生命、街、組織と個人について 1/2

 生命の本質というか役目とは死ぬことなのだという、逆説的な考え方があるらしい。

 これは命の一つ一つに注目しても見えてこない話で、一つの種族、あるいは種の境界さえも超えて、命の総体として見た場合にあらわれる視点だ。

 まず、ここでは個体のことはいったん忘れる。一人の夢とか一匹の希望とか、いったん脇に置いてしまう。

 そして、生き物が全体として目指すところとは何かといえば、より環境に適した姿かたちで効率的に増え、拡大することである(最低限、生存し続けることである)、と考えてみる。

 その上で一人や一匹をあらためて見てみると、全体の一部としての俺たちに期待されていることとは、今の自分の場所やそこにある資源を利用して拡大し(もしくは、せめて保全し)、最後はより優秀な「次の世代」に譲り渡すこと、ということになる。

 俺たち(人間)、もうそんな野蛮な自然的なステージは脱してるだろ? と言いたくなるが、政治を通じた社会の変革とか自然保護とか、結局は同じ話なので、全然通用してしまうのだ。

 そして、譲り渡すとは、古い世代がいまいる場所をどくこととセットでなくてはならない。空間的にも、文化的にも、先住者はその場所から消え去って、次の世代に明け渡さなくてはならない。

 それは消滅、死によってなされるのがもっとも効率的である。というわけで、生き物の(最後の)役目は死ぬことだ、という理屈らしい。

 

 この説に納得がいくかいかないかはともかく(俺自身はまあ、半々ぐらいのノリ)、いわゆる優生学と慎重に区別する必要があるのは、強調しすぎることはない。

 こうした生命観が優生学と根本的に違うのは、環境に適合して拡散し、生き残るべきものは何か、その「優秀さ」の定義を、たかが人間の物差しでは決められないとするところだと思う。

 「優しさ」や「弱さ」、「一見した不効率性」でさえ、大きな生命の視点においては、「力強さ」や「知性」と等価に扱われる(そして、試される)。

 そこに簡単な優劣はない。

 人間を例に考えれば、俺たちがここまで繁栄できたのは、他の種族より強く賢く、残酷で、同種の中でさえ差別化を推し進めたため、それだけではない。

 反対に、弱く(だから、集団で高度なコミュニケーションを取らなくてはいけなかった)、優しくもあったからだ(だから、福祉や衛生を重視し、多様性から価値を引き出すことができた)。

 優生学的に表面的な弱さを嫌い、わかりやすい合理性を追求すると、おそらく、その種族は理想に反して、衰退するか滅びるのではないか。むしろ、社会的弱者への救済をおろそかにしないこと、福祉の充実と「種としての強さ・柔軟さ」は両立する可能性さえある。

 というか、根本的に、強さ・弱さという物差しにとらわれないというか…。

 そういう意味で、繰り返すが、生命は適合し拡散する、という生命観と優生学とはイコールではない。

 ただし、それでも最後は、個々の命は次の命のために死ななくてはならない。それは、いずれ来る運命というだけではなく、期待される役割として。

 

 何ヶ月か前、住んでいる街の一画でけっこう大きな火事があった。

 火元の木造建築が全焼してしまっただけでなく、隣接していた店にも延焼、いかにも「現場でした」という具合にあちこちにススがこびりつき、一帯にはしばらく、木が燃えるときの甘いような匂いが漂っていた。

 そのエリアだけなんとなく、現実の種類が違うというか、原材料の違う異質なブロックが入り込んだような感じになっていたのだ。

 先日、その火事跡の前を通ったら、焼け跡にかけられていたビニールがはがされていただけでなく、いつの間にか、コンクリが打設されて鉄骨を組む作業が始まっていた。

 俺は立ち止まって、傷のない真ったいらな白いコンクリートと、グリーンに塗装されたぴかぴかの鉄骨を見ていた。

 その土地が空くのを虎視眈々と待っていた、そう表現すると言い過ぎだろう。

 ただ、その風景に「たまたま古いものがどいたので、建てました」というのとも異なる、能動的な、何か大きなものが動くのを感じた。こうやって、基本的には、より効率的でタフなものに置き換わっていくんだろうな、と思った。

 ニュアンスが難しいが、「古いものが消えた」「新しいものができた」というぶつ切りになった二つの事実というよりは、「古いものがどいたおかげで新しいものが建てられた」という方が近い気がする。もちろん、結果として前のものの方がよかった、ということもあり得るので、簡単には評価できないんだけど。(続く)