なぜ疑うのか。『哭声』の感想について

今週のお題「SFといえば」

はじめに

 2016年の韓国映画。日本の俳優として國村隼がきわめて重要な役どころで登場する。

 韓国の田舎町で、殺人事件が連続する。犯人が幻覚性の植物を摂取したことが凶行の原因といわれているが、同時に、科学では説明のつかない呪いではないか、という声もささやかれる。

 やがて、主人公である警官の娘も、事件の加害者たちと同様に精神に変調(呪い?)をきたすようになる。事件を解決し、娘を救おうとする彼の周りに、村の近くに住む謎の男(國村隼)、怪しい祈祷師、正体不明の女といった連中が現れる。

 

 『哭声』をSFに分類するのは俺ぐらいかもしれないが、いいのだ。というのも、劇中で惨事を巻き起こしているのは超常的な呪いなのか、科学的に説明のつく幻覚・錯乱の類なのか、もつれあった状態で物語が進むからで、最後まで絶妙に、どちらとも言えないのだ。

 『哭声』の真相は、最後の最後までScienceの領域に残り続ける。それがどっちに転ぶかは、ここでは書かない。ぜひ観て欲しい。特に、どういう人に観て欲しいかをこれから書く。

 

疑いながら観るようにできている。疑いながら生きている。娯楽とこの世界を。

 作品のキャッチコピーからして「疑え」であり、まず観る人に言いたいのは、おおいに疑うことを楽しんで欲しい。

 劇中で起きている事件には、科学でちゃんと理由がつけられるのか、あるいは、どうしようもない呪いなのか。

 そして、誰が正しいことを言っていて、誰が破滅させようとしているのか。

 おおいに、おおいに、疑って、エンディングを迎えて欲しい。

 

 『進撃の巨人』でも『HUNTER×HUNTER』でも『ゴールデンカムイ』でも、情報量の多い少年漫画を考察しながら読むのが好きな人に薦めたい。サスペンスが好きな人とも必ず好相性。

 『哭声』では、すべての場面が怪しく、ほぼすべての登場人物が信用ならない。唯一信頼がおけるとしたら、主人公である警官ぐらいだ。

 この警官が善人であるからこそ、『哭声』はまだ、安心して観ていられるし、善人であるからこそ、それを見守るのが苦しい。どの答えを選ぶかによって、回答を間違えれば彼がきっと破滅してしまうことがわかるから。

 

 そもそも、人間はなぜ疑うのか。

 まずは単純に、持っている情報が少ないからだろう。答えを出すために必要な情報が足りず、かといって、これ以上は新たに手に入らないと思うと、人間はその不足を思考によって補おうとする。

 ただ、情報がどれだけ多くても、受け取る人間の認知能力にも限界がある。これれも疑いにつながっていく。

 新約聖書のユダとイエスとの物語が示すとおり、複数回の奇跡を実際に起こし、「もう、救世主はこの人しかいないのでは?」としか言えないイエスという人物でさえ、ユダは裏切ってしまう(ただし、イエスの弟子で彼を裏切ったのはユダだけでなく、高弟のペトロも裏切っている)。

 まさに救世主、という人物が間近にいてさえ、それを信頼できないなら、もう何も信頼できない。そして、これはユダの猜疑心が特別に強いからではなく、おそらくみんなそうなのだ。

 俺たちは自分の破滅を避けたいがために、反対に、自分を救済してくれるものを遠ざけてしまう、そういう風にできている。そして、往々にして、自分を助けてくれると思ったものに滅ぼされる。最後まで、正しいものと偽物の区別はつかない。

 

 ただ、疑念を持つ本当の理由は、持っている情報がどうとかとは別のところにあるのかもしれない。

 俺たちが疑念から逃れらない、もっと単純な理由は、疑うことが純粋に楽しいからかもしれない。

 疑って、疑い続けた結果、世界に一筋の、「芯のとおった説明」がとおることがある。

 それはフィクションを楽しんでいるときにたまにある感覚だが、俺たちは現実世界でもそれを楽しんでいるのだ。

 いわゆる陰謀論もそうだし、疑念の悲哀を描いた聖書の物語だって、信仰というのは裏を返せば、猜疑心によってこの世界を合理的に説明しようとする試みでなのあって、大昔から超最近まで、俺たちは延々とそれを楽しんでいるのだ。

 だから、『哭声』という映画も、おおいに、疑いながら観て欲しい。

 

 なぜ「SF」にこじつけていまさらこれを書いているかというと、『哭声』の監督だったナ・ホンジンが原案・プロデューサーの映画、『女神の継承』が公開されたからだ。楽しみだ~って感情のまま、これを書いた。

 ところで、原案・プロデューサーってどういう役回りなの? というのはよくわからない。

 

哭声/コクソン (字幕版)

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