『深夜百太郎』の感想について

はじめに

 百物語の案をつくっており2050年ごろに完成する予定なのだが、このような流れもあって、『深夜百太郎』を久しぶりに読み返したくなった。小説家、アニメの脚本家である舞城王太郎による百物語だ。旧twitterにて、一夜一話連載されていた。

 基本的にはホラーなのだが、実話怪談風のものから伝奇っぽいもの、ドタバタなものまで、色々なジャンルが詰め込まれていて読んでいて楽しく、すごくよくできている(一部に受け付けないものもあるけど。これは後述)。また、舞城王太郎の作品として大変に特殊な位置付けにあるとも思っている。そこも含めて、印象的だった話の紹介を中心に、考えたことを書いておく。

 

倒れた木

 福井県の田舎で、子ども同士で遊んでいたところ、木のくぼみにあるものを見つけて…という話。

 『深夜百太郎』という本は調布(都内としては緑が多いが、開発された市街)と福井(自然が色濃く残る土地)とを交互に怪談の舞台にしており、『倒れた木』は後者側のエピソードになる。

 他の話にも出てくる重要なモチーフとして穴が登場する。悪意を持つ穴だ。登場人物が穴を見つけるが、実際は穴に見つけられている。

 『倒れた木』における穴は一種の門だ。入口であり出口。しかし、穴の本質は「欠陥」という点にある。この世界に存在する「陥穽」。世の中を論理立てられた構造として見ることで、はじめて穴が穴として、この世のロジックを損なうものとして認識できる。
 世界はこうであるべきだ、できれば良いものであるべきだ、という信念が強ければ、それに応じて穴はより暗く深くなる。そして、同時に魅力を増す。

 さて、『倒れた木』には舞城王太郎の作品としてきわめて特異な点があるので、それにも言及しておく。話になんの救いもないことだ。この話を含めて、『深夜百太郎』の怪談には、登場人物がまったく救済されず、容赦なく破壊されて終わるものがたくさん出てくる。

 実は、舞城王太郎の作品でそういうものはとても少ない。ハッピーでもビターでも、何かしらの前向きな決着を得られることがほとんどであり、舞城王太郎のファンほど『深夜百太郎』には面食らうのではないかと思う。

 ここでは普段の作風がフリになっており、だから、俺は舞城作品のファンこそ『深夜百太郎』を読むべし、と思う。きっと驚くからだ。ちなみに、従来の舞城王太郎の嫌な部分がそのまま強調されるような怪談もあって、これはシンプルに嫌いだ(後述)。


地獄の子

 『深夜百太郎』の中で最恐だと思う。言葉の意味が反転する鮮やかさ、なぜそうなのかの説明をまったくしない一方で、状況にまつわるすべてが腑に落ちる感覚が素晴らしい。


踏切

 夜。友達と散歩。ジュヴナイルのようでもあり、結末でぽーんと放り出されるのが幻想小説のようでもあり。

 また、舞城王太郎に以前から頻出するテーマに言葉の両面性というものがあり、「言葉を生きていくための標識とする」「言葉に振り回されて迷子になる」ということがよく描かれるのだが、『踏切』にもそれが出ている。

 

友達の部屋

 とても寂しくて悲しい。

 

笑う鬼

 この話を含めて、何かに取り憑かれたようにして登場人物の性格やふるまいが暴走してしまう話がよく出てくる。正直、「もういいよ…」と後半は食傷になる部分もあるんだけど、『笑う鬼』はふと我に帰る瞬間がなんとなく想像できて好き。

 元々理性を重んじるところの強い舞城王太郎作品では、時々これが行き過ぎて、モラハラ&ロジハラっぽい登場人物が出てくる。ポジティブな方向に寄っていれば、「理性に秀でた主人公が理念のために悪と戦う」となるが、嫌な方向に寄ってくると、「口喧嘩が得意でロジカルなキャラクターが、感情的で後先考えない誰かと議論して、相手の逃げ道を完全に封鎖してぺしゃんこにし、最後は『バカには構ってらんないよ』というオチ」となる。

 後者は俺の嫌いな舞城で、自身の合理性に酔って暴力と化しているところが好きではない(俺にも同じような面があるので、自己嫌悪でもある)。

 『深夜百太郎』に話を戻すと、このテイストの話がけっこう出てくる。そこは好かない。ただ、『笑う鬼』は上手いと思う。

 

あじさいの中

 セクシャルなので詳しく書けないが、いきなり奈落に落ちるように化生に取り込まれる様子がたった一文に表れていてすごい。

 

穴の蓋

 「穴」再び。オチも好き。

 

河童の地蔵

 クトゥルーもそうだが、人間以外の生き物も何かを拝んでいるのは気持ちが悪い。信仰(する能力)がどこかで俺たちのアイデンティティになっていて、それがゆらぐからだろうか?

 

夢の猿

 いわゆる「猿夢」…ではないが、結局、破滅へと向かう。

 お化けは、向こうに悪意がある場合とない場合に大別できると思うが、悪意がなくても無害とは言い切れず、そういう話な気がする。不幸にも「遭って(合って)」しまったというか。

 

横内さん

 おそらく、『深夜百太郎』のハイライト。怪談としてイレギュラーであるとともに、アンチ舞城であり、同時にまさに舞城王太郎。人間の強さをお化けが上回りつつ、人間が最後にヒューマニズムを見せるという。

 書いていて思ったけど、同じ作者の偉大な傑作である『淵の王』の翻案かもしれない。ちなみに、俺は『淵の王』の感想を書きたくてこのブログを始めた。

 

篝火

 お化けというより、地元の奇習に関連して、主人公の人となりを周りが「しょーがねえな」と苦笑いしながら見てる感じとか、生活の移り変わりとかが面白い話。

 

次の電車

 不条理や苦痛には、何か理由や今後の教訓があるべきだ、という発想をあざ笑っていて、これも舞城王太郎らしくないと言えばらしくないし、らしいと言えばらしい。素晴らしい作家というのはこういう両義性を持つのだろう(少なくとも、ファンにはそう見えるものだ)。

 

隣で寝てる人

 これも大変に舞城王太郎らしい、会話をめぐる迷宮の話。発言者とその正体がめまぐるしく入れ替わるのにすんなり理解できる文章力もすごい。

 

保留中の黒電話

 最後のオチが面白い話。
 ホラーとして考えると、電話を経由しているのが怖いんだろう。

 分解すると、

① 電話越しであることが「幽霊らしさ」を強調するから

② 幽霊=死者とは別の、「電話越しの声」というのが別種のお化けだから

 …という感じか。幽霊以外の存在もお化けとみなすと、ほとんどのものはお化けになりうることがわかる。
 また、①②の恐怖はお互いに排除しないのも大事なポイントかもしれない。これは、恐怖する(楽しむ)自分に分裂が起きることも同時に意味していて、①を楽しむ自分、②を楽しむ自分が分かれるし、その分裂もまた、「お化け」になりうるからだ。

 複数の要素を持つ怪談は読んでいる俺たちも多重にするし、その重なり、ズレが新しい「オバケ」になる。

 

掘り出し石

 なんだかよくわからないものに、他のよくわからないがからまってくるところを淡々と書いているのが良い話。

 

空き家の草取り

 言葉は呪いで、だまされずに回避したつもりでも、なんらかのかたちで呪われている。
 ギリシャ神話でオデュッセウスが、怪物から「お前は何者か」と聞かれ、「何者でもない」と答えるエピソードがある。

 化け物に素性や名前を教えてもいいことはなく、正しい判断と言える。ただ、ジョーゼフ・キャンベルという神話学者が面白いことを言っていて、「何者でもない、と答えたことが自己の喪失につながっている」…だそうだ。
 つまり、名乗ろうが名乗るまいが、別のかたちで呪われることになる。この手のやり取りで怪物を上回るのは難しい。

 

電車停車中

 あり得ない状況のあるあるとして面白い。

 有事のときに行政や警察の対応をどう書くかは作家の腕前が試される部分だと思うが、これが巧みでいいなあと思う。また、文章というメディアの情報的な制限を逆に上手く使っていて、見えそうで見えないホラーとしてもいい。

 

友達案山子

 バカバカしくて好き。舞城世界は利己的でないバカに優しい気がする。

 

迷子の守護者

 光の主人公が帰ってきて、やっぱりこれが欲しかった、と思う。作品の評価としては、家族からもシステム側からも「(それが善行であるのは理解したうえで)お前何してんの? うっとうしい」という描写がちゃんとあるのが大事な気がする。

 

花火の帰り道

 内田百閒の薄暗さが好きな人に。

 

寝ずの番

 スラップスティック。スペクタクル。旧twitterで誰か言っていたが、俺もアニメで観たい。

 

呪い

 シンプルに発想がおそろしい。

 なぜ怖いか、その理屈を言えば、「何かがそこにあるから見る」という因果をひっくり返して、「見るからそこに何かが発生する」というのが、みんななんとなく腑に落ちるから嫌なのだろう。

 

ワタシシ死

 中国の昔の怪談に、死者(いわゆる鬼)がさらに死んだ存在として聻(せき)というものが出てくる。

 中国の幽霊はあまりそれらしくなく、ふらっと家に帰ってきたり、なんなら生者との間に子どもを持ったりするいい加減なものなので、死の重みがかなり違うのだが、「死者がさらに死んだ存在」という概念はとても面白いと思う。

 人が幽霊を恐れるように、幽霊は聻を恐れるという。幽霊になれば怖いものがなくなるかというと、そんなことはなく、恐怖はどこまでも続く。きっと、聻の次もあるのだろう。想像することはどこまでも可能だ。

 話がズレるかもしれないが、俺は自分では割とヒューマニストのつもりでいるけど、人間の暗い本能にもはげしく惹かれる。ホラーを追っていて感じるのは人間の恐怖に向ける貪欲さで、俺たちという存在は恐怖に憑かれているな、と思う。

 『淵の王』にも、同じようなセリフが登場した。本来は生きるための機能である恐怖という本能をハックして、俺たちは四方八方から責め立てて快感をしぼり出そうとしている。恐怖のために躍動する想像力には限界がない。

 「そう。だから、いい加減なところでやめておけよ」というのが『淵の王』のメッセージだった。それでいて、状況を打開するための武器になったのも怪談だというのが、舞城王太郎のにくいところだ。

 いつの間にか『淵の王』になぞらえすぎたが、本来、この記事は『深夜百太郎』をほめるのが趣旨である。面白い話が多い。みんな読むとよい。