ここまでの話
生活していると、いくつかの「正しさ」が自分の中でぶっつかることがある。
続き。
それぞれ基準の違う「正しさ」が自分の中で喧嘩したとき、どれが優先されるべきか。
哲学者のカントは、「殺人鬼から追われている友人を家にかくまっているとき、その居場所を殺人鬼から尋ねられたら、正直に答えるべきだ」と考えていた。カントにとっては、友人を護るという正しさより、誠実さという正しさの方が優先される、ということかもしれない。
ただ、いま考えるべきなのは、カントの回答が結局、世の中を支配することができていない、ということだろう。
そうなのだ。
特定のシチュエーションにおける「正しさ」の優先順位を決めようとする議論はあっても、その答えは出ていないのだ。トロッコ問題だとか、非常時における自動運転車の進路決定をどういう基準で行うとか、まだ解決していないのもそういうことだ。
では、これらの問題はいずれ解決するのだろうか?
興が冷めることを言うと、個人的には解決しないと思う。
なぜかと言うと、これらの問題の根底には、『ここは今から倫理です』でも言及された「良心」が関わっているだ。
トロッコ問題が、「どちらのルートの方が死者が少なくて済むか」や、「どちらの方が社会の利益になるか」を問うのなら、おそらく議論にならない。
誰かを救うためにあえてルートを変えるとき、そこで問われるのは新しいルートで犠牲になる者の尊厳や死者数、生かした方が今後生み出す価値だけではない。ルートを変える権利を持った者の良心が問われている。
そして、その良心のかたちは個人や時代によって異なっている。だからこの問題は、誰にとっても納得のいくかたちでは解決しないのだ。
ん? 書いていて、自分でも疑問を抱く。
だって、『ここは今から倫理です』では、良心≒罪悪感であり、それは、どんな悪人でもかすかには感じるもの、そして、悪事を重ねるたびに避けようがなく心に積もっていくもの、と書かれていたじゃないか。
誰でも共通して持っているものが、なぜ問題の解決をさまたげるんだ? みんなが同じ良心を持っているなら、それに従って選んだ答えも同じになるはずじゃないのか?
そこなのだ。たぶん、そこがポイントなのだと思う。
良心の悩ましいところはたぶん、その点にあって、どんなに卑劣な人間や悪人でも他の人間と同じように持っている(とされる)一方で、その大きさは個々人によって異なっている。
すべての人間を一つに融和させる力を持ちつつ、同時に、区別してもいるのが良心なのだ。
『ここは今から倫理です』7巻で問われた、「なぜ人を殺してはいけないのか」も、こうした良心をめぐる問題であり、そして当然と言うべきか、このエピソードの中でも殺人がいけない理由は明らかにならない。なにしろ、その大きさが一人一人違うのだから、仕方がないのだ。
俺は、むしろ、良心の存在によって問題の解決が遠ざかっている可能性さえあると思う。
いや、これは正確な表現じゃないな。
言い直すと、ある種の問題というのは良心があるからこそ出現し、しかし、良心は現れたその問いを解決するとは限らない、ということがあり得ると思う。
例えば、人間がはじめて言葉を使ってものごとを考えられるようになったとき、おそらく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題は存在しなかった。
言語の起源については色々な説があり、いずれにしても万単位で過去のことではあるようだ。古代の人類にも良心はあっただろうが、一方で、家族や集落の仲間以外との接触は、常に殺傷と略奪が選択肢に入るぐらいには暴力的で自己本位だったのではないかと思う。
自然に殺したり殺されたりしている中で、「なぜ殺してはいけないのか」と問う人間はあまりいないはずだ(「なぜ殺さなければいけないのか」と問う者はいたかもしれない)。というか、現在であっても戦争と暴力のさ中にある土地では、この問いは今でもナンセンスなのかもしれない。
人類学的な根拠なんて何もない想像だが、個人の持つ良心が一定の閾値を超え、そういう人間が社会のある割合を超えたとき、はじめて、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがこの世界に現れ、その社会で共有されるようになるのではないかと思う。
ただ、良心によって生まれた問いが良心で解決するとは限らない。むしろ上で書いたとおり、良心は人類の共通意識である一方でお互いを区別するものなので、答えよりも、むしろ議論を生むのだと思う。
では、良心なんてない方がよかったのか、ということにもなる。
おそらく、そうでもないのだろう。
少なくとも、物理的な暴力よりも議論の方がいい、というならそうでもない。良心があるからこそ生まれる疑問があり、良心があるからこそバラバラになった俺たちは、その疑問について言葉を交わすことができるからだ。
議論は、もう一つ重要な意味を持つ。
倫理と哲学を区別するということだ。
『ここは今から倫理です』では多くの哲学者が紹介されるが、主人公・高柳はあくまで「倫理」の教師であり、「哲学」の教師ではない。
今回のエピソードで、高柳は「ここにいる者たちこそが『倫理』である」という。
言い換えると、倫理は一人ではできないのだ。
哲学は可能かもしれないが、倫理はお互いの良心をさらすことでしか形成できない。もちろんこれが万全な定義ではないだろうが、それなりに腑に落ちる考え方じゃないかな、と思う。長くなったが、そういうことである。