世界について

 先日、新宿に買い物に行って駅構内を歩いていると、目の前にそれぞれのスカーフをかぶった頭が二つ。お、ヒジャブだなと思う。

 そのカラフルな布をなんとなく見ていて、彼女らの後頭部が円形に、紐かゴムのようなものでくくられているのを知った。「こういう構造になっていたのか」と思う。

 ただ、もしかすると、他の人もこれと同じ巻き方ではないかもしれない。色んな方法があるらしいのだ。

 

 Wikipediaによると、日本国内における宗教別の信者の統計はないという。そういうわけで感覚に過ぎないが、最近見かけるようになったなあ、という気がする。

 別にイスラムが増えようとどうとも思っていなくて、歓迎もしなければ反感もない。

  俺は別に、多様性や寛容さを大切にしてもいないし、「他宗教でも人種でも、積極的に受け入れないと日本は立ちいかないですよ」という経済的な主張もない。

 といって、一緒に暮らしていて嫌だとも思わない。単にあんまり関心がないんだろう。新宿の雑踏の中でもヒジャブの彩りはよく目立つので、「まあ、風景として面白いな」ぐらいは感じる。

 二人で、楽しそうによく笑って話しながら駅の中を歩いていた。

 

 

 家に帰ってきてtwitterを見ていたら、イランのニュースでヒジャブに関する事件を紹介していた。

 マフサ・アミニという若い女性が、スカーフの着用に関する決まりに従わなかったために拘束され、その後不審な亡くなり方をしたこと、イラン国内の女性たちが警察や政府に向けた抗議のために集まり、そこでは主張のためにヒジャブを脱いでいる人も大勢いたことが報道されていた。

 

 ヒジャブというものに関する認識が日本の三十代男子(俺)の中でどのように変わっていったかというと、最初は「砂漠らへんに住んでいる女の人が巻いている布」というところから始まって、それが父権社会による抑圧のシンボルらしいぞ、となり、それから「いや、あれをアイデンティティにしていたり、ファッションとして楽しんだりしている女性もいるみたいだぞ」ということになり、なんだかよくわからなくなって現在に至る。

 そして、そのまま今もよくわかっていない。

 同じヒジャブを巻いた女性同士でも、「みんなはこれを支配の象徴だって言うけど、私は可愛くて好きなんだけどな」とこっそり思っている人がいるのかもしれないし、反対に、「みんな『そんなに深刻に考える必要のない、ただのファッションでしょ』って言うけど、私は束縛されてるようで好きじゃないな」という人もいるのかもしれない。

 そのお互いは別の国に暮らしていて、「彼女は彼女、私は私」でいいのかもしれないし、もしかすると同じ国、場合によっては同じ家庭で生活していて、相当緊迫しているのかもしれない。

 

 なんだかよくわかんねえな、と思うのだが、そういう意見でいいのかもよくわからず、「だって俺イスラム教徒でも女でもねえし」と思う一方で、じゃあ自分と属性が違う人の悩みはどうでもいいですか? というと、そんなわけはないので、わかんねえと思いながら気になっている。

 

sanjou.hatenablog.jp

 こんなことを書いたこともあった。