監視について

 電車内で置き引きに遭ったことがあって、荷物を網棚に置いて座席の前に立っていた。席が空いたので荷物をそのままにして腰かけて、降りる駅になったので立ち上がったらなくなっていたのだ。

 頭上で自分の持ち物に手を伸ばしている人間がいたはずなのに気づかなかったのもマヌケな話だが、大事なものだったので今でもけっこう根に持っている。もちろん、駅に相談もしたが、車内に監視カメラはなかったので、何者がそういうことをしたのかは不明のままだ。

 

 カメラ、もう常設でいいんじゃね? と思ったのはそのときである。人間、自分が被害者にならないとそういうことは考えないものだな。カメラ、もう常設でいいすよ。痴漢も減るだろうし。

 

 そのくらいの監視は受け入れます、ということなのだ。

 当然、反発する人もいるだろうし、否定しない。

 俺は、自分でも少し意外だけど、そのくらいの監視は別にいいんだよな、でも色んな人の意見の中で落としどころを見つけるのは大変だろうな、というのが要点である。

 

 『AI監獄ウイグル』という本を読んでいて、新疆の街において中国共産党による監視が徐々に強化されていく様子が紹介されている。

 特に恐ろしいのは、「最近、検問がきついなあ」とか「ここのところ、漢族系とウイグル系住民の関係に緊張感があるなあ」とか、街の雰囲気がなんとなく不穏だなあ、というところから、急に「中東国との交流が目立つ家庭は、家の中に音声同時記録のカメラを設置するように」という具合で、監視のレベルがはね上がる描写だ。

 そして、住民はそれに反抗することができないのだ。

 この水準を超えたらヤバいよね、というやや手前で引き金がひかれるというか、そういう感じのするエピソードだ。

 

 一方で、ここまで強力なものでないなら、官製監視が市街に設置されることで、暴力犯罪やテロや防げるかもしれない。

 例えば、「刃物のようなもの」や、「銃器のようなもの」が街頭のカメラで検出された瞬間、周囲の交番や、守衛の手元に通知が届く、というシステムが構築できれば、被害を小さくすることができるかもしれない(し、できないかもしれない)。

 

 だから、そうすべし、とは思わない。

 ただ、やってもいいんじゃない、とは思う。

 しかし、国家による利用がそういう「万が一のため」というレベルでとどまらないだろうな、とも思う。

 いったん実装されれば、それで運用できる範囲を限りなく拡大しようとするのが国家というシステムだと思う。

 でも、もう誰かが無防備なところを唐突に攻撃されて傷つくの、俺嫌だな。

 

 監視を強化するか、このままでいるか、その議論がいつか始まると思う。

 誰がいつ襲われても、深い傷を負っても、人生そのものを損なっても、それでも国に譲り渡してはいけないものがあるだろうか。

 あるだろう。

 ただ、それを主張するだけの強固なロジックと、反論のスクラムを組む一体感が、きっと世界からは失われていくだろうな、とも思っている。