※ この記事に人種差別の意図はありませんし、私個人もあらゆる点で反対する立場ですが、以下の文章がそう読めてしまったら私の想像力や知識の不足です。すみません。
ここまでの話
以下、ネタバレあり。
『NOPE』の物語では、利用され軽んじられるものがいくつか登場する。馬やチンパンジーといった動物、黒人という人種。
かつて、『動く馬』という最初期の映画に登場したのは黒人だった。しかし、そんな歴史があることなど、今ではとっくに忘れ去られ、映像の中で馬に乗っていた者の正体は誰も覚えていない(作中での発言より。史実かどうか、俺は知らない)。
物語が佳境に入り、黒人であり馬牧場を営むOJは、自分たちの土地を襲う謎の生物"Gジャン"の撮影に挑み、一攫千金を目指す。電子機器を停止させてしまうGジャンを誘導し、撮影するためには、カメラもオートバイも使用できない。
Gジャンの姿を記録するため、OJと仲間たちは手回しフィルムと乗馬によって、この怪物を撮影しようとする。それは『動く馬』の再現であり、黒人の手に映画を取り戻すことでもあった。
…この解釈はいい。こう観ると楽しい。
ただ、こう観ると、とある食い違いというか、どこか腑に落ちない部分が生まれてしまうのだ。『NOPE』の感想を書いた文章でその点に触れているものはなく、俺はそれを整理するため、ここから先を書く。
エンジェルとホルスト
「食い違い」について書く前に、OJとエム以外の主要な登場人物であるエンジェルとホルストについて書く。
エンジェルはOJの牧場近くにあるスーパーマーケットの店員で、機械に強い以外は普通のあんちゃんだ。ものすごく優秀とか変人とかでもないが、いいやつだ。
電力をストップさせるGジャンの特性を利用し、電化製品を配置してGジャンの接近を把握することができたのはエンジェルのファインプレイだ。あと、Gジャンが薄べったいひらひらした幕とか紐とかをマジで嫌っている(食うと爆発する)のが観客に伝わったのもエンジェルの果たした仕事と言える。
何より、リアルにいそうないいやつが親切に協力してくれるという、これが大きい。作品の雰囲気的に、すごく大切。
このおかげで、後半の『NOPE』のジャンルが、ホラーやSFというところからいい感じに「ボケた」と思う。何しろ、OJたちの一番の目的はGジャンを倒すことでも生き延びることでもなく、映画撮影を成功させることなのだ。
『NOPE』は結局、映画がテーマの映画であって、映画作りを追った擬似的なドキュメンタリーでもあるのだ。ホラーとして展開してきた物語の雰囲気を変更する上で、エンジェルの貢献はすごく大きいと思う。
そして、ホルストだ。ホルストはカメラマンで、電子機器が止まってしまった後、手回しフィルムによるGジャンの撮影を担当する。
計画に参加する前にホルストが観ていた映像はすごく暗示的だと思う。それは、次々に出てくる色々な動物の目であり、肉食獣が他の動物を捕食する場面だ。
ホルストはそれを延々と流していて、おそらく、目の映像は「カメラによる撮影」、捕食は「他者からの暴力」、どちらも『NOPE』の重要なテーマを象徴している。
ポイントは、「撮影」と「暴力」を別々のものとしてではなく、「撮るという暴力」としてイコールで結ぶことだと思う。かつて、カメラの前でストレスから暴走してしまったチンパンジーのゴーディのように、この「撮影」=「暴力」という類推は正しいし、こうすることで、見えてくるものもある。
ちなみに、終盤になってホルストはGジャンの撮影に成功するが、よりよい映像を求めて(?)単独行動を起こし、Gジャンに食われてしまう。撮影という暴力を行使する側だったホルストは、反対にGジャンによる攻撃の犠牲になるわけだが、これもなかなか…深読みを誘う展開だ。
撮影という暴力を使っていたホルストが、逆にGジャンの暴力によって食われてしまったこと。そして、『動く馬』から抹消された=軽んじられた存在である黒人のOJたちが、今度は撮影する側に回っていること。
俺はここに、奇妙な食い違いの存在を感じるのだ。
食い違い?
実は『NOPE』は、章立てされた構成になっていて、各章は動物に付けられた名前からスタートする。ラッキーやゴースト、クローバーといったOJの馬たちや、凶悪な暴力事件を起こしたチンパンジーのゴーディなどだ。
動物は『NOPE』において被害者のシンボルだ。スタジオに駆り出されても満足なケアが受けられなかったり、化け物の餌にされてしまったりする馬や、極度のストレスにさらされて暴れ出してしまったゴーディ、みんな暴力の、「撮影する」という行為の被害者だ。
重要なのはここからで、『NOPE』の中で最大の暴力を振るう怪物であるGジャンの名前もまた、章のタイトルに使われているのだ。考えてみれば当然なのだが、撮るというのが一種の暴力であるなら、Gジャンは完全に、暴力を振るわれている側なのだ。
つまり、Gジャンは加害者であると同時に被害者でもある。これが「食い違い」の一つ目であり、このことがさらに、もう一つの食い違いを生む。
黒人という存在もまた、『NOPE』では基本的に被害者として描かれている。『動く馬』からは存在が忘れ去られ、現代でも、仕事の現場で十分な敬意が払われない。
しかし、ゴーディの場合が示すように、撮影するという行為がある種の強制や暴力であるなら、Gジャンを撮って一攫千金を狙うOJとエムは、加害者であるとも言える。『NOPE』という作品は、被害者から始まった黒人が最後は加害者にもなってしまう映画なのだ。
これは、なんの意味もない食い違いか? それとも、深読みして、ここから何かの意図を探ってみることが許されるだろうか?
実は、この作品の冒頭から気になっていたことがあって、それは、物語の最初も最初で引用された旧約聖書の一節にある。
「私は汚らわしいものをあなたに投げかけ、あなたを辱(はずかし)め、見せ物にする」-ナホム書3章6節)
ここで「私」と言っているのは旧約聖書の神であり、「あなた」というのはメソポタミアにあるニネベという街の指導者に向けて呼びかけている(と思う)。私(神)が導く軍勢によってニネベはいずれ破壊され、あなた(指導者)は敗北して名誉を失う、ということだ。
これを『NOPE』の物語に当てはめると、人間たちがチンパンジーや馬といった動物たちを見世物にし、辱めているという構図に重なる。ただし、実際のところ、問題はそれほど単純ではない、と思う。
なぜかというと、聖書の神が相手を「辱める」のと、人間が「辱める」のは意味合いが違うからだ。神が相手を見世物にするのは、それが正しい罰だからで、人間が相手を辱めるのとはまるで違う。
聖書のこの一節は、神による正しい暴力(仮に、そういうものがあるとして)を示すものであり、それを人間に、そのまま当てはめることはできない。
というわけで、さて、困った。
加害者であり、被害者でもあるGジャン。
被害者であり、加害者でもあるOJたち。
そして、引用された聖書は、本当は何を言いたいのか。考察を続けたら、奇妙なズレが三つも生まれてしまった。
半分だけが正解(かも)
満足な答えではないと思うが、一つ、正解というか俺から提案がある。
それは、撮影するという行為に伴う暴力性を、半分だけ忘れるということだ。馬たちやゴーディ、撮影という行為が生き物たちに与えてきた被害を、全部ではないが、半分忘れる。
そして、空きができた半分を、「生きるために利用する」という善も悪もないエネルギーで埋める。それは神による罰のように、否定しようのないエネルギーだ。
こう考えれば、OJたちの撮影作戦も、完全にではないが、半分は罪が軽くなる。エムもOJも、生活を守るためにGジャンを撮ろうとしているのだから。
生きるために撮る。
ただし、被写体も生きているので、怒りを覚えれば反撃する。
そのパワーバランスや加害と被害の関係は、いつでも反転する。撮影のために暴走し、反対に食われてしまったホルストの最期は、撮る/撮られる、攻撃する/されるという関係の移り変わりを上手く表していたと思う。
なぜ、俺はこんなことを思いついたのか、最後の深読みでその理由を書いておく。
Gジャンというあの怪物、被害者でありながら加害者でもあり、ずっと撮影され続けたあの怪物の姿。あの怪物は何かに似ていないか?
あの怪物が攻撃に転じるとき、平たい体の真ん中についた丸い目をこっちに向けるのは、あれはやっぱり…映画や写真を撮るのに欠かせない、あの道具に見えないか?
OJたちはもしかすると、ずっとその道具のレンズに追われ、そして、その道具を自分たちのレンズで映していたのかもしれない。
撮られながら、撮っている。
撮りながら、撮られている。
どうだろう? 俺はやっぱり、Gジャンは似ていると思うんだ。カメラに。だって、『NOPE』は映画のための映画だもんな。