今と未来について

 十何年間ぐらい、ずっと、「今と未来のこと」を考えている。

 

 ひどいことが起きたときに、そのショックや悲しみ、怒りの感情が「今」ここにある。俺はそれが自分の中に氾濫するのを感じる。

 ある意味、露悪的な言い方をすれば楽しんでもいる。

 この強い感情のことを。あるいは、忘我を。

 

 そういうものに突き動かされて行動したり、口を開くと、大切なものを失ったり、他人を傷つけたりする。要するに道を間違える。

 それは取り消すことができない。

 

 仮に、吐き出さないとどうにかなってしまうほどの強い感情でも、いつか「未来」には消え失せていくものだ。

 必ず、感情は俺たちのところから離れていく。どれだけ悪いものであっても。「今」俺たちをどれだけ苦しめているとしても。

 

 だから、「未来」のことを考えれば、「今」の感情にはとらわれないべきだ。

 感情はやがては消えてなくなっていくのだ。

 良い「未来」につなげるために、悪いものを「未来」に残さないために、「今」ここにある感情を手放さなければならない。

 

 でも、「未来」はまだここにないじゃないか?

 「未来」は俺たちの頭の中にしかなく、いままでも、これからも、それが実在することはなかったじゃないか。

 

 「今」はちゃんとここにある。

 単純に、「今」はここにあるのだ。そして、ずっとそうなのだ。この世界には実は「今」しかないのだ。

 俺たちは「今」、どこまでいっても「今」の存在なのだ。

 俺たちは「今」怒っている。攻撃され、おびやかされ、誰かを罰したいし、罵りたい。

 というか、現代では手元の機械ですぐに、罰し、罵ることができる。

 

 誰にそれを止められる? 何が「未来」だ。俺たちには「今」しかないのに。

 「未来」のために感情を手放す?

 悪い気分がいつかなくなるなら、良い気分もいつかなくなるんだろう。

 それが逃れられない真実だとして、「今」ここにあるものは何もかもなくなるんだと、そう言い聞かせて何も感じなくなるためにあるのが「未来」なら、そんなものクソ食らえだ。

 「今」ここに確かにある、感情のままに行動するのが生きているということじゃないのか?

 

 俺はずっとこのことを考えていて、いまだにわからない。「今」も「未来」もどちらも手放せなくて、どちらも手に入らない。

 いま、怒りと憎悪のままに行動しているすべての人間に同調するし、未来のために冷静さを呼びかけるすべての人間を心の底から尊敬する。

 

 ここでは書かないが、俺は別の場所で怒りのまま、軽蔑するしかない言葉を吐いた。後悔しているが、それが「生きている」ということだとも思っている。

 

 「今」怒り、罵り合っている人たちが、「未来」にお互いを尊重できる時代が来たなら、それは「未来」のために、「今」こらえた人たちによるものだ。

 「今」誰も責めなかった人たちによるものだ。

 「未来」を諦めなかった人たちによるものだ。

 平和はたぶんそこにしかない。「今」だけを生きている者によって平和が訪れることは絶対になく、それは「未来」を信じる人によってしかもたらされない。

 そして、俺は「未来」を信じていないのだ。