2022年のブックマークについて ⑩

togetter.com あらためて考えるとみんなよくあんなもの乗っているな、と思う。無免許です。

 

www.afpbb.com 以前、こういう記事を書いたことがあって、スポーツ選手だとか伝統芸能の家に生まれた子とか、周囲からの期待や、勇気や感動をくれてありがとう、ありがとうという言葉の裏に、「お前、この状況から逃がさねえからな」という強大な束縛が見えて、それって本人は幸せなのか? と毎回思う。

 「お前をここまで育てるのにどれだけ時間かけたかわかってるか?」

 「お前に関わる仕事で、いま何人が飯食ってるかわかってるか?」

 きつすぎる。

 関係ねえだろ、と思ってしまう。

 辞めたかったら辞めていいのだ。

 余談だけど、『嫌われた監督』という本がスポーツ嫌いの俺にも面白かったのは、野球というチームスポーツについて、「結局、球団も世間もお前の人生を保障できないぞ。お前らは個人事業主なんだぞ」という落合氏の思想が興味深かったからだ。それが逆説的に、最後は集団としての結束につながっていく展開には感動と寒気を同時に覚える。

 本題に戻ります。

 難しいのは、辞めたければ辞めていい、というのが選手やタレントにとって絶対尊重されるべき権利である一方、おそらく「辞めたかったけど辞めなかったやつ」しか金メダルや傑作に到達できないということだ。

 もちろん、毎日の練習や思い通りにならない成果にまったく「辞めたい」を起こさない天才もいるかもしれないが、多くはずっとずっと辞めたいのではないだろうか。それを、血と涙でどこか狂ったようになって沈黙させながら努力しているのだと思う。

 そして、仮に辞めれば、空いた席は次に控えている誰かの物になる。きっと、それだけのシンプルな世界でもある。

 辞めたくても辞められない。

 実は辞めてもいい。

 でも、辞めなかったやつしか頂点には立てないし、辞めればそれは別の誰かのものだ。だから、結局、辞められない。

 記事に対するトーンはロシアという国の特性と関連付けた意見が多いけど、実際は、コーチや指揮官に強い権限があるスポーツ、芸能、なんでも同じことが起きてるんじゃないのか? と思う。

 なんかもうさー、終わりにしようぜ、と思う。

 それでも簡単に言い切れないのは、彼らの提供する感動や作品を俺も消費している自覚があるからだ。

 音楽だって映画だって、追い詰められた誰かと追い詰める誰かの緊張の臨界と、その根底にある狂気を抜きにして「良いもの」ができるのだろうか。

 できるんだろう、できるべきだ、と言いたいが、俺も結局、自分の代わりに誰かがギリギリになってるのが好きなんだろうな、と思っている。イヤだな。

 

 以上、よろしくお願いいたします。