それが例え、心身を賭したような告発であっても(に見えても)、性悪説に立ち、この社会と俺たち自身を守ろうとする限り、真偽不明のものに手を出してはいけない。
それが、詳細を伏せ、あるいはぼかすことでしか告白することのできない暗部であり、それを無視することは必死の声を封殺することと同義であっても、手を出してはいけない。
その問題に取り組もうと思うなら、別のところからやり直さなくてはならない。
…ということを書いた。
別のところとはどこか。
メディアによる取材なり、先行研究なり、そういうつもりで書いた。
先日、ある有名人がある容疑で逮捕されて、同じ罪状で執行猶予の判決を受けたばかりだったので、話題になった。
この人はあるグループの一員でもあったので、「元◯◯の」という表現を用いた上で報道されることになった。
この、「元◯◯」の部分、必要かなあ? という気がすごくする。
ドライかもしれないが、現行でグループのメンバーである人たちにはイメージの毀損でしかないし、元メンバーを強調するのって迷惑だよな、と思う(当のグループには一切の思い入れはない。念のため)。
というか、この報道自体いらなくねえ? という気がする。
このニュースに関しては、執行猶予期間中の再逮捕ということで、「それだけこの犯罪から逃れるのは難しい、と世間を教育する効果がある」という意見がある。
でも、俺的にはあまりピンと来ない理屈だ。
「一回だけなら」と思う人の多くは、「(他の人はこの犯罪から抜けられなくても、自分は平気なはずなので)一回だけなら」と考えているんじゃないだろうか?
「他の人」が十人増えようが百人増えようが、自分は平気、という評価に影響はないのでは?
また、そもそも人生がつまらなくて、とかさみしくて、という理由でこの犯罪に及ぶ人もいるようなので、その場合も再犯率が高いからといって思いとどまるとは言えないように思える。
「教育とかどうとか、カンケーないよ。単純に、ニュースとして俺たちが知りたいと思うからでしょ」というロジックが一番納得がいく。
納得がいくが、それもどうなんだろう? と思う。
「俺たちが知りたいからニュースになる」のではなくて、「ニュースになるから、まるで『知りたかった』ように感じてしまう」のでは?
俺たちが望むから、誰かのプライバシーや人に迷惑をかけることでもニュースにしているんですよ、そっちが希望したからですよ、と免罪符のように言われる(ことがある)。
でも人間って、そこにニュースがあると、まるで以前から知りたかったように感じてしまう生き物なのでは?
そうなると、もうやったもん勝ちだよな。だって、どんなに人を傷つける道義に反した内容だって、触れた側が「そうそう、こういうのが見たかったんだよ」と思ってくれるなら、肯定されるのだから。
そういう気がして、俺はあまりメディアを信用していないのだが、上で書いたとおり、何かの問題について、真偽不明の噂ではなくて別のところからやり直すときの起算点に選んだのは報道なので、「あれ? どうしよう」という感じである。困ったな。
要らないニュースは要らない、と言いたい。
言いたいが、ここでひとつ書かないといけないのは、なぜ俺が今回の再逮捕のニュースについてフォローしているかと言えば、「あれ、また捕まったんだ」と思ってネットの記事をクリックしたからだ。
俺も俺の野次馬根性をコントロールできていない。
そりゃこういうニュースはなくならないよな、と思って、大変カッコウのつかない話だと思っている。