薬で楽にはなるけれど
心とはなんだろうか、という質問はよくあるわりに、実際は問いかけとして漠然としすぎているので、少し角度を変えてみる。
心というものに、どうやって向き合えばいいか、ということだ。
世の中、心というものに対して、とても奇妙な接し方をしていると感じる。
マインドセットとか瞑想とかメンタリズムとか、「◯◯秒・日で意識を変える」的な発想のもとでは、心というのはいくらでも騙すことが可能だし、もっと言えば、騙してもかまわないものだと考えられている。
自分の心を己で操作するのは俺たち自身の勝手だし、ビジネスや恋愛のシーンで相手の心を操ろうとしてもよい。
「心というのはその程度のもの」。誰もがそう思っている印象を受ける。
一方で、心に対するこうした支配をどこまで突き詰めて、自分の感情はポジティブなものや幸福感が際限なく生まれ続ける場所に変えてしまえばよいし、他人のことだって無制限に自分にとって都合のいいように支配していい、と、みんながみんな思っているわけではないのも事実だ。
「そりゃそうでしょ、だって自分自身や他者の尊厳とかってものがあるし、あとは…なんていうか、人生ってそうやって好き勝手コントロールしたら、なんか醍醐味がなくなるじゃん。第一、やってやろうとしてもできないしね」。
おそらく、多くの人がこう言う。
俺もまあ、そうだろうとは思う。
でも、その割りには、書籍のマーケットは自分や誰かを「より生きやすく、便利に」書き換えようとするものばっかりだよなあ、とも思う(別に責めてはない。俺も瞑想とか自己啓発とか興味あるし)。
心について、変えていいもの、悪いものがどうやらあるらしくて、俺も含めて誰もがそこの境界を器用に住み分けているけど、実際のところどう向き合うのが正解なのよ? っていうか、心って結局なに? ということなんだな。
『AIの遺電子 Blue Age』4巻の感想について
AIの利用が本格化し、生体ボディで活動している個体にはヒトと同じ人権も認められるようになった未来の物語。
無印時代では個人病院の院長、その後の『Red Queen』では母と自らの出生について調査することになった主人公・須堂光の若い頃を描くのが、この『Blue Age』だ。
路線としては無印の頃に近い。『Red Queen』のような活劇、人類という種の未来を扱うような壮大さはなく、人間とAIの双方が患者として訪れる病院で、日々の医療を通じながら、心とは? 豊かさとは? 尊厳とは? といったテーマが扱われる。
例えば、人間の体にAIの頭脳を移植された子供は、果たして「どちら」なのか。
自分が好きになった相手が人格を持たないロボットだとしても、愛は続くのか(すべての愛が思い込みでしかないとしたら、その対象がまったくの無であっても、どこに問題があるのか)。
そして、結局のところ、俺たちの感情は思い通りにならないものなのか、反対に、思い通りになるとしたら、自由に操作するべきなのか、しないべきなのか。
ベタな言い方だが、未来の話のようでいて、いくらかは現代でも同じことが言える話だと思う。
ちなみに、若いときの須堂は病院に勤めているのだが、まだそれほどスレていないし、優秀だけど苦悩が表に出やすい(須堂はその後も悩み続ける人物だけど、それを段々表情に出さなくなっていくので)。
4巻の最後では、AIによって完全管理され、労働という概念が「半分」消滅した街に須堂が移住することになる。
ここからは批判にもなるんだけど、『AIの遺電子』の特徴と弱点として、心というブラックボックスを話のオチに持ってきて余韻や謎を残すのはものすごく上手いのに、技術が発展した結果、人間社会がどのように変革したかを描くとあんまり面白くない、というところがある。
これは言葉が足りてないので、補足する。
個々の医療手段がどうなるとか、技術発展によって娯楽や恋愛がどうなるとかを紹介するのは巧みなんだけど、もっと広い視点で都市計画そのものがどうなるとか、国際情勢がどうなるとかになると、魅力が失くなってしまうのだ。
説得力がないというのではなくて、地味なのだ。その方がリアルと言えばそうなのかもしれないが、面白いかというとそれほどではない。
「じゃあ、あり得そうもない未来でも面白ければいいのか?」というと別のテーマに脱線してしまう。だから、この辺でよしておく。
須堂が住むことになった「新世界特区」をどう描写するかは、『AIの遺電子』の不満点にモロにかかってくる部分だと言える。次巻でどうなるか、期待している。
4巻ではAIとロボットの恋、それから犯罪者の更生を描いたものがよかったな。
苦悩や憎悪を失うことがオリジナリティを失うのと同じだとしたら、俺たちの罪は俺たちそのものだな(というのは、対岸からだから言えることだけど)。