『Dr.STONE』の完結に寄せること、もしくは『Dr.STONE』の主人公は誰であったのか、ということについて 2/2

今週のお題「SFといえば」

sanjou.hatenablog.jp

呪いが明らかになる

 『Dr.STONE』では、多かれ少なかれすべてのキャラクターが脚光を浴びる。すべてのキャラクターが、彼女/彼なしではミッションを達成できなかった、という役目を負う。

 では、そういう物語の進め方は、漫画として面白いのか?

 

 ここからが少しややこしい。まず、『Dr.STONE』では面白い。ただ、これは非常に珍しいことだと思う。

 一般論としては、面白くならない。と思われる。

 と思われる、というのは、すべての登場人物に華をもたせようとする漫画がそもそもあまりないからだ。そういうスタイルをとっていて、他にパッと思いつくのは『BLUE GIANT』だろうか。

 『BLUE GIANT』では、主人公の大だけでなく、彼のバンドメンバーや周辺の人物についても、繰り返し物語のスポットライトが当たる。

 ではその『BLUE GIANT』は面白いのか?

 文句なしに面白い。

 …じゃあ、いいんじゃん。

 という感じだが、よくないのだ。なぜかというと、『BLUE GIANT』は一度だけ、ある失敗をしているからだ(これは俺の主観なので、違うという人の意見を否定しないが、俺の意見も否定させない)。

 

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 俺は以前、こういう感想を書いた。

 ネタバレになるので詳細は省くが、主人公を支える主要な登場人物の一人に巨大な災厄が振りかかり、そのとき、読者として悲しみとか絶望より、「作者もひどいことするなあ」と思って冷めてしまった、という話だ。

 

 創作で悲惨な出来事が起きたとき、「つれえ…」と思えるうちは、まだいい。まだ、物語の世界は生き続けている。

 「この人(作家)、ひどいことするなあ」と冷静に思うとき、読者は物語から離れてしまっている。

 俺はこれを、「呪いが明らかになる」と呼ぶ。いま決めた。

 

 自分で決めておいてなんだが、「呪われる」ではなく「(呪いが)明らかになる」という点がミソだ。

 というのは、明らかになろうとならなかろうと呪いそのものはかかっていて、創作のキャラクターは全員、作者によって、こうなるべし、これ以外の動きは認めない、というかたちで呪われているからだ(対立する概念は『ストーン・オーシャン』で荒木さんが語っていた「重力」だが、めんどくさいので触れない)。

 

 ただ、作者によってその呪いがずっと上手に隠されている場合と、明らかになってしまう場合がある。『BLUE GIANT』では一回だけ隠し通すことに失敗したし、他にも陰惨な場面の多い別の漫画でそう感じた経験のある読者もいると思う(前に聞いたのは、鬼頭莫宏作品とか)。

 

 話を『Dr.STONE』に戻す。

 すべてのキャラクターに必ずスポットライトがあたるこの作品を読んでいると、このキャラを活躍させるにはシチュエーションをこうしようとか、その章における決着のつけ方や描きたい場面から逆算してどのキャラを選抜しようという作者の意図を、明確に感じることが多い。

 言い換えると、すべてのキャラクターにおいて常に「呪いが明らかになっている」。キャラクターがいつも、作者の糸(意図)によってはっきり動いている。

 それが『BLUE GIANT』のように冷めてしまわないのはなぜ?

 単純に、ネガティブで挽回不能なことがほとんど起きないというのもある。ただ、こじつけ込みで、次のような理由を考えてみる。

 ここから、『Dr.STONE』の「主人公」に関する話だ。

 

主人公、いねえんじゃねえのかな?

 いきなりだが、そう思うのだ。

 『BLUE GIANT』(や、人によっては『なるたる』とか)が、悲しさや絶望感を通り越して読者を物語から遠ざけてしまう理由は、上で書いたとおり、悲劇を通じて作者の意図がスケてしまうからだ。そして、それは言い換えると、「色んなキャラクターが出てきたけど、結局◯◯(主人公)を苦しめたり、奮起させるためだったんじゃん。そのために登場させたんじゃん」と思うからだ。

 『BLUE GIANT』で起きた災厄は主人公の大を次のステージに送り出すためだし、鬼頭莫宏の『なるたる』でサブキャラがどんどん死んだり壊れていくのも、秕(しいな)を追い詰めるためだ。

 要するにさあ、みんな主人公の引き立て役で作者が出してんじゃねえか?、と思うから冷めるのだ。

 これは、主人公以外の誰かが悲劇に襲われる場合だけでなく、ポジティブな活躍を見せる場合であっても同じことで、脇役が活躍しても、なんか、主人公のおこぼれで光を当ててみました、って感じで、最後には◯◯(主人公)が全部持っていくところを作者は描きたいんでしょ、と俺は思うことがある(性格、ゆがみすぎですか?)

 ただ、ですよ。

 ということは、その物語に主人公がいなければ、引き立てるという見方も成立しないことになる。

 主人公という存在がいなければ、出番の少ないキャラクターに当たったスポットライトも(そして、悲劇も)、そのキャラだけのものになる。

 明らかにすべてのキャラクターが作者の意図どおりに動いている『Dr.STONE』で、読者が冷めないのは、この漫画が主人公を省くことに成功しているからでは? と思うんですね。

 

 待て、『Dr.STONE』には千空っていう強烈なメインキャラクターがいるじゃねえか、父親から引き継いだ熱い遺志もあるし、普通にあいつが主人公だろ、と誰しも思う。

 というか、正直、俺も思っている。

 ただ、物語の終盤で月に向かうミッションのメンバーを選抜するとき、千空が示した考え方は「月に行きたいという熱意や因縁ではなく、能力がもっとも適した者を選ぶ」というものだった。

 つまり、仮に復活液で活動を再開した人類の中に千空以上のエンジニアがいれば、千空は月行きを彼/彼女に譲ったということだ。

 もしも『BLUE GIANT』で大よりも技術に長け、大よりも強い意志をもってジャズに打ち込むキャラクターが現れても大の物語が揺らがないのとは、ここが違う。

 『Dr.STONE』における千空の役割は、より優秀、もしくはタイミングに恵まれた別の誰かによって代替できるし、それがクロムでもスイカでも、章によっては実際に千空の代わりを果たした。これによって『Dr.STONE』は、もしかすると意図的に、主人公という存在の欠員を描き続けたのでは、とも思う。

 

 まあ、それでも千空の代わりを誰かが務める場面はあまりなかったし、やっぱ千空が主人公なんでしょう。あと、自分よりも適した人材がいようといなかろうと、強引に枠をつくってみせた龍水の仕事にも、熱いメッセージを感じます。

 

 そういうわけで、26巻、お疲れさまでした。楽しかった。

 ちなみに俺はゲンと羽京とニッキーとジョエルが好きでした。