話を盛ってるとしても/これ自体は嘘だとしても、というのは危険であることについて

 今のタイミングでこの話題に冷や水を浴びせるようなマネをしても、俺がパブリックエネミーになるだけだろう。

 そもそも気勢をそぐことが目的でもない。

 だから、具体的な例は挙げず、一般論として書いておく。

 

 何かを告発したり、糾弾したりする発言があって、その発信元が匿名であったり、必ずしも内容が明らかでない場合、次のようなコメントがつくことがある。

 「仮に、この告発が話を盛っていたとしても、批判された業界が怪しいのは確か」

 「この糾弾自体はネタだとしても、そういうことが起きてもおかしくない業界だと思う」

 

 俺は、こういう意見をコメントとして発信し、ネットで共有するのは、すごくとても危うい考え方だと思う。

 頭で思うだけなら問題ない。

 というか、俺もよくやる。

 文字として発信して共有するのがまずい。

 

 なぜか。

 

 簡単に言うと、火のないところに煙を立てようとする悪意や虚栄心にエサをやる発想だからだ。

 

 もう少し詳しく、性悪説にのっとって書く。

 

 俺が世の中のあらゆることを憎んでおり、社会を混乱させ、色んな組織や個人の評判を傷つけたいと思っているとする。

 「とする」、というか、実際ちょっとそうなのだが、もっと深刻だとする。

 俺がそのとき選ぶ「うさ晴らし」の一つに、おそらく、手当たり次第に憎んでいる対象の悪口を書きまくる、ということがある。

 

 悪意の対象に選ばれる基準は様々だ。

 なんか、うさんくさいもの。

 すごく嫌われているもの。

 反対に、すごく人気のあるもの。

 権力者に重用されている(と思われている)もの。

 新奇なもの。

 逆に、伝統のあるもの。

 そして、何より、いまの自分には関係のないもの。

 

 言うまでもなく、嘘はまずい。悪行だ。

 誰にだってわかる。やっていいはずがない。

 それが、何故だか、「告発」「糾弾」というパッケージに入れて流すと、おそらく次のようなコメントが、いつかはついてしまう。

 「真偽のほどはわからないが、それとは別に、以前からあやしいとは思っていた」

 

 ダメなのだ。

 どういうかたちであっても、「それとは別」であっても、「真偽のほどがわからない告発」に触れてはいけないのだ。

 それが例え、この世のうす汚い既得に深く切り込むものであっても、離れなくてはならない。

 批判されている対象がどれだけあやしくても、そこで口を開いてはならない。

 その匿名の告発に真実味を感じるなら、それでも、だからこそ、そこから離れなくてはならない。

 もし、それでもこの問題を追求したいなら、「真偽不明」ではない別の明確な根拠からやり直さなくてはならない。

 

 俺だってこんなこと言いたくない。

 匿名でしか発信できない、詳細をぼかさなくては言えない、そういう秘密もあるだろう。

 でも、俺はそういうものに触れるな、と言っているのだ。

 なぜ?

 

 性悪説、繰り返すが、これに尽きる。

 真偽不明の何かをきっかけにして、それに沿った言葉を口にしてはいけない。

 俺が悪意を持った誰かで、この世界の一人でも多くの人間の名誉を毀損し、それを回復させる手間、人々から忘れさせる時間を無駄に費やさせ、自分に注目を集めようとしていたら、自分の虚言に対して誰かが「真偽のほどはわからないが、確かにあやしいと思っていた」と言ったのを目にした瞬間、手を叩いて喜ぶだろう。

 俺はうれしくて仕方がない。

 まず、虚言によって誰かの「確かにあやしい」という意見を引き出し、世の中と共有させたこと。

 そして、本来なら無視・非難されるべき虚言が、「嘘偽りであろうと、あやしいものを糾弾する契機としてなら認められる」と「洗浄」されたかのようだからだ。

 

 当然、「真偽のほどはわからないが、あやしいと思っていた」とコメントした側に、虚言を擁護するつもりはないだろう。

 対象があやしいなら、虚言で攻撃してもいい、なんて思ってもいないだろう。

 でも、そのコメントはきっと、「私もあやしいと思っていた」「俺も思っていた」「私も」「俺も」と広がる勢いを強める。

 その大元にあるものは嘘かもしれないのに。

 誰かの悪意かもしれないのに。

 その告発が真実で、世の中にいい影響を生んだとしても、それは結果論に過ぎない。

 もっと悲惨なのは、仮に嘘だったとして、そこから起きた結末の責任を誰が負うだろうか?

 

 負いようがない。

 答えは簡単だ。誰にも負いようがないのだ。

 だって俺たちは、「確かにあやしいと思っていた」と言っただけだからだ。

 そういう意味でも、言ってはいけないのだ。だから俺たちは、俺たちの言葉を目にする誰かと、俺たち自身のために、「真偽不明のもの」を相手にしてはいけないのだ。

 

 俺はここで一つ強調しなくてはならない。

 上で書いたとおり、匿名の、もしくは細部が不透明な告発のいくらかは、おそらく真実だろう。

 そういう形態でしか発することができない告白、SOSが、きっと存在するだろう。

 しかし、俺たちには、それと悪意を持った偽りを区別することができない。

 もし、その出どころに悪意や功名心があったとしたら、俺たちが「真偽のほどはわからないが」という言葉をエクスキューズのつもりでおいた時点で、ほぼ向こうの罠にかかっている。

 だから俺たちは真偽のわからないものに触れてはいけない。もしSOSの助けになりたいなら、別の明確な根拠からやり直さなくてはならない。

 そういう話。