『ビバリウムで朝食を』1巻の感想について

今週のお題「SFといえば」

 

 三十年近く前、俺が小学生だった頃、『ドラえもん』はまだ漫画として現役だった。

 もちろん、作品そのものとしては今だって普通に現役なのだが、コミックスが進行形で発刊されているという点で、『呪術廻戦』とか『HUNTER×HUNTER』と同じノリで本屋や図書館の棚に並んでいたということだ。

 ついでに思い返すと、あの頃の本棚には『幽遊白書』も置かれていた。なんとなく手に取った巻で死紋十字斑で飛ばされたトラックを幽助が避けようとしていたのを思い出す。

 今度実写化するんだって。冨樫すげーよな。

 

 話がズレた。

 要するに、俺にとって『ドラえもん』は、はじめて読んだときにすでに完結して教養となっていた古典とは違う、「そういやリアルタイムで読んでたな」という作品であり、マンガ遍歴の一番古代にある層でノスタルジーと一体化しているということだ。

 それは、「『さようならドラえもん』泣けるよな」とか、「『のび太結婚前夜』いいよな」とか、そういう具合に世の中で共有された物語とは違って、こういう作品があるんだなあ、というかなり個人的な体験だった。

 まだ、世の中がそんなに、ドラえもんドラえもんしていない感じだったような気がする(と感じるだけかもしれないが。1969年からやってるマンガだし)。

 ちなみに、実際の内容はあんまり覚えていない。

 

 という思い出から何を始めようとしているかというと、道満晴明の『ビバリウムで朝食を』の感想なのだった。

 ビバリウムってなんだ? というと、"vivarium”、特定の種の観察や研究のために再現された飼育環境のことらしい。

 三人の小学生を主人公に、暑い暑い夏休みに暮らしている町の七不思議を解き明かしに行こう、というストーリーで、森の中にある沼のヌシとか、図書館の秘密の地下室とか、そういう謎が出てくる。

 描かれてる物語の舞台は、現代日本のようでどこか変だ。幽霊の存在が普通に認められてるし、自然の生態系も少し違うらしい。少年ジャンプは存在するけど。

 そして、そこに未来人や「ナイショ道具」が関わってくる。壁に別の空間との抜け道をつくったり、お互いの姿かたちを入れ替えたりとか。

 タイトルは『ティファニーで朝食を』のもじりだろう。でも、内容はおそらく、『ドラえもん』に対するオマージュだと思う。登場する未来人・ライモン=ドラえもんかな?

 そうだ、オマージュ。

 流行作品の一部をパロディすることは多くても、一つの物語の世界観を下敷きにオマージュするとしたら、元ネタは古典、という先入観があって、そっかー、『ドラえもん』はもう、そういう対象なのか、と。

 俺も歳を取ったもんだな。

 別に批判してるわけではなく。別の作品との関係がなんだろうと、やっぱ道満晴明の漫画だな~と思う。

 セクシャルなのに淡白で、変なところの情報量が多いせいで、反対に世界観とか人々の心のあちこちに空白があって、それが哀しくてキュートなんだよな。

 ノスタルジックな世界と道満晴明のせつなさは、けっこう相性がいいかもしれない。楽しみに追っていきたいけど、この人の作品は一年強で一冊しか出ないからな~。

 

 あんまり関係ないけど、『ドラえもん』に登場する空き地や土管は、いま見ると郷愁の対象…と思いきや、俺が子どもの頃からすでにほとんどなかったわけで、何十年も前から、すでに、あれはノスタルジーの世界だったのかな、と思った。