『呪術廻戦』21巻の感想について。もしくはギャンブルとフィクション偏愛の話

はじめに

 猛烈に面白かったので感想書きます。

 

石流生存!

 うれしい。良いキャラだったんで。

 ただ、なんつーか、「死にそうなところで生き残ったのが、むしろ将来の死亡フラグ」みたいな漫画なんで、そこがつらいところです。

 

シャルルVS秤

私の脳にゴミのような情報を流すんじゃなぁい!!!

 めちゃくちゃ笑ってしまった。

 

 ゴミのような情報を流す秤の能力はかなり複雑なんだけど、敵側にルールが共有されるって特徴もあって、これがマンガ的によくできてる。

 仮に内容がややこしい上に正体自体が不明、となると読んでる側もしんどい。例えば、綺羅羅の能力はマジできつかった。

 この点、坐殺博徒の場合は、ある意味で敵の方が能力の解説役になってくれる。便利。

 

 さて、なんだかんだ、パチンコへの順応性高いシャルル。すぐにルールが理解できる。

 呪術師はみんな頭いいもんな~、からの「帰ってくれ夢!!」は素晴らしかったです。思いっきりハマっている。

   

 関係ないが、『呪術廻戦』とよく比較される漫画に『HUNTER×HUNTER』があるけど、ハンタの方は意外と、ガチの戦闘真っ最中にはギャグはさまないよな、と思った。もちろん、どっちが優れてるということでもないけど、この辺はやっぱり、呪術の方が最近の漫画っぽいなあ、と思う。

 

鹿紫雲VSパンダ

 「お姉ちゃん」、前から存在が匂わされてて切り札っぽかったけど不発。

 

第185話「バイバイ」

 よかった。わかりにくいって感想があったのは、現実のパンダと三男坊の小さいパンダの性格が違いすぎて、読んでる側でそこがちゃんとリンクしなかったんだと思う。あと、キツネとかタヌキとか、どっから出てきてん、という。

 芥見さんは、人外のキャラの表情を描くのがクソ上手い。

 

鹿紫雲VS秤

 シャルルと同じくパチンコへの順応性が妙に高い鹿紫雲。「うっかり特快リーチ!!」。

 乙骨対石流もそうだけど、受肉した過去の呪術師はみんな付き合いがいいよな。勝ち負けよりも、相手の全力を受けきってから自分の全力で上回る美学というか。それが結果として強さになってるからタチが悪いんだけど。

 

鹿紫雲、仲間になる

 対宿儺用の一回きりの術式があるそうで。

 俺は性格がゆがんでるので、「じゃあ、そのうち宿儺とバトって、そこで術式披露するけど宿儺には通じなくて、そこで死ぬのね」とか思ったけど、さて、どうなるでしょう。

 

ギャンブルとフィクション偏愛

 おそらくパチンコ未経験のシャルルが、戦闘の過程で完全にギャンブラーになってしまう描写が素晴らしかった21巻。

 それを爆笑しながら読んでいた俺はパチンコ未経験。たぶん、今後も打たないで死ぬと思う。

 それは賭け事が嫌いだからじゃなく、始めたらたぶん、浸かってしまうから。

 「帰ってくれ夢!!」というシャルルと同じような叫びは、パチンコ店や賭博場だけじゃなく、きっとあらゆるところで発されている。俺たちはみんな、それぞれの場所で叫んでいる。

 それは、家で漫画を読みながら。シアターで映画を観ながら。つまり俺たちは、物語というものと接するとき、「こうあってくれ」「こうあるべき」という感情を無意識のうちに引きずり出されている。

 ギャンブルはきっと、俺たちの脳みそを人類のはじめから焼き続けてきた「虚構」という神の一種だと思う。そして俺は、自分がこの「虚構」に強烈に魅入られている自覚があるので、バクチを始めたらきっと、この新しい神に人生を丸まる持っていかれてしまうだろう。

 だからやらない。他人(シャルル)が打っているのを見ながらへらへら笑っていられるぐらいがちょうどいいんだと思っている。以上。

 

八虎の誠実さ。そして、不二 桐緒は何者か? 『ブルーピリオド』13巻の感想について

はじめにーここまでのあらすじー

 主人公・矢口八虎、美大2年目。東京藝大への現役合格を、合理的な目標意識と猛烈な努力で果たした八虎だが、日々の中で少しずつ、自分の方向性に迷いを持ち始める。

 授業の課題である「罪悪感」がテーマの作品作りにも着手できないまま、八虎が出会ったのは、美術界におけるヒエラルキーの外部に位置する反権威的アート集団「ノーマークス」。そして、その代表者である美人で純粋で不穏な芸術家・不二 桐緒。

 不二の思想と人柄に次第に惹かれていく八虎だが、一方で、不二の周囲にある不気味な気配も徐々に見え始めてくるのだった。

 

感想

 ノーマークス/「罪悪感」編決着。

 ドラマティックな結末ではなかったけど、とてもよかったと思う。

 

 不二との出会いを経て八虎が得た結論、その経験を生かした「罪悪感」についての説明は、別に、すごく新鮮なものではない。言ってしまえば、まあ一般論だ。

 でも、八虎は自分の実体験を通じて答えを見つけた。それは、どんなぶっ飛んだ悟りを開くよりも大事なことで、普通な答えだからこそ誠実だと思う。

 

 犬飼教授の寸評を聞いたあとの八虎の反応も良い。これまで、何を考えているかよくわからなかった、独善的で残酷にも見えた教授から手放しで称賛されても、八虎は特に喜ばない。

 それでいいんだと思う。ここで大喜びしてしまうなら、八虎は「権威」側に完全に取り込まれてしまうからだ。

 ノーマークスという、あやしくて実際にいびつだけど、確かにある種の魅力を持つ世界にも理解を示した八虎なんだから、ここでそんなに喜ばなくていい。このバランス感は、八虎が良い意味で大人になった表れだと思う。

 

 物語の終盤で、不二 桐緒は八虎の前から去る(きわめて穏やかなかたちで。念のため)。少し話はズレるが、この不二という人物について、犬飼教授の発言もふまえて、もうちょっと考えてみたい。

 犬飼教授は不二が嫌いなようだが、彼は不二について次のように語る。

 「反権威主義集団・ノーマークスが解体されても、不二がいる限りは、ファンやパトロンによって何度でも復活する」

 「しかし、権威の正当性を証明するためには、反権威主義にいてもらわなくてはならない」

 この発言を深読みすると、「権威」と「反権威」とはある種の共犯関係にあるのかもしれないな、と思える。そして、次のように考えてみる。

 

 不二はおそらく、根っからの反権威主義者なのだろう。でも、実は最初は、ニュートラルで体制側でも反権威でもない、単に優れた一人のアーティストだったのかもしれない。

 同じ時代に存在する傑出した者たちの中で、ある個人がたまたま、「反権威」という役目を負うのではないだろうか。それが不二だったのかもしれない。

 犬飼教授の「不二 桐緒がいる限りノーマークスは復活する」という言葉は、もう少し広い意味で考えてもいいかもしれない。つまり、仮に今の不二が芸術界から去っても、別の誰かに同じ役目が移るだけだということ、「不二 桐緒」というのは一人のキャラクターであるともに、ある種のアイコンなんだろう。

 

 とにかく、不二は物語を去った。彼女は再度登場するだろうか?

 以前、どこかで読んだ感想に俺も賛成するのだが、俺は『ブルーピリオド』は少年マンガだと思っている。つまり、最終章の世界大会編(?)で不二が再び登場してもいいんじゃないでしょうか。どうでしょうか。

 

 そう、八虎が大人になったと言えばもう一つ。八虎は課題の制作を未経験の方法で行うにあたって、桑名さんをはじめ、他の人に助けてもらうことを学んだ。これも大事なことだと思う。

 

 13巻の後半からは八雲と鉢呂、桃代がメインキャラクターとなる新章。なかなか重い雰囲気。とりあえず、田舎の建物の空気感がすげー上手すぎる。

 あと、八雲23歳で思ったより歳いってた。俺は八雲、せいぜい20くらいだと思ってた。

 だから、18-19歳の八虎が八雲を「さん」付けするの、ちょっとでも上だったらそうするのってマジメって言うか、ヤンキーっぽいな、と思ってたけど、23歳ならそれはそうだな、と。以上です。

 

 

『HUNTER×HUNTER』37巻の感想について。2026年に再び会いましょう

はじめに

 内容の考察は俺よりずっと頭のいい人たちが色々書いているだろうから、あくまでいち読者として「やっぱすごいねぇ」と感心したところを紹介していく。

 

表紙

 ホイ・コーロ国王の婚外子にして二線者、モレナ=プルード。

 37巻で一番ノックアウトされたのが、話の展開でも台詞回しでもなく、この絵だった。絶対に話しかけたくない顔をしている。この人が夜に自宅の前に立ってたら100パー泣く。

 劇中のモレナは、虚無的で無軌道であっても割りと明るい描かれ方をしていた印象があるけど、写実に寄せて描くと、この表紙のようなビジュアルになるのかもしれない。ただ、悪意のネテロ会長のようにベーシックな絵柄を壊し、違った雰囲気でキャラクターを描き直せるのも『HUNTER×HUNTER』という漫画の特徴なので、別に、本編でモレナがこんな具合に、リアルに描かれてもいいんである(ちなみに37巻にモレナは出てこない)。

 

リハンのかわいさに感じる無駄のなさ

 攻撃対象の情報を自分で推理することで攻撃力が上がる念「異邦人(プレデター)」を持つリハン。

 37巻でターゲットを攻撃した後に交わした仲間との会話で、別のターゲットに関する情報を聞かされてしまい、「そこまで他人から教わると『異邦人』が使えないんだけど…」とぼやく場面があってかわいい。

 それと同時に、無駄がないな〜と思う。このシーンで、「① リハンという冷徹な職業軍人に対して愛着を持たせる」「② リハンの能力を再確認する & 次のターゲット暗殺でリハンは主な任務を負えないというアナウンス」が済まされているからだ。

 作劇において合理性を突き詰めると、キャラクターが人形劇のようになって没入感がなくなってしまうのでは、と思うことが多いが、これは上手くやっててすげーよなー、と思う。もし今後、リハンが継承戦の中で死亡したら(大いにあり得る)、俺は冨樫の思い通り、ショックを受けるだろう。

 

HUNTER×HUNTER』における魂の扱い

 魂というか人格というか、が他人に乗り移る能力がしれっと出てきて、この辺の適当さも良い意味でずるいよな〜と思う。

 基本的に、この漫画を読むときは、死んだら終わりの一回きりの命のやりとりを読んでいるつもりでいる。だから物語の緊張感がすごいし、キャラクターが死んで脱落すれば悲しいし、「カミーラの能力ずりぃだろ」とか思う。

 でも、魂という生物学的な死では破壊されない概念が出てきて、「あ、死んでも完全に終わりではないらしい」と思う。

 ただ、この「魂」がうまい具合に存在感がないというか、37巻でも何人かキャラクターが死んで、さらには、わざと死んではじめて機能する自爆部隊みたいな連中が出てきても、ちゃんと悲しいし、こいつらヤベェな、という感じが残っている。

 そういえば、蟻編の最終盤でも魂という概念に触れてはいた。それでもやっぱり、キャラクターが死んだらショックなわけで、死と魂の扱いについて、その辺の重なり方が上手いというかずるいというか。

 

バショウのフリースタイルバトル

 確かに、得意そうだけど。

 これも作劇の合理性と関係あるのかも。物語の情報量をうまくどんどん圧縮していくと、どこかにこういうシーンを詰めこめる余白ができて、それが結果として、キャラクターへの愛着につながっていく。

 

キーニの自害

 優秀なキャラクターは、窮地におちいった味方を救える一方で、「こいつがいたら、この窮地を『解決してしまう』んだよな」という邪魔な存在でもあって、それを上手く間引いたなあと思う俺はドライだろうか。

 

「ね 危険でしょ?」

 大人になってわかることの一つに、仕事の現場においては問題を魔法のように解決できる能力やツールが求められる一方で、解決が行ったり来たりしながら少しずつ進むことを前提として培われた技術や、単に「あんまり早く進むとついてないんですけど」みたいな時間感覚が存在する、というのがある。

 もしも本当に、現場の問題を一瞬で解消してしまう存在が現れると、これまで蓄積されたものがいきなり無価値になったり、それが逆にデカい摩擦を生んでみんな疲れたりする(不効率なだけなんだから、黙って消えろ!というのが、正しいは正しい)。いまの継承戦で旅団がやってるのはそういうことだと思う。

 そういうのを少年マンガで描くのはすごいね〜と思った…けど、これって要はなろう系?

 

ツェリードニヒもさ、「いいやつ」だよな

 自分勝手で暴力的な殺人鬼として登場し、それはまあ、いまでもそうなんだけど。ただ、念の世界におけるビギナーとしてテータに教わる態度は優秀な生徒そのものだし、人間味だって持っていて、裏切られれば動揺する。

 物語というものが、現実の誇張ではあっても、そこから乖離してはならないとするなら、俺はやっぱりこういうのがいいと思うんだよな。クソ野郎でも、まともな部分をさしはさんでいくいくべきだと思う。

 第一王子のベンジャミンにも同じことが言えて、ただの冷徹な脳筋と見せかけて、部下の言うことはちゃんと聞くし、人望もあるという。そういう新しい部分を見せてくれる物語が好きだし、そういうのが「いいキャラクター」だと思っている。

 

センリツの3分間はツェリードニヒのアキレス腱になるか?

 これはもう、大勢の人が考察していると思うが書いておく。

 ツェリードニヒが10秒間の予知夢に目覚めたのと偶然同じタイミングで、センリツが王子脱出計画のため、「音楽によって聴いたものを3分間忘我させる能力」を使う。

 気になったのは、この場面で描かれている時間の流れと、描写されている置時計の時刻だ。

 ツェリが予知夢に入ったのが置時計で8時58分ごろ。ツェリはそこで、自分がテータに銃撃されるのを予知する(10秒間の予知)。

 ツェリはテータの裏切りに驚きつつ、撃たれるところから離れる。テータはこれに気づかないままツェリ(がいた場所)を撃つ。

 そこでセンリツの3分間の演奏が始まる。ツェリもテータも演奏の影響を受け、9時3分ごろに曲が終わり、同時に我に返る。センリツの演奏を差し引くと、テータがツェリを撃ったのは9時ちょうどあたりになる。

 

 あれ? と思う。

 ツェリが予知夢に入る(8時58分)⇒10秒間の予知⇒テータの銃撃(9時ちょうど)で2分間も経っている。予知通りにテータが動いた10秒間をいくらかふくらませても、それで2分もかかるだろうか?

 

 予想なのだが、ツェリの予知夢にはツェリ自身も把握していない空白の時間帯があるのではないだろうか?

 2分も経ってないだろう、というだけでなく、(絶必須という条件はあっても)ツェリの能力が強力すぎるため、どこかに制約が必要では、と俺は考えた。この辺が、センリツの介入によって、その辺がツェリと読者から迷彩されているのでは、という推測をしている。

 

サラヘル

 死の覚悟が決まってるのと同時に、日常の延長で軽口をたたく余裕もあるという、彼女が「ボケ」と表現した、まさに軍人だと思う。俺は、任務遂行の直前で人情が目覚めてしまうオチだと思うな。

 

 以上。面白かったです。では、2026年に再び会いましょう。

 

労働について

 『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』という本の中で、現代では教養を身につける目的がすべて、ビジネスにひもづけられるようになってしまっている、ということが書いてあった。

 本来の教養というものがあるとすれば、はじめからビジネスに役立てることを目指してはいけない。お金儲けを目指して修養を積み、物事を吸収したり学んだりするのはおかしいぜ、ということだ。

 基本的には同意するんだけども、一方で俺の感覚と少しだけズレてるな、というのは、今の俺たちの生活って、おおよそ大体ビジネスと化しているというか、一日のすべてが労働になっていて、何もかもビジネスのため、って当たり前っちゃ当たり前なんだよな、と思う。

 本の中で言われていることのイメージは、一日8時間労働、週40時間の仕事に生かすために俺たちは音楽を聴いたり映画を観たりしているぞ、という感じだと思う。

 それに対して俺のイメージは、俺たちは働くために飯を食い、働くために眠っていて、働く以外の時間が全部労働のために最適化されることを目指しており、これははっきり仕事をしている時間帯以外も準仕事中、みたいな感じで、一日8時間どころか10数時間も仕事しているようなものであり、そうなるとまあ、あらゆるものがビジネスで活用されるためにある、というのも当然と言えば当然なんじゃないの、と思う。良い悪いは別として。

 俺たちはそのうち、働くために金を稼ぐようになるかもしれない(おいおい…)。

 

 要するに、労働という言葉が示すイメージは俺の中でかなり範囲が広い。

 基本的な定義としては、時間や体力を使って何か対価を得ることを、俺の中で労働と呼ぶ。そこから広がって、直接働く時間や体力を確保するための休息や工夫も、目的としては働くためにあるんですよね、という感じで半分労働と化しているということなのだ。

 ところで、ここまでの話では俺が異様な仕事人間のようだが、別にそういうことではない。単に、働くのが嫌いだけど他の生き方もあまりよくわからん、と思っているうちに仕事とそれ以外の部分が上手に仕切れなくなっているだけだ。

 

 それで、時間や体力を消費して対価を得ることを労働と呼ぶように、感情を消費して何かを得ることも労働と呼ぶ。これを俗に、感情労働という。

 ここで必ずしも現金化が起きるわけではなく、ここでの対価は収入とは限らず、漠然としたやりがいや情報だったり、費やしたのとは別の新たな感情だったりする。でも、いずれにしても労働である。「仕事」なのだ。

 暴論かもしれないが、感情や時間を消費して情報を得たり別の気持ちになるのは「仕事」なんである。

 俺たちは映画を観たりゲームをしたりして、そこには時間を費やすと同時に集中力や緊張が伴い、その対価として達成感や興奮を得る。これは労働なんである。

 そんなバカな、だって映画を観るときはむしろお金を払うぐらいだし、ゲームだって好き好んでやってるのに、と思うが、やっぱり労働なんである。

 

 言うまでもなく、俺は間違っている。「労働」「仕事」という言葉を拡大解釈し広げ続けた結果、おかしなことになっている。

 俺は最近、何もしないで海辺で太陽をじっと見ているのが一番好きだが、ここまで書いた立場で考えれば、これだって時間を代償に感情を緊張からリラックスに置き換えているのだから労働になってしまう。

 だから、間違っているのだが、間違っていなんだよ、いくらかは。と、どこかで思ってしまうのはやっぱり、俺もみんなも働きすぎなんだと思う。

 そんなに働かないで、もっとみんな休んだ方がいい。さらに言うなら、「もっと休め」という言説も含めて、お互いのことをもう、ネットとかであんまりごちゃごちゃ言うんじゃねえ、ということを思っている。

ひまわりについて

 仕事中に業務がかったるくなったので、気分転換がてら、職場近くのスーパーにハード系のグミを買いに行くことにした。

 職場がある建物の敷地を出ようとして通りを見ると、一方から老人の腰かけた介助用の車椅子が、その反対側から乳児の収まった乳母車がそれぞれ押されてやってきて、すれ違うところだった。

 これまで生きてきて、意外と見そうで見なかった風景だな、と思う。行く道・来た道、という言い回しを思い出した。あとは、スフィンクスのナゾナゾとか。

 色々連想しながら、俺も通りに出た。

 俺の行く方向は車椅子と同じになった。乗っているのは高齢の女性。押している男性がハンドルを少し切って、車椅子を道の端に寄せていった。

 その先を目で追うと、ひまわりが一輪植わっていた。こんなところにひまわりが生えているのをはじめて知った。季節のためか、くしゃっと萎れかかったようなひまわりだったが、それでも、まだ力強い黄色をしていた。

 今日のような曇り空ではなく、晴れている日ならそれなりに見映えもしたろうな、と思ったが、よく考えれば快晴のときにこの道を通ったことだってあったはずで、結局そのときは気づいていないのだ。

 男性はひまわりの前で車椅子を止めて、女性に何か話しかけていた。女性は花に目をやって、特に感動したようには見えなかったが、こういう時間の過ごし方全体を漠然と楽しんでいるようではあった。

 

 グミを買った帰り道に先ほどのひまわりの前を通りがかったら、何というか、できすぎというか、母親らしい女性が小さい子どもを抱いて、子どもにひまわりを見せていた。

 子どもは、ひまわりにはそれほど関心がないようだった。この子の中で今の時間は、親が花を見せようとしてくるのからわざと目を背けて遊ぶ時間になってしまっているようで、母親の腕の中でぐにゃぐにゃしてふざけていた。

 確かに、どうってことないひまわりだもんな、子どもにはつまんないよな、と俺は思う。と同時に、考えるのだが、俺たちは一体いつから、(そして、あるいは、いつまで)ただ 花が道端に咲いているだけで、それを美しいと思うことができるのだろうか?

 いや、というか俺だって、こんなところにひまわりが咲いていることに今日まで気づかなかったわけで、もしかすると、こういう花の美しさというのは、誰かに見せてあげようと思ってはじめて、気づける類のものなのかもしれない。

 「せっかく見せてもらってるんだから、ちゃんと見ておいた方がいいぞー」と思って、俺は親子連れを通り過ぎた後、振り返って子どもの方を見た。子どもはまだ、ぐにゃぐにゃしていたが、不審な中年と目が合って恥ずかしかったのか、いーっ、という感じで歯を出して笑った。

世界について

 先日、新宿に買い物に行って駅構内を歩いていると、目の前にそれぞれのスカーフをかぶった頭が二つ。お、ヒジャブだなと思う。

 そのカラフルな布をなんとなく見ていて、彼女らの後頭部が円形に、紐かゴムのようなものでくくられているのを知った。「こういう構造になっていたのか」と思う。

 ただ、もしかすると、他の人もこれと同じ巻き方ではないかもしれない。色んな方法があるらしいのだ。

 

 Wikipediaによると、日本国内における宗教別の信者の統計はないという。そういうわけで感覚に過ぎないが、最近見かけるようになったなあ、という気がする。

 別にイスラムが増えようとどうとも思っていなくて、歓迎もしなければ反感もない。

  俺は別に、多様性や寛容さを大切にしてもいないし、「他宗教でも人種でも、積極的に受け入れないと日本は立ちいかないですよ」という経済的な主張もない。

 といって、一緒に暮らしていて嫌だとも思わない。単にあんまり関心がないんだろう。新宿の雑踏の中でもヒジャブの彩りはよく目立つので、「まあ、風景として面白いな」ぐらいは感じる。

 二人で、楽しそうによく笑って話しながら駅の中を歩いていた。

 

 

 家に帰ってきてtwitterを見ていたら、イランのニュースでヒジャブに関する事件を紹介していた。

 マフサ・アミニという若い女性が、スカーフの着用に関する決まりに従わなかったために拘束され、その後不審な亡くなり方をしたこと、イラン国内の女性たちが警察や政府に向けた抗議のために集まり、そこでは主張のためにヒジャブを脱いでいる人も大勢いたことが報道されていた。

 

 ヒジャブというものに関する認識が日本の三十代男子(俺)の中でどのように変わっていったかというと、最初は「砂漠らへんに住んでいる女の人が巻いている布」というところから始まって、それが父権社会による抑圧のシンボルらしいぞ、となり、それから「いや、あれをアイデンティティにしていたり、ファッションとして楽しんだりしている女性もいるみたいだぞ」ということになり、なんだかよくわからなくなって現在に至る。

 そして、そのまま今もよくわかっていない。

 同じヒジャブを巻いた女性同士でも、「みんなはこれを支配の象徴だって言うけど、私は可愛くて好きなんだけどな」とこっそり思っている人がいるのかもしれないし、反対に、「みんな『そんなに深刻に考える必要のない、ただのファッションでしょ』って言うけど、私は束縛されてるようで好きじゃないな」という人もいるのかもしれない。

 そのお互いは別の国に暮らしていて、「彼女は彼女、私は私」でいいのかもしれないし、もしかすると同じ国、場合によっては同じ家庭で生活していて、相当緊迫しているのかもしれない。

 

 なんだかよくわかんねえな、と思うのだが、そういう意見でいいのかもよくわからず、「だって俺イスラム教徒でも女でもねえし」と思う一方で、じゃあ自分と属性が違う人の悩みはどうでもいいですか? というと、そんなわけはないので、わかんねえと思いながら気になっている。

 

sanjou.hatenablog.jp

 こんなことを書いたこともあった。

『正反対な君と僕』第14話の感想について

shonenjumpplus.com

はじめにー「奇蹟の残り香」「エレナの聖釘」ー

 久しぶりに『HELLSING』を読んでいたらアーカードアンデルセンの最終決戦で、切り札・「エレナの聖釘」で怪物の力を得て宿敵に対抗しようとするアンデルセンに、アーカードがこう言う。

 「やめろ!! アンデルセン!! 化け物になる気か!! 神の化け物!!」

 「やめろ人間!! 化け物にはなるな 俺のような」

 

 アーカードは自然の摂理を外れて人間から吸血鬼という化け物になり、基本的にそれでずっと楽しそうに戦い続けているので本人も満足している…と思いきや、すべてがすべてそうでもなく、こころのどこかで、外法によって力を得た自分を誰かが真っ当な方法で倒すことを望んでいる。

 その願望は世の中に対する願いというか、仮に自分が滅んでも、正しい者が誤った者を乗り越え、世の中がちゃんとしていることがわかって滅びるなら別にいいという、そういう願いなのだ。

 

 俺はなんの話をしているのだろうか?

 人というのは長く生きていると濁ったりゆがんだりしてきて、そのせいか、場合によっては自分以外の誰かまで道徳的に非があったり間違ったりすると嬉しくなることがある。

 しかし、「じゃあ自分も含めてみんながみんな、悪いことをするようになるといいよねえ」というとそうでもなく、結果として自分の弱さが際立つことになっても、誰かの正しさや誠実さを見届けたくなることもある。

 『正反対な君と僕』という漫画はどこかにそういう魅力があって、全員が全員まじめで他人のことを思いやっているので、それを見にいくために読んでいる。

 俺はまじめではないので、読むとダメージを食らうこともある。RPGで言ったら回復アイテムを投げられたら逆に致命傷を負うアンデッドがすすんで薬草を浴びるようなものなのだが、それでいいと思っている。

 …というとなんかすごくおかしな楽しみ方のように聞こえると思うので付け足しておくと、読んでいると普通にへらへら笑えるぐらい会話が楽しいので好きなのだ。

 

第14話

 鈴木の元カレということで以前から名前が出ていた岡理人が登場し、文化祭で鈴木と理人が遭遇する。

 余談だけど、男子の名前はみんな地形(?)なんですね。谷、山田、平、岡…。

 

 14話はずっと演出が素晴らしい。一方、それとは別にすごく良い構成だと思ったのは、過去の鈴木が理人と手をつないだときに「なんか違う」と理屈抜きに瞬間で感じた場面と、それから年月が経った現在、「純愛とは?」ということを鈴木が言葉で考える場面が同じ回に収録されていることだと思う。

 

 相手に触れた・触れられたときに「違う」と感じるのは、言葉や理性ではどうにもならない領域の話だ。なにしろ、当時の鈴木は理人のことが、好きか嫌いかで言えば好きだったわけで、それでも違うと感じたものは、どれだけ言葉で考えても「やっぱ違わないです」と変わったりしない。

 もしかすると、時間が経ってお互いが変われば「違わなく」なるのかもしれないが、少なくとも今この瞬間では無理な話だ。そのときの鈴木の反応から状況を理解したときの理人の描写もいい。

 

 一方、現在の鈴木は谷くんと自分の関係を見直すにあたって、純愛という概念を言葉で考え直している。この場面では、自分の気持ちや進んでいる方向がおおよそ間違っているわけではないけど、イマイチ落ち着かないというか微調整が必要なタイミングならば、言葉がうまく機能することが描かれている。

 

 「好きだけど恋人にはなれない」という生理的な感覚を言葉で変えることはできない。しかし、「この感情に間違いはないと思うが、少し手直しする必要がある」というときは言葉は役に立つ。

 

 俺はものすごく貧しい恋愛経験しか持っていない。しかし、恋愛感情を持たない相手を理屈で好きにはなれない残酷さと、理屈の部分で自分の気持ちをクリアにすることで得られる勇気が、両方とも色恋で大きな意味を持つことはわかる。

 言葉でどうにかなる・ならない、一方だけを一回の話で描くことは多いが、両方収まっているのはめずらしい。そして、すごい。だから14話が好きなのだ。

 最後の校内放送もすごい演出ですね。いやはや。

 

 あと、全然関係ないが、鈴木の足が遅いというのはすばらしいキャラだと思う。うまく説明できないけど。

 

 もう一つ。前から匂わされていた平と東の関係にも、はっきりフラグが立ったように見える。

 ただ、フラグが先行しているというか、ここからどっちがどっちをどういうかたちで意識するのか、まったくわからない。なにしろ、お互いに相手に引いている場面ばかり出てくる。

 このままずっと、「また平と東が接触しているぜ…。この二人はいつになったら…」と読者を思わせながら、何も起こらないのもいいのかもしれない。俺は、平と東がお互いに引いている光景を見ることでしか得られない栄養があると思っている。