雑誌を読むのがヘタな人間について 1/2

はじめに

というか

 twitterにそういうことを書いた。

 そして唐突に、あることに気づいた。

 人文系の雑誌に限らず、どうも俺は、何かしらマガジンというものを読み終わった後に堪能した感覚がちゃんと残らないというか、腑に落ちた経験があまりないのだ。

 俺は毎回、読み終わった後にこう感じている。

 「あの記事とあの記事は面白かったが…ううん?」

 

 そもそも、特定の雑誌を習慣的に購入するほど接点が多いわけではない。

 特集が気になったときの『BRUTUS』と『ナショナルジオグラフィック』、ごくごくまれに『新潮』や『群像』、『MONKEY』などの文芸誌を買うぐらいだ。

 その上で、他の小説だとかノンフィクションのように、一冊読み通して「ああ、面白かった」という余韻を得ることがあまりない。

 雑誌を読みとおした後はいつも、例えるなら名称や具材どころか味付けも不明のよくわからない料理を食ったみたいな、不満とか文句があるのとも少し違う、釈然としない感じが残ることが多い(まあ、好んでそれを買ったのは俺なのだが)。

 

 おそらく単純な理由だと思う。

 だが、その理由は、単純なりに二種類に分かれている。

 それを整理していく。

 

 まず文芸誌だが、これを通して読み終わってあまり腑に落ちない理由は、そもそも「すべて読み通す」からだと思う。

 「文芸」というくくりだけで集められた雑多な書き手の文章を律儀にすべて読み、その上で冊子全体を評価しようとしているからそうなるのだ。

 雑誌によって、編集方針と呼ばれるものは当然あるだろうが、思想も美学も違う人たちによる文章を集めているのだから、全部の作品を口にしたときの感想が「ところどころ変な味がしました」というのは当たり前であって、雑誌という、読んで字のごとく、「雑」な読み物を通して消費した結果、「全部おいしくいただきました」という方が珍しい。なんなら、少し恐ろしくさえある。

 

 なぜ文芸誌をわざわざ全部味わおうとするか、謎である。

 例えば、文芸誌以外の雑誌で、俺は『少年ジャンプ』をジャンプ全体として味わったことがない。

 俺にとってジャンプとは、『呪術廻戦』が載っていて『Dr.STONE』が最近まで載っていて『HUNTER×HUNTER』がずっと載っていない(近々載るかもしれない)雑誌だ。

 通しで読んだら、おそらくところどころ口に合わない部分があるだろうし、それを知っているから、そもそも通しで読まない。

 このように、ジャンプではできている「つまみ食い」を、文芸誌ではなぜかやらないで、読み通そうとするからおかしいことになるのだ。

 

 ただ、素朴な疑問なのだが、じゃあ文芸誌やマンガ雑誌などの雑誌をつくっている側は、どういうスタンスでこれを世に送っているのだろう?

 全部の作品が好もしいことなんてのはあり得ない以上、「その中からいくつかお気に入りを見つけてくださいね」ということなのだろうか。で、こちらもそういう心づもりで読んだらいいのだろうか。

 考えてみれば、俺は正しい雑誌の読み方を知らないのである。バカみたいな話だが、教わっていないからだ。

 

 推測だが、たぶん、全作品の中で20~30%ぐらい好きになるものが見つかる、というところを基準にして、編集も消費者も漫画や文芸の雑誌を評価しているのではないだろうか。それならそれでいい。

 …と言いつつ、少し噛みついておくと、実は上で挙げた『MONKEY』という柴田元幸が編集している文芸誌なんかは30%なんてせせこましいことを言わず、全編がけっこういい感じで、これと比較すると他の文芸誌ってあんまりセンスないんじゃない? と、なんかデカいバチが当たりそうなことを考えてしまう。

 

 実際のところは、各雑誌ごとの経済的な合理性とかあるんだろう、と思う。

 例えば、個人の需要を100%満たせる雑誌を目指すより、20~30%満たせる雑誌の方が発行部数は伸びる、と統計で出てるとか。

 まあ、俺は半数以下の作品しかハマらないような雑誌に金出そうとは思わねーけどな(と実社会に歯向かいながら続く)。