『実話怪談 蜃気楼』の感想について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミです。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 実話怪談というジャンルほどネタバレがもったいないものはないので、レビューの途中でも内容が気になった方は、そこでぜひ読むのを止めて、本自体に触れてもらえれば、と思います。

 

 よければ、こちらもどうぞ。

sanjou.hatenablog.jp

 

総評

 

 色々言いたいことはあるが、ぐちゃぐちゃした感じになったので、くわしくは、下記の「あらためて、総評」で。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

 

各作品評

 アフリカの蟻塚…◯

 静寂…◯。普通の風景に異物を一個放り込むだけでこっちの現実を揺すぶってしまう、たまにそういう怪談があるが、この話の水準までいくと詩の領域だと思う。

 顔…◯。後述。

 姉の血…◯

 セナ…◯

 鹿の葬式…◯

 やわらかく…◎。後述。

 光…◯。後述。

 峠…◯

 奥の院…◯

 心霊写真…◯。後述。

 肉袋…◎。民俗話の雰囲気。平山夢明の『顳顬草子』というシリーズに『せせらぎ』という不思議な作品があった。山中の出来事は、まあ、山だしな…と妙に納得してしまう。

 ナナフシ…◎。後述。

 脳穴…◯。後述。

 ケネディ…◯

 うろたえないで下さい…◎。後述。

 夢ヶ岳…◯

 記憶の海…◯。後述。

 富嶽…◯。後述。

あらためて、総評

 『やわらかく』について。すごい傑作だと思う。怪異が去った後に目で見える変化が起きた結果として、ここまでささやかで、滑稽で、何かがあとに残ったことと喪失感が一緒になってるものをはじめて見た気がする。

 

 『光』について。最後にものすごく俗なところに着地するのが好きな話。

 「オバケ」は記憶の大事な要素なんだけど、同時に単なる一部分に過ぎず、様々なものが不可分にぐしゃぐしゃになって、色褪せていく一方で時間が経つとともに思い出なりの価値を新たに得ていくような、そういう読後感がある。

 

 『ナナフシ』。怪談について、何が起きるかよりも当事者がどう感じたかの方がずっと大切だと思っていて、幼い頃に「おかしなことが自分の身に起きた」とき、恐怖よりも、「親に怒られる、そして悲しませる」ことが優先してしまうという心情はよくわかる気がする。話の最後、怪異を体験したもの同士さえ引き離されてしまうのも良い。

 

 『顔』『心霊写真』『脳穴』『うろたえないでください』について。大げさに言うと、これらの話には怪談の本質が表れていると思う。

 よく言われることだが、怪談は体験者がオバケと「遭って」しまうことで生じると同時に、オバケと波長が「合って」しまった結果でもあり、最後は、怪談とそれを読んだ読者の波長も「合う」ことで成立する。

 実話怪談で肝心なのはこういう因果や共振に対する意識であって、実は話の中で人が死んだりむやみに不幸になったりする必要はどこにもない。

 ここで挙げた怪談はどれも、お化けと体験者の何かが噛み合ってしまった結果という感じがして、起きた出来事は不条理や不穏さに満ちているが、起きたことそのものより、理解不能なその共振の方がよっぽど気味が悪かったりする。

 もう少し書く。

 この手の怪異と共振すると、たぶんその後、体験者にあることが起きる。

 怖い、気味が悪いのは当然として、その体験者はおそらく「分裂」してしまうのだ。それは、体験者が無意識に抱えていたつらい孤独とか、負の感情とか、そういうものに引っかかって怪異が起きることがうっすらわかり、オバケが自分の隠していたもののある種の鏡として発生するからで、これをモロに喰らうと人間の表層と無意識がベリベリ二つに割れる。

 すごく嫌で怖いことだ。こういう、自分の暗部を明かされたり、自分の本質が不明になることに比べれば、怪談のフォーマットでよくある呪われた儀式とか末代まで続く祟りとか、あっていけないとは言わないが、どうでもいい。体験者(とその怪談を読んだ自分)の正気があやふやになることと比較したら、呪い殺されることなんてなんでもない(ことはないか)。

 

 『記憶の海』。「分裂」にはもっと単純なパターンもあって、忘れていた記憶を思い出す、ということもその中に含まれる。『記憶の海』ではこれをポジティブに描いていて、似たような体験の持ち主同士の出会でそれが揺すぶられる。『蜃気楼』のすごいところは、分裂の不穏だったりネガティヴな面を書いた後にこういう話が出てくる点だと思う。

 

 『富嶽』。読んでいて考えていたのは、幸せになって欲しい、ということだった。

 自分の知らない面を知ってもあまりいいことがないのと同じで、他人の知らない面が明かされてもいい結果にならないことが多く、『蜃気楼』は『アフリカの蟻塚』や『セナ』、『心霊写真』という話で繰り返しそのことを書いている。最後の『富嶽』ぐらい、それが反転したっていい、と思って読んでいた。

 鈴木捧はどこまで意図して、『富嶽』を最後に置いたのだろうか。自分と他者の隠していた領域が、『蜃気楼』においてずっと、ビターだったりただ不穏だったりするかたちで明かされてきた中で、最後が『富嶽』だったのは、たまたまな気もするし、狙っているような気もする。

 

 『蜃気楼』では怪談の本質(だと俺が思うもの)をつかまえた上でそれを明にも暗にも別の方向に追いかけ、一方で、ときには民俗話のようでもあり、あるいは脈絡のない鮮烈な写真のようであったりもした。

 

 俺は消費者なので、良いと思ったら少しでも売れて欲しいから良いと言うし、悪いと思ったら、まあ積極的にマーケットから消えるべきだとは思わないが、悪いと言う。

 ただ、あまりにその作品が良いと、その作品に関する言説が形成する空間というか、圏内に1mmでも存在したくなくなってしまう。「良い」という自分の発言や、どの点を評価したかが、その作家のこれからに微塵でも影響することを自分に許せないからだ。

 これを一般に自意識過剰と言うが、とにかくそうなのだ。そして、自分の感想が何かの影響を及ぼすと想像(妄想)したときに、ものを作るというのはいわゆるスクラップアンドビルドの部分があるだろうし、純粋に長所を伸ばそうとしても、次の作品が常に前の傑作をどこまでも上回っていくわけじゃないだろうから、あまりによくできたものを褒めるのは、俺の中では解きようのない呪いを遠方からかけるようなものなのだ。だから、褒めたくないのだ。

  そういう理由で『蜃気楼』の感想をしばらく書かなかった。それから時間が経ってだいぶん、(自分の葛藤が)どうでもよくなったので書いた。

 

 鈴木捧の次の作品は『蜃気楼』を超えるだろうか? 超えないかもしれない。次の次は? わからない。ずっと超えないかもしれない。それでも俺は買い続けるだろう。よりすごいものが出てくると期待して。そのぐらい良い作品だった。俺に呪いをかけた。あとは特に言うことはない。

 

 第51回はこれでおわり。次回は、『怪談奇聞 憑キ纏イ』を紹介します。以上、よろしくお願いいたします。