倫理とマナーについて

 エスカレーターの右側を、歩いて昇降する人のために空けておくというマナー?があまり好きではなく、というかマナーではないよな。鉄道の方は歩くな、と言っているのだから。

 そう言いながら、実は急いでいるときは俺もそこを歩いてしまう。自分勝手だけど、もしも誰かが右側で立って止まっていたら、俺もみんなも立ち止まるしかないよなあ、とは思っている。だって、そういう決まりなんだから。

 少し前に、エスカレーターは止まって乗りましょう、というキャンペーンをやっていたが、すぐになくなってしまったし、結局は効果を残せなかった。あのとき、「そうですか、公式に今日からそういうことにするんですか」と思って右側に立って止まって乗っていたら、後ろから来た人にものすごく嫌そうな顔をされたのを覚えている。

 前述のとおり、俺も急いでいるときは歩いてしまうので大言はできないのだが、「エスカレーター、止まって乗りましょう」「乗りましょう」とポスターとか自動音声とかで案内されている中を、大人たちはすいすい歩いて移動している、小さい子どもはそれを見て「???」とはなるだろうな、とは思っていて、だから俺は基本的に止まって乗りながら、それでも、ときどき歩いてしまったりしている。

 

 少し前の事件だが、電車内で煙草を吸っていた人間に注意した高校生が車内で暴行を受けた事件があって、俺だったら注意するかな、たぶんしねーだろうな、と思う。

 社会の中で明らかにやってはいけないとされている違反があって、そういう社会で自分より長く生きてきたはずの大人たちがそれを無視していて、若い自分がそれに声を上げた結果として体や心に傷を負ったとき、子どもはどんな気持ちになるのだろう?

 「明らかに話が通じなさそうなヤツ、ヤバそうなヤツには触れない方がいい」というのは、処世術として事実だろう。

 ただ、それが「接触するのは『よくない』」に反転し、さらになんというか、日本語的に『よくない』→『善くない』に展開して、「危険そうなヤツにわざわざ注意する方が道徳的に『善くない』」みたいな雰囲気が生まれている気がするが、これはゆがんだ変な話で、悪事を注意するのは『善い』に決まっている。大抵の人間にはできないだけだ(そして俺もできない)。

 

 今日の昼間に銭湯に行ったら、一人のジイさんがゲロ吐いたときの後半戦ぐらいに出るような咳を口もふさがずにずっとしていて「イヤだなあ」と思った。

 マナーや常識を守れない人と一緒にいるのはストレスなのだが、たぶん一番いらいらするのは次のようなことだと思う。

 みんな、自分が正しいと思って生きていきたいのだけど、「手間をかけて嫌われてまでこれから正しいことをする」のはイヤなのだ(この場合は、ジイさんに「咳するなら口押さえてくれねえかな」と声をかけること)。

 この社会でときとして出会うまともじゃない人間というのは、こうした「面倒な善行」を今からするかどうか、言い換えると、「お前自身は本当はどの程度まで『正しい』のか」を内心で問うて来る存在なので、それがうっとうしいのだと思う。まともじゃない人間自体というより、それが呼び起こす自らの正義感の葛藤がストレスなのだろう。

 自分は正しい、と感じるときの「正しさ」は快感だけど、手間やリスクを伴って選ばされる、まだそこにない「正しさ」は不快以外の何物でもないというか、妙なメカニズムだけどそういうことだと思う。

 一応、言い添えておくが、ジイさんが銭湯で見せた様子を批判しているのであって、ジイさんが総体としてどんな人間か、までは何とも言えない。意外と、風呂から出ればまともな人物なのかもしれないし、風呂を出たら俺の方が異常なふるまいが多いかもしれないな、とも思う。

 

 余談だが、「口をふさがないでずっと咳してるのイヤだなあ」というのを、いま考えると、実際の衛生というよりマナーの問題として認識していた。

 普通にコロナ感染者だからリアルに危険、という可能性もあったはずなんだけど。やっぱり、どこかで緊張感は失せつつあるんだろうな。

 

 大人には正しくあって欲しいし、自分も正しくありたいと思う子どもだった気がするが、気がつくと全然正しくない大人になっていて、子どもたちには申し訳ないと思っている。すまん。君らが頑張ってくれ、と願っている。