとすれば、それは双方の誤解にまつわる溝を埋めたり、また、そこで生まれようとしている価値観の変遷が歓迎すべきものであれば、せめて先住者とのハレーションが弱くなるように努力することなのだろうと思う。
まあ、正直言って共同体における役割なんて柄ではないので、余裕があったらな、ぐらいのつもりではいるんだけども。
ここからは余談。
妙な話だが、今回の家族の一件で両親への愛着が少し増しているのを感じる。
妙な話というのは、母親の人道主義的な部分を誇りに思うのは当たり前として、父親の合理性、もしくは前時代的な性格をあらためて見た上で、それが母と混交した結果としていまの俺の人格があるな、というのをあらためて感じたからだ。
想像力の不足や冷徹さは(ボロクソ言ってるが、父当人は基本的に好人物で、そういう面がある、という話)、もちろん減じていくべきなのだけど、単に「なくなることだけに価値がある」という純粋なマイナスではなく、なんというか、これも混合・多重性という新しい存在を生みだす一つの要素と見なされるべきというか、俺もそうやってできているし、まあ誰もがそういうものとしてあるんじゃないのか、と思う。もちろん、それが家族という呪いと裏表だとしても。
以上、よろしくお願いいたします。
追記:死者を出す事故と労働環境に関する問題が、家庭とジェネレーションギャップの話になってしまったのは、故人と周囲への想像を欠いていたと思う。お詫びいたします。