続き。
雑誌を一冊、通しで読んだあと、面白かったんだかそうでもないんだかよくわからないことが多い。
で、文芸誌の場合、それはそもそも、全部通して読むからいけないんじゃないか、と。
仮説だが、あの手の雑誌で自分が面白いと思えるものは20〜30%ぐらいしか収録されていないため、面白いものもそうでないものもトータルで評価しようとするから「どう評価したらいいかわからん」と釈然としない気持ちになるのだ、と。
そういう推測である。
少し話はズレるが、全体の30%は面白いと言うことは、言い換えれば70%はピンとこないということで、しかも、全部読むまでそれはわからないのだから、文芸誌の正しい読み方とは、読んだうちの7割は変な味がすることを承知で3割に期待して楽しむ、ということになる。
版元がそういうつもりで売ってるならそれはそれでいいが、いや、やっぱりそこまでよくねえ、だって雑誌によっては70〜80%美味いじゃねえか。
なぜそれを目指さない、と思うが、一方で、まるでYouTubeやNetflixのおすすめを放浪するように、「俺の口に合わない作品を一品たりとも食わせようとするな!」という方がイビツなのかもしれない。
『ユリイカ』や『現代思想』の場合も、読み終わった後に同じく釈然としないことが多いが、これはおそらく別の理由である。
お前が人文系テキストの読解ができないバカだからだろ、という可能性はかなり高いが、他にも原因があると思うから書いておく。
例えば、最近の『ユリイカ』のテーマは「菌類の世界」だった。
生物にかなり詳しい人は、このタイトルを見たときに、ある疑問を抱いたのではないかと思う。
「菌類っていうのは、カビとかキノコとかの狭い意味を指すのか、細菌とか粘菌まで含めた広い意味で書いてあるのか?」ということだ。
表紙を見ればわかるとおり、冊子全体としてのテーマは後者である。
しかし、本来の意味で言えば細菌や粘菌類は菌類に含まれない。そして、『ユリイカ』に寄稿した各々の書き手にとっての「菌類」もまた、細菌や粘菌を含むとは限らない。
そのため、文中で菌類の定義について言及し、その上で、自分が扱う「菌類」は◯◯である、と説明する論考が雑誌のあちこちで発生している。
はっきり言って、こんなもの文章のスペースの無駄なのである。
例えば『ユリイカ』の冒頭に、編集部か選ばれた書き手によって、「菌類とはこのようなものであり、これから出てくる学者の△△はそのうちの何について書き、別の作家の××は何について書きました」とイントロダクションを置いて、個々の書き手はそれを受けて自分の本題から書き出した方が、圧倒的にそれぞれの文章がスマートになる。
また、こうすることで、各論考の位置付けも明確になるだろう。言い換えると、今回の特集において、◯◯と××は同じテーマ、◯◯と△△は同じテーマだが対立している、□□はちょっと特殊なポジション、というのが見えてくるということだ。
現行の編集は、「『菌類』をテーマに文章を書いてください」以外には何も注文せずにそれぞれの書き手にバラまき、それを単に合算したのと変わらない。
もっと口悪く言えば、『ユリイカ』一冊分の料金に換算できる時間を使って(それが何時間かは人によるだろうが)、『菌類』という単語でネットサーフィンし文章を読みあさるのと変わらない…ことはないが、ものすごくは違わない。
もちろん、事前にガイダンスを配置してしまうと、文章に初見で触れる鮮烈さが失われる、ということはあるかもしれない。また、そもそも第三者による説明や位置づけを拒むような文章もあるかもしれない。
ただ、そこまで斬新だったり奇天烈だったりするものは、それこそ南方熊楠が出てきてその思想や南方マンダラについて語るようなレベルのものであって、それ以外で「斬新」「独特」と呼ばれるのは、圧倒的多数に置いて単なる自己満足で理解不能なだけなので、やっぱり事前のガイダンスはあった方がいいのである。
好き放題書いた。「要はおめえがバカなんだろ」。そのひと言でここに書いた文章は完結する。俺はその言葉が来るのを待っている。
最後に書くと、つまるところ、雑誌というのは1,000円近く、ときにはそれ以上払って、全体のうち7割くらいはどちらかというと美味しくない部分を含んだ、特段わかりやすくもない文章が書かれているのを覚悟の上で、消費するものである、ということになる。
これが、YouTubeやNetflixのように、無料もしくは低額なうえに、強固なアルゴリズムによって支配され、一秒でも多く俺たちの熱中の感情を刈り取ろうとする媒体と比較してどちらが優れているか、というと、俺にはよくわからない。
ひと言で言えば、この時代において、雑誌の編み方の方が圧倒的にグズで稚拙だろう。
もうひと言、口を開いてよければ、それでも俺は雑誌の方が好もしいと思う。存在として。
そういう話である。