あまりにも扇情的な傑作。映画版『BLUE GIANT』の感想について

 



扇情的

 良いのと悪いのと二つの意味を含めて「扇情的」と言いたい。

 一つは、音響によって観客の心と体をゆすぶる、とても官能的な作品であるということ。

 原作のストーリーの良さをまったく損なわない、素晴らしく編集された映画版だが、それでも、主役は物語ではなく圧倒的に音楽だった。そのくらい、言葉にならないぐらい良かった。本当に凄い楽曲群だった。

 もう一つは、過剰に観客の感動を誘おうとしていて、はっきり言ってポルノすれすれであるということ。

 映画版『BLUE GIANT』は、観ている側の感情のツマミに遠慮なく手を伸ばして、スイッチをオンオフするような作品だと思う。強烈に気持ちが動かされる一方、どこか観客を操作しようとしているというか、「創作工学」みたいな言葉も浮かぶ。

 念のため言っておくと、創作物は例外なく、触れた者を操ろうしている。俺が主張したいのは、そのやり方にも品性というか、つつましさみたいなものがあるべき、という話である。

 あと、とにかく、登場人物がよく泣く。

 映画作品のうちで何度もキャラクターに涙を流させるのは、法律で固く禁じられている。これは俺が定めた法律である。理由は、歳を取ると、スクリーンで誰かが泣いていたら自分も泣くからである。

 俺はこんなに常に誰か泣いている映画を以前に観たことがない。冗談抜きで、5分に1回以上のペースで誰か泣いている。

 何か達成したときであったり、挫折したときであったり、とにかく感極まってしまったときであったり…。ほとんどみんな泣いている。

 そして、俺も観ていて泣く。これは反則である。一応言っておくが、本来の悪い意味で反則である。

 

 そういうことで、映画版『BLUE GIANT』はポルノまがいの怪作と紙一重である。誰に何と言われようとはっきりそう思っている。

 そして、文句のつけようもなく、ものすごい傑作である。原作ファンでまだ観ていない人は、絶対に観た方がいいし、そうでない人にもおすすめする。本当に素晴らしい体験ができた。

 

あらすじ

 物語は、世界一のサックスプレイヤーになることを目指す18歳、宮本大が東京に上京したところから始まる。そして、大が組んだトリオによる、日本ジャズ界の聖地・So Blueでの演奏で終わる。

 明確な起承転結あり、原作から漏らしたところのほとんどない、素晴らしいストーリー展開。原作ファンはみんな、「あ、このエピソードをちゃんと描くのか」と思ったんじゃないだろうか。

 『BLUE GIANT』という作品のすごいところは、大という圧倒的な輝きを放つ青色巨星が主人公として存在する一方で、周囲の人物たちの葛藤や人生をものすごく丁寧に描く群像劇でもあるところである。そういうわけで、雪祈と豆腐屋とか、玉田とそのファンになった男性とか、大切な挿話も細かいセリフもちゃんと拾われている。

 2時間にこれらをまとめたのは、ものすごい編集の力だと思う。こうして構成された「大とその周囲の人々」という世界観が、エンディングの感動(嫌な言葉ですね)に大きな役割を果たす。

 あえて、原作にあったアレも映画で観たかったな~というものを挙げると、玉田が大と雪祈の前でソロを練習した成果を見せる場面だろうか。玉田の演奏を聴く二人の表情が少しずつ変わっていくのが好きなシーンだった(っていうか、玉田に関わるエピソード全般が好き)。

 

 ちなみに映画の冒頭は、まだ何者でもない大が、雪の中でサックスを練習していて、一匹の猫と遭遇するシーンで始まる。俺は原作でもあの場面が本当に好きで、大のすごさ、孤独と共感が両立する最高のエピソードだと思うので、大事なオープニングに選ばれたのはうれしかった。

 

具体的な感想

 以下、もう少しストーリーに触れながら感想を書く。

 二重の意味でネタバレになる。原作を知らない人だけでなく、原作ファンにとってもネタバレである。なんでかというと、最終盤の展開が原作と違っていて、そのことを書くからである(こう書くこと自体がもうネタバレだが)。

 あのエンディングには賛否があると思うけど、俺は良いと思った。

 そういうわけで、詳しく書いていくが、その前にある点でも話題になっている作品でもあるため、先にそっちに触れておく。

 

CG

 演奏シーンのCGがだいぶひどい、という理由で世間をにぎわせており、「どんなもんだろう」と思っていたら、確かにひどかった。

 これは擁護のしようがなく、サックスを吹く大の動きは捕まってあばれるエビみたいだったし、雪祈はキャラクターのディテールがつぶれてマネキンのようだった(玉田が一番マシに見えたな、俺は)。

 ただ、CGでないアニメーションで描かれる部分も多かったし、幻想的なビジュアルで演出している部分も多く(こっちはすごくカッコいい)、CGの出来は作品の印象にまったく影響ない。

 要するに、絵づらで多少失点しようと、そんなもの意に介さず吹き飛ばすくらいの魅力がある内容になっている。たぶん、多くの人もそう感じたと思う。

 

具体的な感想。雪祈について(注:ネタバレしかない)

 超絶技術の持ち主で、ハンサムで傲慢で繊細な、大と同じ18歳のピアニスト。

 『BLUE GIANT』映画版は、ある意味で雪祈の作品である。主人公の大も他のキャラも、みんな良かったけど、それでも、雪祈に注目することを求める構成だったと思う。

 

 原作ファンとして、「あ、雪祈ってこういうやつだったのか」とあらためて思ったのは、雪祈がはじめて大のプレイングを聴いたときの場面である。

 初登場時から合理性と傲慢さ(そして、そういう姿勢を認めさせる才能)を鮮やかに印象づけた雪祈。その雪祈が、サックスを始めてまだ3年だという大の演奏をはじめて聴いて、涙を流す。

 雪祈の計算高さや冷たさはその後、何度も描かれるんだけど、それでも彼は相手の努力に敬意を払い、そこに込められた情熱と、費やされた膨大な時間を敬える人間なのだ。

 

 クラブ・So Blueの平から、技術を誇るような自分のプレイングをコテンパンに評されたとき、多くの読者にとって印象的だったのは、一人になった雪祈がつぶやいた「あの人、いい人だな」という言葉だったと思う。

 これは、なかなか言えない。特に、雪祈ほど優秀なら、なおさら言えない。傲慢さと謙虚さ、他人への冷たさと優しさ、自己批判が入り混じったのが雪祈なのだ。

 ちなみに、この傲慢さと〜云々は、別のもう一人の人物にも当てはまる。主人公・大である。雪祈と大は、多くの面を、しかしまったく違ったかたちで共有していると思う。

 

 はじめて大のプレイングを見たとき、もしかすると雪祈は、感動と同時に恐怖を覚えたかもしれない。

 恐怖が言い過ぎなら、「敵わない」という圧倒的な格のようなものを、かすかに意識したような気する。この点はこのあとで書く。

 

 トラックの事故は、映画版でもやりすぎだったかなあ…と思う。俺は原作のときも、ストーリー上の展開という点で批判したけど、映画版については「あまりに扇状的」という点で、やっぱり批判したい。

 事故の描写が良くも悪くもリアルすぎる。たぶん、実際の事故もああいう感じで、ちょっと目を離した隙にすさまじい暴力が無音でやってきて、最後の一瞬だけ写真を投げ込むように時間が止まって、即座にすべてを無機質に押し潰していくのだろう。

 ああいうものを見せられたら(それも、これまでの熱いドラマのあとに)、観客の感情はぐちゃぐちゃになってしまう。これは人の心の中に手を入れてかき回すようなもので、映画ってそれでいいのか? と思う。

 思うけど、でも、いいのか。何しろ、そこから先はもう、感動するしかないのだから。よくわからない。

 

最後の演奏

 原作では、So Blueでの演奏は大と玉田二人だけのものになった。

 映画版は違う。大と玉田が演奏を終えて裏にはけたところで、雪祈が片手の使えない状態で合流し、アンコールでカムバックするからである。

 これによって、So BlueのステージにJASSの三人がそろう。ただし、アンコールは自分も演奏する、と告げた雪祈は、これを最後にバンドを解散することも同時に伝える。解散ライブなのだ。

 

 この展開について、批判から書く。

 まず単純に、「さすがにその体じゃ無茶だろう」と思う。止めろよ普通に、と。

 ただ、『BLUE GIANT』というのは、ある種のブッチギレてしまっている人たちの物語でもあるので、許されるかもな、とも思う。

 大は雪の降る中で延々とサックスを吹き続けるような人物だし、雪祈も青春のすべてをピアノにかけてきた。玉田だって人生の大事な一年をすべてドラムに捧げると決めた。言い換えれば、みんな「これに狂う」ことにしたのだ。

 ポーズで情熱を装っているわけではなく、三人とも根本的にどこかネジを飛ばしている。そして、観客もたぶん、それを観に来ている。どうかしているプレイヤーたちが、ステージでさらにどうかしていくところを観に来るのだ。きっと、そうやって「狂っているやつがさらに狂う」ことの中にしか表れない、生きている価値を観るために。

 でもまあ、「いや、ステージで倒れたらその後の営業どうすんの…」と冷静に思う俺もいましたよ。

 

 もう一つの批判は、雪祈がステージに参加することで、So Blueでのライブが今後の物語に与える影響が完全に変わるからだ。

 上で書いたとおり、俺は原作での展開を批判したことがあるけど、それは、「何もここまであからさまに、今後の展開のためにキャラクターを壊さなくてもいいだろう」ということだった。「日本国内では大を成功させない」という作者の意図が見えすぎている、と思った。

 難しいのは、作者の目的そのものは理解できることだ。やりたいことはわかる(気がする)。日本では十分なキャリアを積めず(トリオでのSo Blue演奏を飾れず)、裸のチャレンジャーとして次の世界に挑む大、俺も見たい。でも、他の方法はなかったか、ということなのだ。

 しかし、映画版では雪祈が合流することになった。

 原作が「盟友のピアニストを欠いた状態で、非常に印象的ではあるものの未完全のライブを行い、次の地に向かう」のに対して、映画の「重傷から奇跡的に復活したピアニストと一緒に、完全なトリオで解散ライブを行ってから出発する」のでは、意味がかなり違う。そういう批判を書いておく。

 

 それでも。

 それでもですね。

 あの最後の三人でのライブシーンは本当に素晴らしかったよ。本当に。

 

 俺はジャズをまったく聴かないし、他の音楽の精神性なんかもわからない。

 だから、◯◯と比べてジャズは…ということはわからないけど、考えたことがある。

 劇中で雪祈が言った言葉に、「他の音楽と違い、ジャズバンドはずっと同じメンバーでは続かない」というものがある。

 この不安定なあり方と関係があるのかもしれないが、JASSの三人は強い絆で結ばれていながらも、各人が視野に入れているものは、まるでバラバラである。

 大は世界一のプレイヤーになるのが目的で、So Blueでの演奏はいわば、一つのステップに過ぎない。

 一方、雪祈は10代でSo Blueのステージに立つのが夢で、とにかく今は、そこにすべての照準が合っている。

 玉田はSo Blueとか未来とかではなく、「いま、この三人」でプレイするためにバンドを組んでいる。

 つまり、彼らは目的と技術と友情でまとまっているけど、一方で、何かのきっかけで分解する可能性を常に秘めている。こうした不安定さゆえに常に崩れてかけているものを、劇的にまとめ、一時的とはいえかたちにするのが、ステージでのライブだったのだ。

 だからこそ、雪祈の加わった最後の演奏は、すさまじい緊張感でもう、ちぎれそうになってる。

 夢のために一日も立ち止まれない大は、これ以上バンドにとどまれない。

 雪祈はこの舞台で人生最大の目的を達してしまった。

 そして、この二人と演奏できないなら、玉田にはジャズそのものを続ける理由がない。

 三人は、どうしたって今日で解散するしかない状況でプレイしているのだ。そういう分解の運命が、ステージでは反転し、一つのバンドの音となって鳴らされているわけで、この矛盾、このドラマなのだ。

 

 演奏中に、雪祈が大を見つめる場面が何度か挿入される。一方、大は雪祈をあまり見ていないように感じる。

 この先も、何度か描かれることになる、大が持つある種の残酷さ。周囲との関係性やあらゆる感情を燃焼させ、この場の演奏に変換する狂気。

 4歳の頃からピアノを弾き、音楽のキャリアではるかに先を行く自分をノックアウトした大の姿を、雪祈はまぶしそうに見つめ、もしかしたら恐れ、あこがれているのかもしれない。

 だからこそ、エンディングで大が雪祈に放ったひと言は、きわめて強い意味を持っている。

 「俺がお前のピアノの一番のファンだ」

 心底あこがれ、恐れて、でもその感情は秘めてきた相手から、こんなことを言われたら…一体どうしたらいいのでしょうか?(大は本当に罪作りだ)

 

 あらためて、ものすごい映画だと思う。

 批判も気になったことも、上で全部書いた。色々言いたいことは言ったうえで、それは、この映画がくれる感動をまったく傷つけない。

 原作ファンはもちろん、ちょっとでも興味がある人は、ぜひ行ってほしいと思う。

今日、脳から捨てたものについて ⑭

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

あぱぱの肉揉み

 元ネタは町田康の短編『権現の踊り子』。

 物語というのは、作者が考えていることや感情を伝えるツールになる。しかし、場合によっては、感情を食って別のものに変身してしまうことがあるというか、「最初は、そーいうつもりで書いてたんじゃなかったんだよな~」ということが結構ありそうだ。

 怒りとか嘲笑とかは特に難しく、なるたけ毒を抜かないと商品にならない。そういうバランスが難しいんだろうと思う。

 『権現の踊り子』は、あんまり大っぴらにするものでもないタイプの感情が、割りと原液の名残を濃く残している気がして良い。

 

マッド感

 ガキの使い、「これってエコじゃね?灼熱の素手地獄!箸なき戦い!!」より。

 煮立ったような飯に向かって、指を箸やレンゲに見立てて食うという企画。熱さをものともしない狂気を表した言葉。

 

dengue dengue dengue

www.youtube.com

 仕事中はずっと民族音楽を流していたい。

 

エシュロン

ja.wikipedia.org

 「そんなものないです」「いや、あるし」

 …というのは陰謀論の構造なのだが、エシュロンはどうも本当にあるらしい。そして、もちろん、陰謀論者はみんな、「これだけは本当にある」と言っているのである。

 ちなみに俺は高野和明の『ジェノサイド』で知った。

 

だらだら食い

 実家の猫が飯を一度に食べきらず、食べてはどこかに行き、また来ては食べ、を繰り返す様子を叔母が表したもの。

 

よく似ておる

 元ネタはモンスターエンジンのコント「暇を持て余した神々の遊び」。

 発想がものすごく優れたコントだと思っていて、実際にヒットもした。それでも、あれ一本で天下が取れるわけではないところに、厳しさを(勝手に)感じている。

 

三界に家なし

 どこにも身を落ち着ける場所がない、という意味。子どもの頃は「ふーん」と思っていたが、齢を重ねて、うっすらほんのりと俺もそうなりつつある。

 

プロテイン 原料

 筋トレの後、「一体、何からできているのだろう…」と思いながら毎回飲んでいる。気になるが調べるほどでもない、絶妙のラインにある。

 

 以上。

カレーについて

はじめに

 セブンイレブンがカレーフェスを始めてから、SNSで食い物の話題の中心がカレーになった。

 普段、特別に食道楽ではないにしても、色々な食べ物について投稿している人たちが、カレーの一色に染まっているのだ。

 みんなそんなにカレーが好きだったのか。いや、好きなのは知っていたが、いま目にしているとおり、みんな本当に好きだったのだ。

 他の食い物の話題も、まずカレーありきだったのだ。「(カレーが好きだけど、それはそれとして)今日はこういうものを食べた。作った。美味しかった」ということであって、この( )の中が今回のフェスによって白日にさらされ、俺の知らないところで、実はみんな一体だったのか…という気持ちになり、安心感と不安感が入り混じった変な気持ちなる。

 

 似たような気持ちに、一度だけに襲われたことがある。三十年近く前、小学校低学年の頃のことだ。

 あれから長い年月が経つけども、それ以来、同じ感覚を抱いたことはなかった。

 例えば、「みんながこういうことで一つになるのに驚いた」というケースとして、国際的なスポーツのイベントとか大きな災害の時が挙げられるが、俺個人は、成長する過程で出会ったどれ一つとして、「知らんかったけど、みんな本当は同じものを共有していたんだ」と驚いたことはなかった。今回のカレーフェスで抱いた、安心感と不安感が溶けあった奇妙な感覚は、本当に、三十年前のあるとき以来だ。

 

『怪奇!大東京妖怪ゾーン』

 それは、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』というホラーを読んだときのことだった。物語の主人公は俺と同じ小学生で、級友たちと一緒に、日常にひそむ妖怪や宇宙人を追うという内容だった。

 当時の子供向けホラーの多くは、テンションの高い作品だった記憶がある(意外と、文庫の『学校の怪談』みたいなドメジャーがダウナーな作風だったが)。

そうした中で、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』というタイトルも、他作品と同様の明るい印象を受けるが、実際の印象はまったく違っていた。陰惨で、超常的なオカルトとはまた別の、世の中の暗部みたいなものも描かれていて、過剰なほどグロテスクでもあり、とにかく気分の高揚とは切り離されたヘンテコな作風だった。

 以下はネタバレ。古い作品で、もう目を通す機会もあまりないと思うけど、一応、改行しておく。

 物語の最後で、自分の周りにいる友人たちが、これまで追ってきた妖怪や宇宙人によって、すでに成り代わられていたことが判明する。実は、人間なのは主人公だけなのだった。

 侵略ものとしてはメジャーな展開かもしれないが、当時の俺はものすごい衝撃を受けた。ところが、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』が本当にすごいのはここからで、なんと主人公自身も相手側の計画によって、化け物に変態させられてしまう。強制的に、というのではなく、ひそかに以前から「種」のようなものを埋められていて、それが物語の最終盤になって唐突に、抵抗しようもなく体を支配し、変質させるのだ。

 自分の身に何が起こっているのか、古い肉体を脱ぎ捨てて変わっていく主人公自身も気づいていない。ものすごく怖い。

 

 でも、同時に「ん? じゃあいいのか…?」という気持ちにもなる。

なぜかというと、友人たちの正体がわかったときに感じた恐怖や不安感というのは、 主人公以外の存在がみんな、彼とは別の異質な存在に統一されていることから来ていた。

 そうした、最後に残された孤独感とか、抗いようのない無力感が怖かったのだ。しかし、主人公もそこに合流していくわけだから、孤立していたのは結局、一瞬のことだった。だからそこには、まあ明らかにハッピーエンドではないけれど、同時に妙な安心感もあったのだ。

 

話はカレーに戻る

 今回のカレーフェスで感じた不安感と安心感は、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』を読んだときの気持ちとすごく似ている。

 あのときと同じように、みんな俺の知らないうちにカレーでとっくに一体化しており、そして、俺自身も結局はその一部なのだった。

だから俺もいま、フェスのカレーを食ってる。宣伝するつもりはないので商品名は言わないけど、マジで、店で出されるようなちょっと珍しい香辛料を使っているやつがあって、結構感動する。

惜しいのは、このブームに参加するのが遅れてしまったことだ。こういうとき、まずは「どうやら、このカレーフェスはかなりクォリティが高いらしい」から始まるわけだが、

 

① ま、だからって本当にカレー食いたきゃ店に行けばいいわけだし…

② あれ、周囲の熱がまだ冷めないな?

③ …俺も、食ってみようかな

 という具合に、しばらく様子を見ているうちに時間が経ち、③に至る頃には、もう終盤になっている。こういうことが多いのだ。もったいないことだ。

 

そして、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』に戻る

 最後に、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』が今回のフェスと唯一違っているところについて書いておく。

 妖怪と宇宙人に取り囲まれた主人公の孤立と不安から、彼もそこに取り込まれていく妙な安心感へと移っていく中で、最後に一人だけ、取り残された者がいる。物語を読んでいた、当時の幼い俺のことだ。

 周りが得体の知れない化け物だらけになったとき、ある意味で、主人公は完全に一人ではなかった。なぜなら、読者である俺が彼を見届けていたからだ。

 俺は、子どもが持つ強い感情移入と想像力を動員し尽くして、主人公のそばに立っているもりだった。しかし、応援していた主人公は、最後は向こう側に連れていかれてしまう。

 主人公にとって、それは完全なバッドエンドではないかもしれない。しかし、俺は一人だけ、あとに取り残されてしまった(ここで、化け物になるのがある種の隠喩だとすれば、現実の読者たちもとっくに「化け物」かもしれない、という批評が思いつかないあたりは、まだ子どもだ)。

 いま、「みんな、本当にカレーが好きだったんだな…」と言いながら自分もカレーを食っている俺は、人々の正体を知った驚きを感じつつ、それと一体化している。俺は、最後に自分も化け物になった『怪奇!大東京妖怪ゾーン』の主人公である。

 ということは、どこかに当時の俺と同じように、カレー大好き人間たちに取り囲まれながらも自分では口にしなかった、独りぼっちの誰かがいるんじゃないだろうか?

 きっといるはずだ。

 当たり前の話だが、飯というのは別に、誰かが食っているからといって同じように食わないといけないわけではない。俺だって、タピオカもマリトッツォも食ったことない。

 しかし、今回のカレーフェスは、こいつはちょっと、食わないのはもったいなかったかもしれない。そのぐらいには美味い。

 今度はいつあるか知らないけど、次回はあなたもどうですか? と言いつつ、「『怪奇!大東京妖怪ゾーン』のラスト、宇宙人になった主人公がこっちに(読者の方に)振り返ってみせるような描写があったら、本当に嫌だっただろうなあ」としみじみ思ったので、以上、書いておく。

今日、脳から捨てたものについて ⑬

はじめに

 主旨はこちら。

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以下、捨てたもの

 

MARVELコラボ

 何年か前までパズルアンドドラゴンズをプレイしていて、「おお、この漫画のコラボが来るのか!」と楽しむという、とても健全な盛り上がり方をしていた。

 映画作品ともよくコラボしていたので、ふと、「しばらく遊んでないけど、MARVEL作品ともコラボしたことあるのかな?」と思ったのだった。

 していた

 ただ、キャラクター一覧を見ると、『X-MEN』の登場人物も入っているようだ。『X-MEN』はMARVELなのである。

 一方、映画作品として展開される、いわゆる◯◯シネマティック・ユニバースでは、多くのMARVELキャラクターとX-MENとは完全に切り離されている。その辺に業界の複雑さを感じる。

 ただ、資本主義、もしくは、よく言えばファンの期待に応えようという熱意は、こういう「大人の事情だからしょーがないね…」という世間のあきらめも、いつか来るプロモーションの起爆剤にしてしまうというか、何年後かに世界観がスクリーンで交わって(そして、版権に関する契約書も交わされて)、ファンたちが無邪気に「すっげー!」という未来がきても、まあ驚かない。いや、やっぱり驚くかな。

 

ポケモンコラボ

 さすがに、こことはコラボしていない。

 全然関係ないが、俺はいつか、ポケモンの本編がスマートフォンで遊べたらいいな~と思っている。

 交換も対戦も指先のタップ一つ。なんらかのかたちで、膨大な数のプレーヤーがフィールドに同時に接続していて、そこで起こすアクションのすべては、常にSNSで共有され続ける。

 そういう未来が俺の願望であると同時に、実は、自分のゲーム史において本当に大切なタイトルに対する暗いサディズムでもあって、ポケモン本編がスマートフォンに来たら、それは何かの歴史の一つの終わりになるだろうな、と勝手に思っている。

 

エッジランク

 フェイスブックにおいて、自分のニュースフィードの表示を決めているアルゴリズムをこう呼ぶらしい。

 よく、利用者ごとにカスタマイズされるSNSの表示については、いわゆるフィルターバブルに閉じ込められる負の面が強調される。ただ、はっきり言って現代の情報の大半は無価値、もしくは気が滅入るものばかりなので、こういうフィルタリングがなけりゃやってらんねえだろ、とも思う。

 一方で、そもそも、こういう取捨の仕組みがなければ確実に溺れてしまうような、今の世界の情報量自体が不健全で、もう根本的にどっかおかしいだろ、という考えもある。

 

なんていうやり方だぁ

 昨年のオリンピックのとき、TBSアナウンサーの安住氏がNHKの方針を批判して発した言葉。

 

なまねこなまねこ

 元ネタは宮沢賢治『蜘蛛となめくじと狸』

 邪悪さにも色々種類があって、異常な怪物のように、コミュニケーションが不可能な邪悪さもあれば、表面的に言葉をとりつくろって、一見すると意思疎通ができそうな邪悪さもある。

 個人的には、暴力性や悪意を隠さない人間よりも、何かの言葉を発して危険性をカモフラージュしてくる相手の方が嫌いである。それは、騙される危険性があるからではなく、そういう作戦を取るところに相手の罪悪感みたいなものを感じて、生理的に不快だからである。

 ちなみに、それは自己嫌悪の話でもある。

 

ワイマラナー

ja.wikipedia.org

 美しい生き物がいるものだ。

 

クエビコ 

ja.wikipedia.org

 

 日本神話の神々の名前というのは、とても「日本」を感じる響きがある。

 ちなみに、俺は日本の文化にも寺社仏閣にも、ほとんど愛着はない。

 

様々なる意匠

 小林秀雄の文章。学生時代に読んでいたせいか、題名をいきなり思い出した。題名以外は何一つ思い出せない。

 

以上

今日、脳から捨てたものについて ⑫

はじめに

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以下、捨てたもの

酒池肉林区 卑猥町

 元ネタは『ナニワ金融道』。

 町中の看板も小切手の名義も、この漫画ではすべてがこういうカラーで占められている。作中の人たちも何も言わないので、「もしかすると、こちらと向こうでは言葉の意味が違うのだろうか?」などと考え始めると、とても不思議な気持ちになる。

 

猿のリハーサル

 ものすごいピリピリムード、と続く。

 元ネタはさまぁ~ずがやっていたラジオ番組『さまぁ~ずの逆にアレだろ』のコーナー、「悲しいダジャレ+1」より。

 

阿葉山 もち

 元ネタは『無限の住人』。

 阿葉山は作中に登場する老剣客。最終盤の戦いで敗れ、死亡したかと思われていた。その後、後日談にて、呆けて「もち」と言いながら、親族の世話になっている姿が描かれている。

 それまで、阿葉山の戦闘シーンはあまり描かれてこなかったが、この漫画における準最強候補の一人である偽一と互角に戦ったため、間違いなく強キャラであった。

 ところで、俺は30半ばであり、もう老いを語れるような、まだ語れないような微妙な感じだが、何か明確な夢や大志がある限り、年数に関係なくある程度は遠ざけることができ、それらを失った瞬間に深く染み入ってくるものをそう呼ぶのかな、ということを思う。

 ちなみに、上で「準最強」という表現をしたが、『無限の住人』における最強は議論の余地なく決まっている。そういう漫画である。

 

麺がもちもちになる!

 元ネタは『寿エンパイア』に登場する寿司職人である児島さんのセリフ。

 児島さんはオールバックに眼鏡の強面で非常に口が悪く、勝負した相手の寿司をボロカスにこき下ろすことをルーティンとしているが、「どうすれば改良されるか」を忘れずに言い添える上、それが毎回的を射ているため、読者から変な人気が出た人である。

 

欲望に正直じいさん

 元ネタは『御緩漫玉日記』。

 俺は脳から物を捨てるときに一度口に出していることが多く、そのときは発する言葉が社会的にどうとかのフィルターが基本的に機能していないため、職場でけっこう危険である。

 

ほら貝

ja.wikipedia.org

 

 ほら貝というと楽器として加工済みの、道具としての姿が思い浮かぶ。しかし、ほら貝はまだ生きているうちからほら貝という名前である。「ホラにするための貝」ということである。

 ということは、死んでからそれに加工する予定の道具の名前をあらかじめ付けられているということであり、なんというか、うまく言えないが、すさまじいことだと思う。

 

タタミイワシ

 食ったことがない。食わずに死ぬ可能性がそこそこあり、どうもそういう、「あれ、このまま一生食わんかもな」という食品が見えてきたような気がする。

 

 以上。

今日、脳から捨てたものについて ⑪

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

・もちろん新品で買ったわ

 漫画家 花沢健吾の旧HPに登場するフレーズ。要するに、中古ではなく新品で買ってくれということだと思われる。

 俺は当時金がなかったので、マンガを新品で買うことはあまりなく、やや居心地が悪かった。

 

・アジアからアメリヤカから…

 『ガキの使い』「マジかる浜田で浜田が激怒」。

 浜田の今後の海外進出計画(というテイ)について語る吉本 旧社長である岡本氏のセリフである。「アジアからアメリ『カ』から」を噛んでしまったものと思われる。

 

・何度でも美味しい朝ごはん

 『世界ネコ歩き』。

 一匹の地域猫があるお宅で朝ごはんをもらい、そのまま何食わぬ顔で別のお宅に向かって、そこで再び朝飯をもらう様子を評したもの。

 

・そりゃおめえはそうだろうよ

 元ネタなし。

 他人に対して、俺がよく毒づく際に心の中で思っている言葉。

 俺より才能や魅力に恵まれた人間が、「できるでしょう」的な感じで気楽にムチャを言ってきたとき、もしくは、俺よりいい加減な人間(というのはこの世にあまりいないようでいて、意外といるのである)が適当な提案を口走ったときなどに、よく思っている。

 早い話、俺は偏狭なのであった。

 

・ユナ・ボマー

ja.wikipedia.org 

 

 天才で犯罪者、というのがみんな好きなのだが(俺も好き)、なんかこう、屈折したルサンチマンが根っこにあるんだろうか、と思う。  

 

・儲かりましたわ

 M-1グランプリ2022でラストイヤーに臨みながら準決勝で敗退した、金属バット 友保の言葉。

 細かい背景は言わないが、また、実際に発した言葉なので、小説でも創作でもなんでもないのだが、「これこそ文学」だと思っている。本当に、本当に本当にカッコいいと思う。

 

 以上。

人類、このデスゲーム製造機。『イクサガミ 天』の感想について

はじめに

 デスゲームなんぞや。

 その両輪は、①殺し合うこと ②殺し合いの誘発と離脱防止が、システマチックに管理されていること だと思っている。当たり前だが、この二つの要素から成る。

 人類は有史以来、①をずーっとやってきた。

 あとは②でシチュエーションを整えるだけで、いついかなる時代・場所でもデスゲームはつくれる理屈である。人類はデスゲーム製造機である。

 そういうわけで、本作の舞台は明治時代である。

 

 いきなり余談だが、未来では人間は殺し合いを完全にやめているだろうか?

 ①=殺し合いは、遠い未来では達成困難な条件になっているだろうか?

 それは人類の知性と信頼にかかっている。最近はAIが怖いぐらい発達してきているので、もうそっちに任せたほうがいいかもな、と思わなくもないのだが、その果てにあるAI同士の戦争は、『火の鳥』ですでに描かれてもいるのだった。

 

本題

 そういうわけで、デスゲームはいつの時代だろうと描ける。ただ、現代でやるのとそれより前の時代でやるのとでは、違うところがある。『イクサガミ』の場合、殺人という行為の意味合いがいまと根本的に違う。

 現在、殺人は悪行であり犯罪である。

 「お前、上で人間はずっと今でも殺し合ってるって書いたばっかりじゃねえか」と言われると苦しいが、とにかくこの時代、人を殺してはいけないことになっている。

 

 だから、現代が舞台の場合、殺人を犯すべきかどうか、という葛藤が最初の焦点になる(ただ、このあたりは大量の作品によってコスられ続けているので、もはや今更、どうでもいいのかもしれない)。こうした殺人の葛藤は、誰か都合のいい戦闘狂的なキャラクターが作中で殺しを大っぴらに解禁するまで続く。

 一方、『イクサガミ』では殺人は悪ではない。

 なんでかというと、江戸〜明治のどさくさで普通に人を殺していたような連中ばかり、基本的に集められているからである。

 彼らは人を殺すことが何かの表現であったり、思想を示す手段であったり、というか普通に飯の種であったような魑魅魍魎だらけなので、殺人の葛藤とかゼロである。むしろ、「いつまでもあんまり、人とか好き勝手に斬るんじゃねーぞ」みたいな、時代がそんな雰囲気になりつつあって、じゃあ俺たちの意義って…みたいなやつさえいる。

 人殺したちの最後の残光というか、滅びゆくさだめ、時代の流れ。それが、よくある殺人の葛藤に代わる、今作のテーマかもしれない。

 なお、この点以外にも、その頃の雰囲気とか時勢を上手く描写している作品である。当時の文化とか情景とか。けっして、「とりあえず、舞台は明治にしよう。みんなに刀持たせて。ま…時代考証とかはどうでもいいぜ」ではない。ちゃんと時代劇である。

 

 ただ、作品の大筋はというと、ほぼベタなデスゲームものである。

 特にキャラクターの設定。新奇さはない。逆に言えばみんなの好物が多いとも言える。

 人殺しに苦悩はあり、弱者を見捨てられない甘さを抱えるが、いざというとき腕は抜群に立つ主人公。

 関西弁で得体の知れない、同じく強いライバル。

 正体不明で不気味な強ジジイ(みんな強ジジイ好きだよな。俺もだけど)。

 主人公と同じ修行を積んだ、因縁のある同門の徒。

 混沌とした時代の中にあってさえネジが飛んでる、ヤクネタ扱いのヤバい殺人鬼。

 

 こういう、まあありがちで、といっても目が離せない者たちが入り乱れて、殺し合いながら、点数(となる札)を奪い合い、目的地である東京を目指す、そういう物語である。

 ちなみに、「点」と「移動」がギミックの核になっているあたり、本作の枠組みは『スティール・ボール・ラン』にも近い。というか、どっちかというと、デスゲームよりは、「SBRっぽい作品だよ」という方が雰囲気がうまく伝わるような気もしている。

 

 以下は、気になった点や今後の予想を書いておく。

・覆面男は何者か?

 メタ的に、顔を隠しているキャラクターには、隠す理由がある、と思っている。

 上記のとおり、『イクサガミ』には「こいつは別格でヤバい」という人物が何人か登場する。

 そのほとんどはゲームの参加者だが、覆面男は例外だ。彼は、主催者を守る護衛であり、参加者たちの中から「お前ら運営の好きにはさせないぜ」とタンカを切って出てきた実力者を開始早々圧倒的に叩き斬ってデスゲームを始動させるという、いかにもというか、物語において大変無駄のない仕事をしたキャラである。

 俺は、戦乱を生き延びた新撰組の有名人が正体では、と思っている。斎藤一とか、永倉新八とか。

 覆面をめくって、「いや、どちらさんですか?」よりは、その方が美味しい。あと、主人公は新撰組と因縁があるようなので、そういう点でも美味いと思う。

 

・強ジジイは何者か?

 ゲームの開始直後に別格の強さと危険さを見せたジジイがいる。

 実は、主人公が使う剣術の傍流に一人、ヤバいジジイがいる、というエピソードが挟まれているので、もしかしたら強ジジイはそいつかもしれない。

 

・黒札のゆくえ

 今作の特殊なギミックに、「黒札」がある。

 まず、主人公たち参加者は京都から東京を目指すことを命じられる。旅程の途中、それから最後の東京に関所があって、他のプレイヤーが身につけている木の札(一人一点)を一定数集めないと通過できない。殺し合いは、この札をめぐって発生する仕組みである。

 ただ、札を失うのが殺された場合だけとは限らず、路上で力尽きたり、勝手に捨てるやつが出てくるかもしれない(捨ててはいかん、とは言われている)。そうすると、その分の点数が盤上から消滅してしまうことになる。

 黒札はそれを埋めるもので、第三ステージを最後に通過したプレイヤーに、「それまでに消滅した全ての点数分」として、(強制的に)運営から渡される、一枚で大量の得点を意味する札になる。

 そして、黒札の保持者は運営を通じて他のプレイヤーに通知される。こうして、黒札を巡って戦闘が加速する、というモクロミである。

 

 黒札を争って起きそうな展開をいくつか予想してみる。

① 主人公がうっかり持ってしまう

 冒頭から、他人にかけた情けのせいで目立ったターゲットになってしまう主人公なのだが、それがさらに悪化する、という予想。

 ただ、今のままでも十分標的になっているし、黒札持ってもあんまり変わらない気もする。というわけで、

② 強敵にわたる

 ヤバすぎて絶対に戦ってはいけない、もしくは心情的に戦いたくない相手に黒札がわたってしまう。関所を通過する点数を得るため、主人公が彼らを狙わざるを得なくなるという展開。これは①より美味しい。

 さて、黒札について一つ疑問がある。黒札は誰かに奪われたあとも黒札なのか、それとも、奪われた後は同じ点数分の普通の札に換えられるのか?もし、黒札のままなら、
③ 故意に押しつける

 …ということもできそうだ。一種のババとして、相手に押しつけることも可能かもしれない。

 ここからの黒札の行方に注目したい。

 

・みんな、人の顔よく覚えてんな

 敵プレイヤーを認識するのに、「スタート会場で見た顔」という根拠でみんな山林や街道でいきなり戦い始める。俺なら覚えてられないが…。

 

・あいつは生きてる

 主人公の仲間になる…という罠を見破られ、重傷を負って姿を消したキャラクターがいるが、死んだとは描かれてないので、生きていると信じている。俺は詳しいんだ。

 

・続編いつ出んの?

 昨年11月の時点で書き始めている、なので(2023年2月現在)、それなりのところまでは進んでいる。

 …かもしれないし、いないかもしれない。

 気長に待ちたいと思う。

 

 以上、よろしくお願いいたします。