沖田修一の会話とのんを観に行く。『さかなのこ』の感想について

※ この記事に性差別の意図はありませんが、以下の文章がそう読めてしまったら私のジェンダーロールに関する想像力や知識の不足です。すみません。

 

はじめに

 沖田修一監督作品という点は大事なのでタイトルに入れた。沖田修一なら内容やテーマに関わらず行こう、という人がいるからだ。俺のことだ。

いい映画だが

 沖田修一のファンとしても、そうでなくても、文句なくいい映画。『南極料理人』が好きな人は行ったらいいし、のんと柳楽優弥が好きでも行ったらいい。井川遥もよかった。

 

 沖田修一の作品はどれも、スローなコント作品のように会話が面白い。今回も、観ていてほぼずっと笑っていた。

 中でも、学生時代ののん(役名はミー坊)がどれだけ変人か伝えるために不良の一人が放った、「机の中に乾かした魚をしまっている」というセリフが一番好き。そこなのかよ、でも確かにヤベえか、という。

 

 一方で、気になった点。同じ沖田修一監督作品である『南極料理人』や『キツツキと雨』と比べると、物語の中心がのんに集まりすぎている、とは思った。

 好きなことを続けているうちにおかしなところにハマってしまった、という点では『南極料理人』、『キツツキと雨』に似ているが、この二作が群像劇であるのに対し、『さかなのこ』の焦点はほぼ、のんにずっと当たっている。

 もちろん、さかなクンという描くべき明確なモデルがあるのだからしょうがないとも言えるんだけど。とにかく、ひたすらのんを観に行くための映画だと思う(能年玲奈と書いてもいいのだろうか)。

 

 作品からのメッセージがあるとすると、「何かを好きであることを大事にしよう」ということだと思う。

 これはものすごく真っ当なメッセージなのだが、「なかなか、そうもいかないよな」ということを大人はわかっているわけで、そういう疑問やツラさも丁寧にフォローするのが『さかなのこ』のいいところだと思う。

 

 何かのことが好き。すごく好き。

 もしも、俺たちがそれ一本で生きていこうと思ったら、こうした感情さえも何らかの方法で現金に変えなければ生活できない。物語ののんも同じく、「とにかく魚が好き」だけでは生活できず、それをお金に変えようとして、うまくいかなくて、苦労する。

 それを支えたり次の展開につなげたりするのは周囲の人間だ。親や昔の友人たち。

 

 『さかなのこ』は、のんを友人たちが助ける理由を、彼らが親切だからとか、のんがラッキーだからとか、そういう理由で説明しない。それがいいところだと思う。

 友人たちがのんを助けるのは、のんがただ魚を好きなことによって、結局、彼らの方が勇気づけられたからだ。だから、のんがこれからも魚を好きでいられるように、彼らはのんを助けるのだ。

 友人たちの多くは、確実に、のんほど好きなものを持っていない。自分の「好き」の大きさがどの程度か、それを知ってしまうのも成長するつらさの一つと言えるだろう。

 のんの友人たちはとびきり好きなものを持たない代わりに、目的を果たすために、最適な方法を知っている。実際のところ、柳楽優弥夏帆も、あまり器用なタイプには見えないが、のんよりは生きていくための処世を知っている。

 心の底から大好きなものを持たない彼女たちは、のんに「好き」を現金化するための仕事を与える。繰り返すが、それは単なる親切ではない。

 

 これは深読みかもしれないが、彼らはのんの生き方を見て、叱咤(しった)された気がしたのだと思う。

 つまり、生きていくための合理的・効率的な方法をまったく知らないのんが全力で世の中を渡っていこうとしているのと比べて、より生きやすいコツを知っているはずの自分は足踏みしている、そこに自分の本気は本当にあるのか、という気がしたのではないだろうか。だから、彼女たちはのんに恩を返すのだと思う。のんに欠けている発想や手段を手助けするかたちで。

 

 このように、のんは自分の「好き」を貫き、それによって周囲をも助ける。一方で、それが純度の完璧なきれいごとでないのは、のんの両親がおそらく、劇中で離婚してしまっていることに表れている。

 離婚の原因がすべて、のんへの向き合い方の違いにあったとは限らないし、離婚=不幸でもないが、両親の違いが何よりも鮮明になったのは育児のあり方だったので、大きく関係はしているのだと思う。

 この点をどう評価するべきかはわからない。エンディングまで観ると、離婚があったことまで含めて、のんの「好き」でカバーしてしまっているし…。

 

 ところで、まったく話は変わるが、『さかなのこ』はさかなクンの半生を再現したものではなさそうだ。映画に出てくる「ギョギョおじさん」(主人公の町に住んでいる魚付きの不審者で、さかなクン自身が演じている)とかも、たぶん、映画オリジナルの存在なんだろうと思う。

 

のん過ぎる

 問題(?)はここからだ。ちなみに、映画のド頭に出てくる「男か女かはどっちでもいい」というメッセージに反した感想なので、この映画でそう考えるひねくれ者もいるんだな、と思ってくれればいい。

 

 さかなクンは男性だ。のんは女性である。

 仮にさかなクンを演じる俳優を女性に限定するなら、のんで正解だな、と俺は思った。他にも「正解」はいるかもしれないが、その一人がのんなのは間違いないと思う。

 ただ、そう感じた理由が、のんという俳優の男性性(男っぽい雰囲気、ぐらいの意味)にあるのか、性別関係なく、かすかに狂気を帯びたあの目にあるのか、俺にもよくわからない。

 のんの学ラン姿はコスプレっぽかったが、バイトの一つで寿司屋でうつむいて作業をしているときの雰囲気は、一瞬男性に見えた。これまで、他の女優の演技を観ていて、そういう印象を抱いたことがない。

 では、そういう男っぽさで、のんがさかなクンなのか。

 一方で、魚にエサをやったり壁に絵を描いたりしているときの、のんの目の怖さも気になる。これは危険なぐらいの集中力が放つ怖さであり、性別とは関係ない。

 それでのんがさかなクンなのか。それとも、両方か。俺も観ていてわからない。

 

 話は、もう少し入り組んでいる。そもそも、別にさかなクンを演じる俳優を女性に限定しなくてもいいのだ。男性含めて検討したらどうなるだろうか。

 俺はそれでも、のんが「正解」だと思う。

 ただ、その理由はのんが女性だからこそ、なのだ。どういうことかというと、さかなクンという人物の異質さを描くときに、実物に近い印象を観客に与えられるのは、男性が異質さを演じた場合ではなく、女性が演じた場合だと思ったからだ。

 例えば、二枚目の男性が異質さを演じたとき、現代ではどこまでいっても、それは単に、愛すべき長所になってしまうと思うのだ。そういう世の中になってしまっていると思う。

 さかなクンの異質さに、別の人物がもっとも近づけるとすれば、女性、それも、のんのような強烈な美人がなぜかわけのわからない言動をしているという、そこだと思う。だから、のんで正解なのだ。

 これを「美人なのに残念」とか「もったいない」という言葉で表すのはあまりに薄っぺらい。まあ、残念という感想自体が実際に薄っぺらいのだろう。

 

 平安時代の物語に『虫めづる姫君』というのがあって、大昔からずっと、「女のくせに、しかも美人なのに◯◯が好き」は異質な印象を人々に与えてきた。

 その「残念さ」ゆえに愛嬌がある、というメッセージも読み取れるのが『虫めづる姫君』の油断ならないところだが、それだって、大きなお世話ではある。別に、女性が虫が好きだろうが魚が好きだろうが、その変なところに愛嬌が存在しようが、ほっといてくれって感じだろう。

 話を戻すと、ただ、さかなクンの異質さはのんという美人の異質さによって、もっともうまく置き換えられているのでは、というのが俺の立てた仮説だ。

 つまり、製作側としては性別は関係なく人柄でのんをキャスティングしており、実際にのんの演技はハマってるんだけど、それは人柄の影響ではなく、のんという美人がキテレツなことをしているからこそ、実物のさかなクンの印象に近づいたのでは、と思う。

 そう思うが、それが正しいのか俺も自分でよくわからない。別に、男性の俳優だってよかったのかもしれないし、のんの芝居がハマっているのだって、のんが男っぽいからかもしれないし、のんの目がガチだからかもしれない。わからんな~と思いながら俺は観ていた。

 

 なんにせよ、面白いのでお勧めします。沖田修一の映画は悪人がまったく出てこないのすごいよな。

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