海岸沿いに住んでいる。休日は雨が降らなければ椅子や尻の下に敷くタオルケットを持って浜辺に出ていく。
季節柄、じりじり灼ける。水筒で水を飲みながらずっと本を読んでいる。
風の強い日だった。陽射しもそれほど強くなく、潮風にさらされていると涼しく感じるときさえあった。
浜辺から少し離れたところで、波が強く灰色にうねっている。波は寄せてくるときと引くときでちょうど相殺されて、俺が座っている近くまで打ち寄せることはほとんどなかったが、ときどき上手いタイミングで引き波をかわしたものは、濁流になってしっかり砂浜をえぐり取っていた。
それでもサーファーがたくさん、波がやってくるのを海面で待っている。うまく乗る人もいれば、覆いかぶさってくる波に頭上から潰されて、しばらくして慌てて浮かんでくる人もいる。よくやるなあと思いながら本を読んでいる。
日本の伝統芸能である能の本を読んでいて、古典に興味があるわけではなく、お化けや怪談の話が好きなので、その変化球として手に取った。能にはオバケが出てくるんである。
能の配役は、大まかに言うとシテ(主役、神や偉人の霊魂、語り手)と、ワキ(人間、聞き役)に分かれている。で、いま読んでいる本の面白いところは、超常・ミステリアス・ヒロイックな存在であるシテではなく、ワキの方の役割に注目している点だ。
ワキは「分き」に通じており、シテというスーパーナチュラルな異物がこの世に出現したことを舞台の観客に「分からせ」、星霜を経ても消えることのない恨みや哀しみでこんがらがったシテの感情を「分けて」解き放つ役目があるという。つまり、ワキは常人であると同時に、物語を成立させるうえで欠かすことのできない存在であり、これはこれで、ある種のヒーローである、という理屈になる。ふうん、と思う。面白い。
読んでいて思うが、ワキ=「分き」に限らず、能のセリフや、観劇するうえでの補助線になっている短歌の言葉遣いというのは、無限の掛詞と類推、言ったら言葉遊びでできているんだな、と思う。詳しく知っている者が見て、聞いたならば、その人の知識次第で言葉に果てしなく橋をかけることができるだろう。
どういうことかというと、本の中では『定家』という曲目が例に挙げて説明している。
『定家』のシテは式子内親王の霊である。式子内親王は、百人一首の有名な「玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする(命よ、絶えるのならば絶えてしまえ。長く生きていれば、忍ぶ力が弱り、秘めた恋がばれてしまいそうだから)」を詠んだ人である。そして伝説では、この恋の相手が藤原定家であるとされる。
演目中、式子内親王が季節の秋に言及し、それを「かれがれ」と表現するセリフが出てくる。
秋は「飽き」=「飽和」に通じる。ここからは、上の短歌で詠まれているように、恋心を隠す感情が限界を迎え、難しくなってくる様子を読み取れる。また、そのまま「思慕の飽き」にも読めて、定家の心が実は自分から離れており、「飽きて」しまっているのではないか、という不安にもつながる。
面白いのは、この場には直接登場せず、存在を匂わされているだけの藤原定家も歌人であったため、人によっては式子内親王⇒定家⇒定家の秋の歌、という具合に想起のブリッジがかかることだ。
定家の歌に「うつり香の身にしむばかり契るとて 扇の風のゆくへ尋ねば」というものがある。
恋愛関係にある女性と、香りが体にうつるほど抱き合う、というかなり色っぽい内容でありつつ、実際は恋心のはかなさを詠んだものである。本の作者によれば、扇は「あふぎ」⇒「会う」に通じ、ただし、そのままの意ではなくて別れの暗喩になる…というのは、夏には身をあおぐために使われても、秋になれば捨てられてしまうもののアイコンだからだそうだ。
もちろん、秋という季節自体がもの悲しく、「かれがれ」はわかりやすく「枯れ枯れ」、恋情の盛衰を表すが、日本語的には「離れ離れ」という字をあてても間違いではない…と、まあこういう具合だ。
もちろん、こんなにも鮮やかにイメージの橋を架け続けられるかは観る人によるだろう。
俺の場合、恥ずかしながら「玉のをよ…」の歌が式子内親王の歌だという知識がまずインプットされていなかったため、想起の最初の一つ目からイメージ進行しない。しかし、詳しい人なら永遠にどこまでも遊びながら、観劇を豊かにできるだろう。
ふうん、と本を読んでいたら、1mぐらい眼下を、浜辺を削りながら打ち寄せてくる波と一緒に人の顔が通り過ぎて行ったのでぎょっとした。ウェットスーツを着た小学生ぐらいの男の子が、子ども用のボディボードに腹ばいで乗って遊んでいたのだ。
波の勢いに乗っていけるところまでいって、打ち上げられたところで立ち上がって、ボードを担いでまた海の方に歩いていく。波が引いた後の砂浜を進んで、その間に次の波がやってきて足元を流されながら、水面を踏んで海の中に戻っていく。ある程度進んだところで波を待って、タイミングを見計らってボードに体を預けてそれに乗ることを繰り返す。
うまく乗れるときもあるし、乗れないときもあるようだ。どちらかといえば上手くいかず、引き波に邪魔されるとかしてちゃんと前進できないみたいだが、ときどきしっかりと推進力をつかまえて、波と同じ速度で、それは人の体が運ばれる様子を見るとちょっと驚くぐらい速く、ボードと一体になって滑っていく。
延々と、延々とそうやって波と遊んでいる。本を読み進めて、ふと顔を上げると、どのタイミングでも海の中にいる。
すげえな、と思う。
飽きないのか、と思うが、飽きないんだろう。自分がそのぐらいの年齢だった頃のことを思い出せば、確かにそれだけで十分だろうな、と思う。
特段、巧みなわけではないし、海でボードを使ってやるにしては原始的な遊び方だと思うけど、別に十分だろうな、と思う。今回上手くいかなければ次は上手くいくかもしれないし、次上手くいったら、続けてうまくいくかもしれない。それだけで楽しいのだ。そういう遊びもある。というか、そういう年齢というか。歳のせいにしてはいけないなら、精神性というか。
年齢と環境と知識のどれかがかみ合えば、世の中、何かしらのことで果てしなく遊べるようにできている。できていると思う。能なり。海なり。
正直に言えば願望、もっと言えば羨望に近い。そういう具合にできていると思いたい。
俺は違うけど。自分も同じように何かで延々と遊べるなら、休日に一人で曇天の中本を読んでる以外のやることがたぶんあるはずだ。ないからこんなことをしている。
まあ、どっか誰かのところにはそういうことが起きているだけでいくらかの希望だ。いつか自分にも(再び)そういうことがあったって別にいいだろう、と思いながら今日は本を読んでいる。海に入ってもないのに、長時間潮が舞っている中にいたから全身がねたねたになった。



