欲望、決壊前夜。『ゴールデンゴールド』3巻までの感想について

はじめに

  「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」というジャンルがある。それは俺の中で。

  意味はそのままで、出てくるキャラクターが敵も味方も、強いやつも弱いやつも、全員現況の打開のために知恵を絞って全力で頑張っていて、その苦闘が伝わってくる作品を指す。

 

  実は、自分で言いだしておきながら、「ジャンル」という言い方はあまり的確ではない気もしている。

  なぜか。それは、この区分に分類できる作品があまりに少ないから。

  んなアホな、と読んでいる方は思うだろうし、自分でも思う。

  たいていの創作物に出てくるキャラクターたちはみんな頑張っているのに。特にバトル漫画なんかで敵味方が複数ヶ所で乱戦状態になるのはよくあることで、そういう作品はたくさんあるのに。

  にもかかわらず、敵も味方も、みんながみんな複数ヶ所で同時に頭をフル回転させていることで生まれる緊張と波乱を、そのまま読み手に伝えられる人間は、たぶんとても少ない。

  戦局が一つ一つただ消化されていくのではなく、互いに作用しあって思いもよらない事態になったり、本来のパワーバランスでは弱者である存在が意外なキーとなったりするような複雑な状況を、わかりやすく整理しつつ、先が読めない混沌としても表現できる作家は、それだけ、おそろしく少ないのだと思う。

  そういうことができる作家を「上手い」と呼ぶのか「頭が良い」と呼ぶのか…、まあ簡単に言うなら、「天才」と表現するべきなんだろうと思う。

 

あらためて、堀尾省太作・『ゴールデンゴールド』について

  瀬戸内海の離島で暮らす中学生・瑠花は、ある日海岸で人形のような干物のような、人型のおかしなものを拾う。

  瑠花はそれをなぜか「福の神」だと直観し、このおかしなものに「島にアニメイトを建ててくれ」と願をかけたところ、そのおかしなものが息を吹き返したように動きだし、そればかりかまるで瑠花に福を呼び込むようにして、民宿兼商店を営む家には客が次々と押し寄せるようになる。

  店は事業を拡大していくが、店主である祖母の様子はまるで福の神に憑かれたように変貌していき、島内の経済状況を一変させてしまったことによる混乱はついに傷害事件に発展する。

  果たして「福の神」は善か悪か。江戸時代に姿を現したこともあるらしいが、なぜか力を失った。目的はなんなのか。そもそも何者であって、再び封じる方法はあるのか。

  たまたま島に取材旅行に来ていた女性作家、傷害事件の捜査を通して「福の神」の存在に肉薄しつつある刑事などもからんで、新たに明らかになる事実はありつつも、混沌がひたすら拡大していく。

 

  『ゴールデンゴールド』を何かのジャンルに分類するのは難しい。

  例えば、「福の神」という謎の生命体の正体に迫るという意味では和風SFっぽい。過去に出現したときの記録を追うところなんか歴史物っぽいし、福の神を事件の犯人とすると、それに刑事が迫るという図式はミステリっぽい。

  急に混乱した島内経済にいろんな人がばたばたする様子など、群像劇の要素もある。どうもなかなかまとめられない。

  なので、話は冒頭に戻る。

 これは、中学生、作家、編集者、商店店主、史学者、地元スーパー経営者、半グレ、刑事などが福の神を中心に苦闘する、「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」である。俺がいまそう決めた。

  ちなみに、この作品以外で「登場人物が全員全力で頑張ってるモノ」は三作しかない。一つは同じ作者による『刻刻』、あとは『HUNTER×HUNTER』のキメラアント編、それから中島らもの『ガダラの豚』だけである。

  『HUNTER×HUNTER』という超有名作品が出てくるあたりなんか俺の馬脚を現した感があるが、気にしない。むしろ、こういう結論につなげたい。つまり、蟻編に匹敵するぐらい『ゴールデンゴールド』はすげえし、『刻刻』に続いてこれを描いている堀尾省太は間違いなく天才だということである。

 

  『ゴールデンゴールド』を読んでいてすげえな、と他にも思うことがある。

  それは、人と金をひたすら引き寄せる存在である福の神が、いまのように離島の商店でひっそり活動している段階を超えて、政府や警察など公的権力によって意図的に悪用されたらそれはやべえということを、物語早々に、しかもなんてことない会話の中でぽんと言及してしまうところである。

 

  俺が作者だったらこれは絶対やらない。できない。

  理由は二つある。

  まず、福の神の力は確かに国家レベルの問題に発展する可能性を秘めているが、そういう規格外にすさまじいものとして取り扱う必要を示してしまうと、登場人物たちに色々考えさせないといけなくて面倒くさいのがある。

  なんとなくすごいもの、というぐらいならまだ気楽だが、世界の命運を左右しうる、となると当然キャラクターたちはあらゆることを考える。というか、考えないと不自然なので読み手が冷める。

  これは、キャラクターの思考を通して作者自身の想像力、頭の良さが作中にモロにあからさまになるということでもあって、かなりおそろしい。福の神はなんとなくすごいもの、ぐらいの扱いでしばらくだらだら話を続けた方が、明らかに楽なはずである。

  絶対やらないもう一つ理由は、「福の神にはこういう利用のされ方もありえますよ」と早々と宣言することで、作品の展開にシバリがかかってしまうからである。

  もし、福の神の国家的活用について一切触れられないまま『ゴールデンゴールド』の連載が何年も続いて、終盤ようやくそういう展開になったとしたら、読者には「ほう、こう来るか」という驚きがある。麻雀風に言えば、「ビックリさせた」という役が一つ作品の評価に乗ることになる。

  でも実際にはこの作品はもうその可能性に言及してしまったので、いつかそういう展開に仮になったとしても、それだけでは驚かされない。読み手を驚かせるためにさらに何かを演出してくるか、もしくは、単に話を世界規模にする以外のとんでもない方法をエンディングにもってくるしかない。

  そんな理由で『ゴールデンゴールド』をすごいと思う。意図的にやってるなら覚悟があるし、天然でやってるなら怖いもの知らずだけど、なんとなく堀尾省太が自分自身で作品に異様に高いハードルを課していること、そして、それを毎回越えていることはわかるので、すごいと思う。

  

  3巻の最後で、twitterリツイートというとても現代的な方法で、福の神の存在は離島の外にも知られることになる。超自然的かつ正体不明の存在に、情報を爆発的に拡大するツールが掛け合わされたとき、何が起きるのか、何が無事ですまなくなってしまうのか、怖くて楽しみでしかたない。

 

  長々書きましたが、ちなみに3巻の感想で一番強く思ったのは「少女時代のばあちゃん超かわいくね?」ということなので、以上、よろしくお願いいたします。