『度胸星』の感想、もしくは「神」を描くことについて 2/3

今週のお題「SFといえば」

sanjou.hatenablog.jp

一神教的な「神」を漫画で見つけるのは難しい

 神様はよく出てくる。

 多くの漫画作品に「神」は大勢登場する。

 では、たくさんのそうした神々と、『度胸星』のテセラックや『BLAME!』の統治局、『鋼の錬金術師』の「真理」などの少数の神を区別するものはなんだろうか?

 

 人間に干渉しない。

 これなのだ。

 この単純なルール。

 これがテセラックたちの原理であり、多くの神々との違いであり、そして、これは汎神論的な神々(日本のやおよろずやヒンドゥーギリシャ神話)とは違う、キリスト教的な一神教の宗教観につながっていく。

 

 ちょっと待ってくれ、テセラックは火星のクルーにガンガンちょっかいかけて殺したりしてるじゃねえか。

 …と思う人もいて当然のことなので、少し修正する。

 「(技術か、思想か、人間が一定の基準に到達するまで)人間に干渉しない」。

 これである。その基準に到達するまでは出現・発動しないのだ。

 だから、テセラックは人類が火星に到着するまで現れなかった。こういう神に対して、神が求める水準にまだ達していないのに強引にアクセスしようとすると、神罰がくだる(「真理」の等価交換による肉体の消失のように)。

 

 では、とさらに考える。

 なぜ、神に会えるようになる基準のようなものが存在するのか?

 なぜ、神はもっと早い段階で人間の前に現れないのか?

 

 ユダヤ教キリスト教といった一神教は、この質問と大昔から戦い続けなくてはいけなかった(もしかするとイスラム教も?)。

 なぜかというと、『度胸星』におけるテセラックのように、想定外のかたちで存在が明らかになったものとは違い、一神教徒たちにとって神は明確に存在するものなのに、まったく彼らの前に姿を現さなかったからだ。

 

 歴史上、弾圧され、追放され、奪われ、貶められ続けてきたのに、彼らの神は彼らの姿を現わさなかった。

 なぜ?

 なぜ、自分が、自分たちの子どもが殺され、破壊されているのに、神は私たちの前に現れないのだ?

 (公平を期すために書かなければならないのは、歴史上、奪われ殺されてきた一神教徒たちは、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が示すように、奪って殺す側にも立っていたということだ。そして、もちろんそのときも神は現れなかった。)

 

 神が善でなければよい。それならば、自分たちを見捨てるのも理解できる。

 神が万能でなければ、それでもよい。それならば、自分たちをこの苦しみから解放できないのもわかる。

 

 しかし、自分たちが信じている神は、慈愛をもって人間とこの世界を創造する、偉大な力と善性を持っているはずではないか。それなのに、なぜ自分たちは救われないのか?

 

 おそらく、ある段階で、彼らは一つの答えにたどり着いた。

 神は「善で万能なのに」、現れないのではない。

 神は「善で万能であるがゆえに」、現れないのだ。

 すべて逆だったのだ。

 善で万能の神は、現れたくても現れることができないのだ。

 それが彼らの答えだった。