遊びについて

 海岸沿いに住んでいる。休日は雨が降らなければ椅子や尻の下に敷くタオルケットを持って浜辺に出ていく。

季節柄、じりじり灼ける。水筒で水を飲みながらずっと本を読んでいる。

 

 風の強い日だった。陽射しもそれほど強くなく、潮風にさらされていると涼しく感じるときさえあった。

 浜辺から少し離れたところで、波が強く灰色にうねっている。波は寄せてくるときと引くときでちょうど相殺されて、俺が座っている近くまで打ち寄せることはほとんどなかったが、ときどき上手いタイミングで引き波をかわしたものは、濁流になってしっかり砂浜をえぐり取っていた。

 それでもサーファーがたくさん、波がやってくるのを海面で待っている。うまく乗る人もいれば、覆いかぶさってくる波に頭上から潰されて、しばらくして慌てて浮かんでくる人もいる。よくやるなあと思いながら本を読んでいる。

 

 日本の伝統芸能である能の本を読んでいて、古典に興味があるわけではなく、お化け怪談の話が好きなので、その変化球として手に取った。能にはオバケが出てくるんである

 能の配役は、大まかに言うとシテ(主役、神や偉人霊魂、語り手)と、ワキ(人間、聞き役)に分かれている。で、いま読んでいる本の面白いところは、超常・ミステリアスヒロイック存在であるシテではなく、ワキの方の役割に注目している点だ。

 ワキは「分き」に通じており、シテというスーパーナチュラルな異物がこの世に出現したこと舞台の観客に「分からせ」、星霜を経ても消えることのない恨みや哀しみでこんがらがったシテの感情を「分けて」解き放つ役目があるという。つまり、ワキは常人であると同時に、物語を成立させるうえで欠かすことのできない存在であり、これはこれで、ある種のヒーローである、という理屈になる。ふうん、と思う。面白い

 

 読んでいて思うが、ワキ=「分き」に限らず、能のセリフや、観劇するうえでの補助線になっている短歌言葉遣いというのは、無限掛詞類推、言ったら言葉遊びでできているんだな、と思う。詳しく知っている者が見て、聞いたならば、その人の知識次第で言葉に果てしなく橋をかけることができるだろう。

 どういうことかというと、本の中では『定家』という曲目が例に挙げて説明している。

 『定家』のシテは式子内親王の霊である式子内親王は、百人一首の有名な「玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする(命よ、絶えるのならば絶えてしまえ。長く生きていれば、忍ぶ力が弱り、秘めた恋がばれてしまいそうだから)」を詠んだ人である。そして伝説では、この恋の相手藤原定家であるとされる。

 演目中、式子内親王が季節の秋に言及し、それを「かれがれ」と表現するセリフが出てくる。

 秋は「飽き」=「飽和」に通じる。ここからは、上の短歌で詠まれているように、恋心を隠す感情限界を迎え、難しくなってくる様子を読み取れる。また、そのまま「思慕の飽き」にも読めて、定家の心が実は自分から離れており、「飽きて」しまっているのではないか、という不安もつながる。

 面白いのは、この場には直接登場せず、存在を匂わされているだけの藤原定家歌人であったため、人によっては式子内親王定家定家の秋の歌、という具合に想起のブリッジがかかることだ。

 定家の歌に「うつり香の身にしむばかり契るとて 扇の風のゆくへ尋ねば」というものがある。

 恋愛関係にある女性と、香りが体にうつるほど抱き合う、というかなり色っぽい内容でありつつ、実際は恋心のはかなさを詠んだものである。本の作者によれば、扇は「あふぎ」⇒「会う」に通じ、ただし、そのままの意ではなくて別れの暗喩になる…というのは、夏には身をあおぐために使われても、秋になれば捨てられてしまものアイコンからだそうだ。

 もちろん、秋という季節自体もの悲しく、「かれがれ」はわかりやすく「枯れ枯れ」、恋情の盛衰を表すが、日本語的には「離れ離れ」という字をあてても間違いではない…と、まあこういう具合だ。

 もちろん、こんなにも鮮やかにイメージの橋を架け続けられるかは観る人によるだろう。

 俺の場合、恥ずかしながら「玉のをよ…」の歌が式子内親王の歌だという知識がまずインプットされていなかったため、想起の最初の一つ目からイメージ進行しない。しかし、詳しい人なら永遠にどこまでも遊びながら、観劇を豊かにできるだろう。

 

 ふうん、と本を読んでいたら、1mぐらい眼下を、浜辺を削りながら打ち寄せてくる波と一緒に人の顔が通り過ぎて行ったのでぎょっとした。ウェットスーツを着た小学生ぐらいの男の子が、子ども用のボディボードに腹ばいで乗って遊んでいたのだ。

 波の勢いに乗っていけるところまでいって、打ち上げられたところで立ち上がって、ボードを担いでまた海の方に歩いていく。波が引いた後の砂浜を進んで、その間に次の波がやってきて足元を流されながら、水面を踏んで海の中に戻っていく。ある程度進んだところで波を待って、タイミングを見計らってボードに体を預けてそれに乗ることを繰り返す。

 うまく乗れるときもあるし、乗れないときもあるようだ。どちらかといえば上手くいかず、引き波に邪魔されるとかしてちゃん前進できないみたいだが、ときどきしっかりと推進力をつかまえて、波と同じ速度で、それは人の体が運ばれる様子を見るとちょっと驚くぐらい速く、ボードと一体になって滑っていく。

 延々と、延々とそうやって波と遊んでいる。本を読み進めて、ふと顔を上げると、どのタイミングでも海の中にいる。

 すげえな、と思う。

 飽きないのか、と思うが、飽きないんだろう。自分がそのぐらいの年齢だった頃のことを思い出せば、確かにそれだけで十分だろうな、と思う。

 特段、巧みなわけではないし、海でボードを使ってやるにしては原始的な遊び方だと思うけど、別に十分だろうな、と思う。今回上手くいかなければ次は上手くいくかもしれないし、次上手くいったら、続けてうまくいくかもしれない。それだけで楽しいのだ。そういう遊びもある。というか、そういう年齢というか。歳のせいにしてはいけないなら、精神性というか。

 

 年齢と環境知識のどれかがかみ合えば、世の中、何かしらのことで果てしなく遊べるようにできている。できていると思う。能なり。海なり。

 正直に言えば願望、もっと言えば羨望に近い。そういう具合にできていると思いたい。

 俺は違うけど。自分も同じように何かで延々と遊べるなら、休日に一人で曇天中本を読んでる以外のやることがたぶんあるはずだ。ないからこんなことをしている。

 まあ、どっか誰かのところにはそういうことが起きているだけでいくらかの希望だ。いつか自分にも(再び)そういうことがあったって別にいいだろう、と思いながら今日は本を読んでいる。海に入ってもないのに、長時間潮が舞っている中にいたから全身がねたねたになった。

こんなはずではなかった(良い意味で)。『ロングウォーク』の感想について

はじめに

 人がたくさん死ぬ映画を観たくなったので、あまりよく考えずに観に行った。

 すごく面白かった。

 期待通り人はたくさん死ぬ。

 しかし、これだけ感動するとは思いもしなかった。

 

 くくりとしてはデスゲームものなのだろうが(「決まったルールがあり」「違反すると死亡」「各登場人物のキャラクターが立っていて、誰が生き残るか行方が気になる」)、割りとマジで、人生とは、生きるとは、と考えさせられる作品でもあると思う。

 漫画版の『カイジ』とか、『今際の国のアリス』が好きな人はおすすめ。デスゲームと関係のないところでは、原作者が同じ『スタンドバイミー』にとても似ていると思った。いつか、人生の忘れられない記憶になる出来事と友情の物語だと思う。

 

 ただ、グロやリアルな銃声、あと生理的に嫌な汚いシーンが苦手な人は注意。『冷たい熱帯魚』みたいなスプラッターで笑っちゃうようなグロではなく、人がモノとして損壊するような暴力、負傷である。俺は血や内臓には耐性があるはずなのに、けっこうキツかった。

 銃声も怖いので気を付けよう。『シビル・ウォー』といい、音響に気合が入っているのはもちろんいいことなのだが、カービン銃の発射音って生物的に抗いようのない、体を硬直させるような恐怖感がある。

 あと、人間の動物としての排泄という行為を、かなりもの悲しく描いている場面があるので、わざわざ映画で観たくないという人も避けた方がいいかもしれない。個人的に、どういう小道具であれを実現したのか気になるところではある。

 

 ごちゃごちゃと書いたが、あまり深く考えずに観に行った方がいいのかもしれない(このあと、もっとごちゃごちゃ続けて書くのだが)。

 「まあ面白そうだから観に行くか」ぐらいで観に行くといいと思う。

 そうすると、たぶん開始して10分ぐらいで少し後悔するだろう。緊迫感がえげつないことに気づくので。

 少なくとも、俺はやや後悔した。もう少し自分の体力に自信のある日にすればよかった、と思った。緊張のせいで、観ていてずっとゲロを吐きそうだった。

 最初の犠牲者は、あることを言ってから死ぬ。殺される。容赦なく。登場人物たちも観客も、ここで遅かれながら悟るだろう。ああ、これは冗談じゃないぞ、と。どえらいことに巻き込まれたぞ、と。

 

 以下は、もう少し詳しく感想を書く。ちなみに、誰が生き残るかのネタバレはない。

 

デスゲームとして

 先の展開が読めないという点でよくできていると思う。

 

 話がいきなり脇にそれるが、デスゲームのファンというのはラーメンとかワインの評論家のようなところがあり、作品を変にななめに見たり、俯瞰しようし、自分の知識の型にハメようとする癖がついている。

 「こいつは生き残るだろうな。すくなくとも、すぐには死なないだろうな」というアタリを冒頭からつけながら観ているし、予想に反して人物が死んだら死んだで、「まあ、最近はそうやって意外性を演出するのもこのジャンルでは流行ってるからな」と思う。素直に楽しむということが得意ではない。

 

 話を戻すが、『ロングウォーク』はそんな性格でも展開が読めず、素直に面白かった。

 明らかに優遇されているキャラクターが二人おり(一人は生きて帰るべき家族が明確に描写されていて、一人はヒューマニズムと善性のかたまり)、普通に考えれば最後はこの二人が生き残るだろう。

 ただ、どちらもあまりに善人で、この両名で一騎討ちって成立するか? それより、例えばどっちかが何かでダウンしてしまったときに、もう一方が命を懸けて発奮させてリタイア、という展開の方がありそうじゃないか? などと考えて観ていると、本当にどちらかが脱落しそうになる場面がちょくちょく挿入され、「あれ、ほんとに死ぬかも」とハラハラする。

 その他のメインキャラクターも上手い具合に先が見えない人物が多く、「こいつが、ここでこうやって死ぬのか…」というのが続いた。デスゲームとしてよくできていた。

 

 なお、他の人の感想でも書かれているが、デスゲームの割りに参加者同士の妨害行為がほとんどないのは珍しい。

 合理的な説明は可能で、少しでも進行速度を落とすと射殺のカウントダウンが進むため、余計なちょっかいを出して体力を減らしたり、反撃を食らうリスクを冒すよりは、ある程度周囲と協調しながら淡々と歩いたほうが得だとは思う。

 ただ、歩き続けるうちに精神が変調してしまえば計算も働かないわけで(実際、人物たちが痛々しく発狂する様子が後半で頻出する)、単に作品の都合なのかもしれない。

 

人生の比喩として

 デスゲームやソリッドシチュエーションものは、よく人生の比喩や縮図に例えられる。

 『CUBE』とか『SAW』とかがそうだ。短い時間の中に人間関係がぎゅっと圧縮され、厳しい取捨選択を次々と迫られる様子がそう感じさせるのかもしれない。

 個人的にはあまりピンとこないんだけど(珍しくそう感じたのは『OLD』で、感想を書いた)、『ロングウォーク』には実際、人生を感じさせられた。

 ろくでもない環境で、初対面の者同士で長いこと一緒にいることになり、段々と打ち解けていく。ムードメーカーがいて、陰気だけど誠実なやつがいて、嫌なやつもいるけどそいつにも憎み切れないところがあって、ささいな娯楽や笑いでつながりを作っていく。しかし、その中の大多数は調子を悪くしたり、頭がおかしくなったり、生きることを諦めてしまったりして、一人ずついなくなっていく。

 俺はまだ、別れが人生のメインになる年齢ではないけど、なんとなくそういうもんだろうな、という気はする。

 個人的には、三銃士(四銃士?)の一人が、残りの二人に肩を借りながら歩いていたのを止めて、立ち止まるシーンが一番応えた。人生、ここまでやったら十分、というのがあるのかな。

 あと、俺は性格が歪んでいるので、「まあこいつは死なないか、よっぽどドラマティックに死ぬかどっちかだろう」というキャラクターはどこか物語的な装置というか、無機的に感じてしまうところがあり、「重要人物だけど最後までは無理だろう」というキャラクターの方が人間味をもって感じられるのである。

 

 いずれにしても、地獄のような状況で、あるいはそうだからこそ、彼らは互いの良さや美しさを認め合い、競争のはずなのに支えあい、自分のことさえ犠牲にする。歩いて歩いて、歩き続けるうちに浄化され、明るく強くなっていく(元々強いやつもいる。彼がいなければ、また違った展開になったかもしれない)。

 ちなみに、それに応じるようにして、作中での死の描き方も変わっていく。おそろしかった銃で装備した兵士たちは、生々しい暴力というより、淡々と死を運ぶ別れの象徴のように見えてくる。最初はいかにも悪趣味に、銃弾で破壊された体をしっかり映しこんでいたのが、やがて遠景がぼやけた中で銃声だけで死を示すようになる。

 上手い演出だな、と思う。前半と後半では別の映画と言ってもいい。そして、どちらもとてもいい。

 

 他方、一つの余談として、この手のジャンルのジレンマを書いておく。

 本来は、頭の腐った連中が行き場や選択肢のない弱者を金で釣ってなぶる娯楽だったりするはずなのに、極限の状況が人間の強さや善性を呼び覚ました結果、「こうしたゲームでなければ現れないヒューマニズム」みたいなことが起きる場合がある。

 『カイジ』の電流鉄骨渡りがそうだし、『今際の国のアリス』の「すうとり」でははっきりと、「こんな世界だから俺たちは友だちになれた」という意味のセリフが出てくる。

 『ロングウォーク』にもそういうところがあり、このゲームだからこそ生まれた友情のあとに、このゲームの主催に恨みを晴らす、というのは、個人的には100%キレイにつながらないところがあった。

 まあ、過程でどれだけかけがえのない経験をしようと、クソゲーはクソゲーだろうけど。俺がひっかかっているだけかもしれないが、この辺、どうすれば解決できるのだろうと思う。

 

さいごに

 とにかく、文字通り緊張が一瞬たりともゆるまず、本当にゲロを吐きそうになった。面白いのは間違いないので、気になった人にはぜひ見てほしい。

 あと、全然関係ないが、どういう世界設定なのだろうと思いながら序盤は観ていた。ネットやスマホはない。存在していたら、登場人物たちが携帯できないとしても、全然別物になっていただろうな、と思う。

 なんとなく、スマホのある世界では、彼らのむきだしで無意味で滑稽で美しい関係は成立しない気がして、まあなくてよかったな、という気がしている。

 以上、よろしくお願いします。

2020年代の代表作登場。『短歌探偵タツヤキノシタ』の感想

はじめに

 このブログの成り立ちを書くと、10年以上前のある日に舞城王太郎の『淵の王』という小説を仕事帰りに買って、電車の中で読み始めたら止まらなくなり、途中の駅で降りてマクドナルドで読書を再開し、店内でそのまま最後まで一気に読み通した経験から始まっている。

 俺はその経験と、そのときの感想をそのままでは終わりにせず、ブログの記事に残しておくことした。この作品を読んで感じたことは、俺の人生において文字にしておく価値がある、と思ったからだ。

 そこからさらにさかのぼって、デビュー作である『煙か土か食い物』を高校生の頃に読んだのもとても大切な体験であり、もろもろ込みで、俺にとって舞城は本当に特別な作家である。今回、その新作となる『短歌探偵タツヤキノシタ』がとても良かったため、感想を書いておく。

 

あらすじ

 小学生のキノシタタツヤ(おそらく、今作に短歌を提供している歌人の木下龍也が元ネタ)は、父の故郷である福井をはじめて訪れた際、お化けのような存在から謎の31文字の語群と、「みそひと」という呼称を与えられる。

 兄との会話から、お化けに授けられたのがおそらく短歌であること、その短歌をヒントに故郷で起こっている謎を解くのが自分の使命であり、お化け→短歌の神様から授けられた「みそひと」とは短歌の三十一文字に由来する呼び名であることを悟ったキノシタタツヤは、《短歌探偵》としての活動を開始する。

 兄や友人、周囲の人たちに助けられつつ、キノシタタツヤは短歌という文芸に対し、謎を解く暗号として、そして、自分たちの感情の機微を表す芸術として向き合いながら成長していく。

 

どこが素晴らしいか

 作家の代表作となるには、以下の二つの条件のどちらか、できれば両方が必要だと思っている。

 

① 作品として純粋に面白い

② その作家の個性が色濃く出ている

 

 その作家のファンであるほど、作家性と面白さを同一視しがちであるため、自分で書いておきながら、あんまり①と②に分けたの意味なかったかな、という気もする。しかし、舞城っぽいかは別としても、『短歌探偵~』は単純に面白いと思う。

 この作品は、各章でカギとなる短歌が一首示され、そこに登場する言葉が何の暗喩で、誰のどんな心情を示したものなのか、という推理の形式で進む。

 まず、短歌の意味をキノシタタツヤと一緒に色々考えるのが面白い。「〇〇と言っているけど、そのまんまの意味ではないだろうな」とか。「状況をふまえるに××の比喩で、ということは、どこかに△△な人がいるな」とか。「上の句と下の句で読んでいる人の視点が変わっているのでは?」というヒントなど、興味深い、と思う。

 また、この小説を通じてあらためてふれてみて、短歌というのは美しいな、と感じた。短歌そのものというか、詩の中に出てくる言葉たちが。

 57577という形式の中に置かれると、日常会話や散文の中で登場するときとは異なる「匂い」や「色」、「人格」のようなものが言葉から立ってくるのをすごく感じる。それが面白いな、と思う。そういうのが『短歌探偵~』の①的なよさである。

 

 また、②的な部分としても、いかにも舞城王太郎…というか、数ある作品の中でも珍しいほどに高純度の舞城、という作品でもある。

 まず、探偵と推理というフォーマットが頻繁に見かける枠組みである。それが単なる謎解きではなく、非人間的な存在から与えられた神託であるというのも、とても舞城的である。小説という創作の中で創作(短歌)の存在が重要なカギとなる、というメタ構造もこの作家らしい。

 ただ、このメタ構造については、長年のファンとしてすごく意外なことがあった。それは、舞城王太郎は「創作を題材とする創作」をたくさん書いてきたけれど、創作をいかに読むのが正しいか、という点を主眼に置いた作品は、けっこう珍しいのでは、ということだ。

 例えば舞城は、『暗闇の中で子ども』では「嘘(創作)を使ってしか語れない類の真実がある」ということを書いた。『淵の王』では「創作(読者が介入できない別世界)を通じてしか学べない、読者が自らの世界と戦う姿勢」を書いていた。

 しかし、「そもそも創作をどう理解するのが正しいのか(作者の意図に沿っているのか)」という、いわゆる「作者の気持ちを考えてみましょう」という問題については、意外と扱われなかったのでは、という気がする(『九十九十九』ぐらいだろうか?)。そういう点も含めて、『短歌探偵~』はとても興味深いと思う。

 テキストを正しく読むとはどういうことか、というのは、人間にとって創作とは何か、を考えるときの基礎にして真髄だろう。そういう意味では、過去作で色々とアクロバティックをやったあと、ここにきて初心に帰ってきたようにも見える。

 

 ちなみに、もう一ついかにも舞城だな~、と思うポイントにキャラクター同士のセリフの掛け合いがあり、『短歌探偵~』でも相変わらず面白い。キャラによる言葉の応酬が好き、という舞城ファンは多いと思う。

 舞城の描く掛け合いは、言葉を媒介にして両者の思考がポジティブに沸騰していく場合と、バチバチの口喧嘩になる場合とがあるが、『短歌探偵~』の場合は前者である。基本的に、今作は主人公思いのいいやつしか出てこないからだ。

 ケンカが見たい人は『スクールアタック・シンドローム』や『畏れ入谷の彼女の柘榴』を読もう。

 

作品の戦略として、子どもが主人公である意味

 最後に、この点だけトピックを分ける。

 上で書いたように、『短歌探偵タツヤキノシタ』は作品として純粋によくできていて、作家の個性も色濃く出ている小説だが、そこには主人公・キノシタタツヤが小学生の子どもであることが上手く機能していると思う。

 まず、短歌というのがジャンルとしてどうしてもマイナーであることを考えると、子どもであれば、文芸としての要件を学びながらゼロベースでこの世界に入れる、というのがある。仮に、大人がまるで縁のなかった短歌に向き合う場合、興味の薄さや偏見がどうしても入ってしまいがちだと思う。

 

 また、『短歌探偵~』における短歌は寂しさや不安の暗喩であることが多く、その謎を解くことは誰かの直視しにくい現実を示すことでもあるというのも、探偵役が子どもであってよかった点だろう。

 これが成熟した大人だと、謎を解いて誰かに突き付けたときの説得力が強すぎるからだ。大人から大人への開示ならまだしも、大人から子どもになると、探偵役の人生経験が上回りすぎて説教や強制になってしまい、短歌が介在した意味がかすんでしまうだろう。今作のように、子どもから「こうではないか?」と示されるぐらいが、受け取った側にも自分で受け入れる余裕が生まれるし、読んでいるこちらも気持ちがいい。

 

 最後にもう一つ、非常にメタ的なテーマになるが、主人公が子どもであることが探偵小説として重要な役割を果たしていると思うので書いておく(ものすごくややこしい、言葉遊びのような話なので、興味がある人だけ読んでください)。

 

 以下、ある部分を抜き書きする。 

 僕は絶対に、完全に、読み間違えている。

 でも僕にはどう読めばいいのかさっぱりわからないのだ。

 どう間違えてるのか全くわからない。

 僕にはわからないんだ。

 何故だ?

 短歌探偵として力が及ばないから?

 でも短歌は届いた。

 短歌の神様は僕に届けたんだ。

 神様を信じるなら僕には読めるはずだ。

 でも読めてない!

 

 ここには探偵、というか、神託を受けて謎を解く者として、もしかすると作品の枠を飛び越えて聖書の神話から連綿と続く、極めて重要な論点(と矛盾)が描かれている。

 まず、謎を解くヒントが神から与えられているとする。

 そして、神が全知であり、かつ味方だと信頼するなら、自分はこのヒントによって謎が解けるはずであり、そういう運命にあるはずである。

 しかし、もし謎が解けると運命で決まっているなら、そもそも、なぜ謎を解こうと頑張る必要があるのか?

 頑張る必要がある(自分の意思が影響する余地がある)時点で、頑張らなければ解けない可能性もある=神が与えた運命を疑っている、ことにならないだろうか?

 しかし、実際には、頑張ることなく謎が解ける気配はない。なので、頑張らざるを得ない。それでも、閃きが訪れる見込みはない…。

 

 圧倒的に高位の存在から与えられたヒント(けっして、回答そのものは与えられない)は、人間をこういう引き裂くような境遇、言い換えれば試練に追い込む。

 すでに決められているはずの運命と、頑張るのは自分次第という自由意志。

 状況を打開できるはず(神に託されている以上打開できないはずがない)という信念と、現実には訪れる気配がない突破口。

 神からの祝福。同時に呪い。

 

 こうした試練に大人が巻き込まれた場合、取れる選択肢は「ひたすら頑張る」か、もしくは奇跡のような閃きが訪れるのを待つしかない。

 実際のところ、おそらくは神話や宗教の方も求めているのはそういう答えであり、愚直に頑張ることの大切さや人間という存在の無力さを示すことが目的なので、最後はそれでも救われることが多い。

 さて、『短歌探偵~』はどこが上手いかというと、主人公を子どもにすることによって、大人の世界をこれから知る、という余地を設けたところだ。

 つまり、ある程度成熟した大人が試練に直面する場合と異なり、自分自身がまだ抱えている空白部分、成長というファクターによって、状況の打開に説得力を持たせている。運命と人間の可能性とがうまく両立させられていて、なかなかすごい発明だと思った。

 

さいごに

 ごちゃごちゃと書いたけれど、面白くて、言葉の美しさを感じられ、いかにも舞城っぽくもあり、色々な点でおすすめする作品である。多くの人に読んでほしい。

 ちなみに、俺の好きなキャラクターはキノシタタツヤの兄である。理由は優しくて、柔軟だから。

 誰かと話していて相手の考えに影響を与えるときに、こちらの優しさはもちろん、自分が柔軟であることが結果として相手の考えも変化させるというのは、なかなかすごいことじゃないか?

 

 

決着。これから。『イクサガミ 人』の感想について

はじめに

 時代の節目で姿を消していく剣客たちの、末期の輝きを描く点取デスゲーム、第3巻。

 今回で物語に大きな区切りがついた。また、前作から描かれてきた「一つの時代の終わりと新しい時代の到来」が、さらに強調された内容だったと思う。

 ここまでの天・地もめちゃくちゃ面白かったけど、アクションに満ちた活劇や、点数をめぐる駆け引きを描いたデスゲームとして、この『人』は最高を極めている。本来は3巻で完結予定だったようだが、ある意味、本当に作品の集大成である巻といえるだろう。

 

 以下感想として、

 

・『人』で特に盛り上がった場面

 

・物語の構成として勉強になるところ

 

 …に分けて書く。 ※ ここからの内容はネタバレを含む。

 

盛り上がったところ

 身もフタもないことを言うと、『人』はずーっと面白い。ずっと盛り上がっている。

 『イクサガミ』は基本的に点取りのデスゲームだが、その底には多くの物語が同時に走っていて、章によって印象がガラリと変わる。陰謀もあるし、復讐譚もある。過ぎ去った時代への懐古・新しい時代への希望もある(この辺は『ゴールデンカムイ』によく似ている。片方が好きな人はもう一方もきっとハマるだろう)。

 そのため、どこを切り取っても違った雰囲気が楽しめる。飽きが来ない。

 ただ、あえてその中で特に印象的なパートを二つ挙げれば、

 

① 道中の宿場(島田宿)で繰り広げられる作中最大のバトルロイヤル

 

② 最終盤で激突する主人公・ 嵯峨愁二郎と宿敵・貫地谷無骨の対決

 

 …が本当に素晴らしかったと思う。

 

 島田宿でのバトルロイヤルのことから書く。

 デスゲームも佳境に入り、序盤からの弱い参加者は全員脱落、残っているのは腕に覚えのある化け物だけとなったところで、『イクサガミ』最大にして最後の大乱戦が発生する。『天』や『地』で中ボスとして出てきたような猛者が続々と現れ、おそろしいことに、殺り合ってあまりにもあっけなくどんどん敗退していく。

 この一連の戦闘のすごいところは、多対多のフェーズのあと、多対一、さらに一対一へとシームレスに、かつ主役を変えながら流れていくところである。

 最後の一対一フェーズにおいて、全国に500万人はいるとされる「ヘタレが覚醒する展開ファン」を狂喜させることになる狭山進次郎の活躍も見逃せないが、島田宿バトルロイヤルを盛り上げた最大の功労者は、なんといっても眠(ミフティ)だろう。

  眠はぽっと出のキャラである。しかし、おそろしく強い。毒を使うが、近接戦闘も得意であり、愁二郎&彩八&カムイコチャ&陸乾(こいつも島田宿で初登場だが、作中最強格)という、本作を読んできたファンならめまいがするような強力なチームを相手に一対多の戦いを展開する。

 結末を言ってしまうと主人公チームが辛勝するのだが、カムイコチャがいなければ、おそらく負けていただろう。そのぐらい眠はすごかった。仮に岡部幻刀斎や無骨など、他のtier1勢であっても、単独で眠を倒せる展開がちょっと想像できない。

 このべらぼうに強い眠は、その奇妙な名前が表すとおり特殊な出自を持つ。あとでもう少し書くが、それも含めて素晴らしいキャラクターである。

 

 次に、 最終盤での愁二郎対無骨である。蒸気機関車という新しい時代の象徴を舞台に、旧時代に過去を置き去ろうとした愁二郎と、旧時代でしか生きられなかった無骨がと激突する。

 複数の物語が同時に並走している『イクサガミ』の中で、一つの大きな因縁がここで決着する。ある意味でエンディングといってもいいぐらいの読後感があった。

 少し話が変わるけど、俺は小説は映画やアニメの「原作」じゃない、とずっと思っていて、エンターテインメントとして一番面白い媒体は小説だと思っている。

 しかし、この対決はぜひ、映像で観たいと思ってしまった。東京に向かって疾駆する汽車の上で、海原を横目に切り結ぶ二人を絶対観たいと思った(Netflix版はどこまでやる想定なんだろう?)。

 また、対決の舞台となった機関車を走らせる機関士(助士)という、当時の新しい職業に就いた人たちの細かい挿話もいい。

平左衛門が惚れたのは蒸気機関ではない。いや、それも好きではあるのだが、その時に惹かれたのは別。新橋駅を降りて来る人たちである。

行きたいところへ、逢いたい人のもとに近付いている高揚蒸気機関そのものへの興奮、どの人の顔もきらきらと輝いていた。

160形が雄叫びを上げる。野太さの中に品がある。何度聞いても惚れ惚れする声である。

 こういう部分、「昔の最新」を描けるのが、さすが歴史小説家だと思う。

 

物語の構成として勉強になるところ

 眠(ミフティ)には本当に魅せられたので、書き加える。

 やっぱり、すごく特殊なキャラクターで、バックグラウンド、物語への登場方法、そして強さが美しく調和している人物だと思う。

 眠は台湾からやってきたキャラクターである。人であるが、地元では神として扱われる信仰の対象であり、日本による台湾原住民への攻撃に抗するため、人々の願いに応じるために登場した。

 つまり、眠は賞金のためにデスゲームに参加しているわけではない。報復のため、しかも、自分の意思ではなく、別の誰かに乞われて参戦しているわけで、デスゲーム主催者の思惑を完全に逸脱した存在である。

 『イクサガミ』における時代背景は明治時代の頭で、繰り返し書いているように、古い時代の終わりと新しい時代の到来が一つのテーマになっている。

 ただ、「時代」という感覚は、とても主観的で、地理的な立場に影響されるものでもある。結局、新しい文化とか旧藩のしがらみとか、「日本」という国の中、各地域で起きている話に過ぎない。

 眠はそういう日本国内の流れにはほとんど関係なく(まったく無関係ではない。台湾現地への侵攻も日本の近代化と関連していると思うので)、『イクサガミ』という物語にきわめて特異な角度から出現した。

 『人』の最後が旧時代の残党同士の対決、決着で〆られたように、物語は日本という国の歴史へと帰っていくため、眠の居場所は残っていなかったが、ストーリーにもたらした味わい? 厚み? みたいなものは唯一無二で、すごくいいと思っている。

 

 もう一点、デスゲームとしての『イクサガミ』は、無差別な戦闘狂、いわゆる「バーサーカー」「ジョーカー」が多い作品だな、と思うわけだが(幻刀斎、無骨、天明刀弥)、あらためて考えてみると、善人もその分たくさん出ているな、と気づく。

 『イクサガミ』には、ほとんど無私で協力してくれる者、リスクがあってもリターンがあれば共闘してくれる者がたくさんいる。

 それでもご都合主義になってしまわないのは、まず危険人物が3人も徘徊していて、作中の「負、陰の雰囲気」が高まっているのが大きい。善人がたくさん出てきても、調和が取れるのである。自分もデスゲームを主催するときは参考にしたいと思う。

 

最後に。最終巻『神』の予想(展開と、誰が生き残るか)

※ ここからは最終巻時点の生き残りに関するネタバレを含む

 

 まず、新刊の案内で次のように紹介されている。

 

最終決戦、開幕。
東京は瞬く間に地獄絵図に染まった。
血と慟哭にまみれる都心の一角で双葉は京八流の仇敵、幻刀斎に出くわしてしまった。
一方の愁二郎は当代最強の剣士と相まみえることに――。

 

 ここからわかることは、

・生き残り9人が決まった時点で終了、という説もあったが、デスゲームはまだ続く

・何かの事情で参加者がちらばっている

・ 愁二郎対櫻(中村半次郎)、もしくは刀弥が発生する

…ということである。

 

 想像するに、運営によって強制的にばらばらにされ、そこからバトルロイヤルの続きが始まる、という感じではないだろうか。

 『イクサガミ』に登場する猛者はデスゲーム参加者だけではなく、運営側の最強戦力として、現在は「櫻」を名乗る人斬り・中村半次郎、柘植響陣と因縁のある「 柙」などがいる。そのあたりも含めて都内でサバイバルとなり、その過程で愁二郎対櫻が実現する…と推測する。

 なお、天明刀弥にも当代最強と表現される可能性があるが、キャラクター同士のいきさつで、愁二郎対中村半次郎の方が、話の流れとしてしっくりくると思う。

 

 ちなみに、俺のイメージする『イクサガミ』最終章時点での強さランキングは、

 

 中村半次郎天明刀弥>岡部幻刀斎>四蔵>愁二郎=ギルバート>響陣>彩八

 …という感じである(双葉、遠距離専門のカムイコチャは除く)。

 

 さて、誰が生き残るかだが、極論、双葉以外は死ぬ可能性があると思う。それに愁二郎と彩八が合流できるか、という感じ。

 幻刀斎は、唯一のDARK属性の敵キャラなので、おそらく脱落するだろう。ただ、リタイアするまでに四蔵、響陣あたりを連れて行くかもしれない。

 四蔵と響陣は相当危うい。頼りがいのある優秀な弟と関西弁の相棒という死亡フラグは相当太いと思っている。

 彩八は少し悩ましいが、島田宿での重左衛門との戦いで厄を払ったので、生き残る気がする。

 ギルバート、カムイコチャは、どちらも厳しい。善人、かつ両者とも遠いところからの来訪者であり、意地悪い見方をすれば、ドラマチックに退場させやすい。どちらも刀弥あたりにつかまるのでは、と思う。

 刀弥の行き先は読めない。悪党でも善人でもないし、誰とも因縁がないからだ。中村半次郎が仮にプレイヤーとして参戦するなら、半次郎と戦って退場するかも。

 

 俺の予想は、

・幻刀斎が四蔵、響陣を倒す

・刀弥がカムイコチャとギルバートを倒す

・半次郎が刀弥を倒す

・愁二郎が半次郎を倒す

・愁二郎が(何かしらの方法で)四蔵と彩八から奥義を継承し、幻刀斎を倒す

・愁二郎、彩、双葉が生存する

 …という具合である。

 ただ、この予想には愁二郎がどうやって半次郎を倒すんだ? という致命的な欠陥があり、たぶん外れるだろう。

 もちろん、外れていい。当たり外れに関係なく、『神』は絶対に、俺の想像をはるかに超えて面白いはずだからだ。本当に楽しみにしている。発売は2025年8月8日(明日。なんなら20分後。この記事は読み返した『人』が面白すぎて急遽書いた)。 

 

『深夜百太郎』の感想について

はじめに

 百物語の案をつくっており2050年ごろに完成する予定なのだが、このような流れもあって、『深夜百太郎』を久しぶりに読み返したくなった。小説家、アニメの脚本家である舞城王太郎による百物語だ。旧twitterにて、一夜一話連載されていた。

 基本的にはホラーなのだが、実話怪談風のものから伝奇っぽいもの、ドタバタなものまで、色々なジャンルが詰め込まれていて読んでいて楽しく、すごくよくできている(一部に受け付けないものもあるけど。これは後述)。また、舞城王太郎の作品として大変に特殊な位置付けにあるとも思っている。そこも含めて、印象的だった話の紹介を中心に、考えたことを書いておく。

 

倒れた木

 福井県の田舎で、子ども同士で遊んでいたところ、木のくぼみにあるものを見つけて…という話。

 『深夜百太郎』という本は調布(都内としては緑が多いが、開発された市街)と福井(自然が色濃く残る土地)とを交互に怪談の舞台にしており、『倒れた木』は後者側のエピソードになる。

 他の話にも出てくる重要なモチーフとして穴が登場する。悪意を持つ穴だ。登場人物が穴を見つけるが、実際は穴に見つけられている。

 『倒れた木』における穴は一種の門だ。入口であり出口。しかし、穴の本質は「欠陥」という点にある。この世界に存在する「陥穽」。世の中を論理立てられた構造として見ることで、はじめて穴が穴として、この世のロジックを損なうものとして認識できる。
 世界はこうであるべきだ、できれば良いものであるべきだ、という信念が強ければ、それに応じて穴はより暗く深くなる。そして、同時に魅力を増す。

 さて、『倒れた木』には舞城王太郎の作品としてきわめて特異な点があるので、それにも言及しておく。話になんの救いもないことだ。この話を含めて、『深夜百太郎』の怪談には、登場人物がまったく救済されず、容赦なく破壊されて終わるものがたくさん出てくる。

 実は、舞城王太郎の作品でそういうものはとても少ない。ハッピーでもビターでも、何かしらの前向きな決着を得られることがほとんどであり、舞城王太郎のファンほど『深夜百太郎』には面食らうのではないかと思う。

 ここでは普段の作風がフリになっており、だから、俺は舞城作品のファンこそ『深夜百太郎』を読むべし、と思う。きっと驚くからだ。ちなみに、従来の舞城王太郎の嫌な部分がそのまま強調されるような怪談もあって、これはシンプルに嫌いだ(後述)。


地獄の子

 『深夜百太郎』の中で最恐だと思う。言葉の意味が反転する鮮やかさ、なぜそうなのかの説明をまったくしない一方で、状況にまつわるすべてが腑に落ちる感覚が素晴らしい。


踏切

 夜。友達と散歩。ジュヴナイルのようでもあり、結末でぽーんと放り出されるのが幻想小説のようでもあり。

 また、舞城王太郎に以前から頻出するテーマに言葉の両面性というものがあり、「言葉を生きていくための標識とする」「言葉に振り回されて迷子になる」ということがよく描かれるのだが、『踏切』にもそれが出ている。

 

友達の部屋

 とても寂しくて悲しい。

 

笑う鬼

 この話を含めて、何かに取り憑かれたようにして登場人物の性格やふるまいが暴走してしまう話がよく出てくる。正直、「もういいよ…」と後半は食傷になる部分もあるんだけど、『笑う鬼』はふと我に帰る瞬間がなんとなく想像できて好き。

 元々理性を重んじるところの強い舞城王太郎作品では、時々これが行き過ぎて、モラハラ&ロジハラっぽい登場人物が出てくる。ポジティブな方向に寄っていれば、「理性に秀でた主人公が理念のために悪と戦う」となるが、嫌な方向に寄ってくると、「口喧嘩が得意でロジカルなキャラクターが、感情的で後先考えない誰かと議論して、相手の逃げ道を完全に封鎖してぺしゃんこにし、最後は『バカには構ってらんないよ』というオチ」となる。

 後者は俺の嫌いな舞城で、自身の合理性に酔って暴力と化しているところが好きではない(俺にも同じような面があるので、自己嫌悪でもある)。

 『深夜百太郎』に話を戻すと、このテイストの話がけっこう出てくる。そこは好かない。ただ、『笑う鬼』は上手いと思う。

 

あじさいの中

 セクシャルなので詳しく書けないが、いきなり奈落に落ちるように化生に取り込まれる様子がたった一文に表れていてすごい。

 

穴の蓋

 「穴」再び。オチも好き。

 

河童の地蔵

 クトゥルーもそうだが、人間以外の生き物も何かを拝んでいるのは気持ちが悪い。信仰(する能力)がどこかで俺たちのアイデンティティになっていて、それがゆらぐからだろうか?

 

夢の猿

 いわゆる「猿夢」…ではないが、結局、破滅へと向かう。

 お化けは、向こうに悪意がある場合とない場合に大別できると思うが、悪意がなくても無害とは言い切れず、そういう話な気がする。不幸にも「遭って(合って)」しまったというか。

 

横内さん

 おそらく、『深夜百太郎』のハイライト。怪談としてイレギュラーであるとともに、アンチ舞城であり、同時にまさに舞城王太郎。人間の強さをお化けが上回りつつ、人間が最後にヒューマニズムを見せるという。

 書いていて思ったけど、同じ作者の偉大な傑作である『淵の王』の翻案かもしれない。ちなみに、俺は『淵の王』の感想を書きたくてこのブログを始めた。

 

篝火

 お化けというより、地元の奇習に関連して、主人公の人となりを周りが「しょーがねえな」と苦笑いしながら見てる感じとか、生活の移り変わりとかが面白い話。

 

次の電車

 不条理や苦痛には、何か理由や今後の教訓があるべきだ、という発想をあざ笑っていて、これも舞城王太郎らしくないと言えばらしくないし、らしいと言えばらしい。素晴らしい作家というのはこういう両義性を持つのだろう(少なくとも、ファンにはそう見えるものだ)。

 

隣で寝てる人

 これも大変に舞城王太郎らしい、会話をめぐる迷宮の話。発言者とその正体がめまぐるしく入れ替わるのにすんなり理解できる文章力もすごい。

 

保留中の黒電話

 最後のオチが面白い話。
 ホラーとして考えると、電話を経由しているのが怖いんだろう。

 分解すると、

① 電話越しであることが「幽霊らしさ」を強調するから

② 幽霊=死者とは別の、「電話越しの声」というのが別種のお化けだから

 …という感じか。幽霊以外の存在もお化けとみなすと、ほとんどのものはお化けになりうることがわかる。
 また、①②の恐怖はお互いに排除しないのも大事なポイントかもしれない。これは、恐怖する(楽しむ)自分に分裂が起きることも同時に意味していて、①を楽しむ自分、②を楽しむ自分が分かれるし、その分裂もまた、「お化け」になりうるからだ。

 複数の要素を持つ怪談は読んでいる俺たちも多重にするし、その重なり、ズレが新しい「オバケ」になる。

 

掘り出し石

 なんだかよくわからないものに、他のよくわからないがからまってくるところを淡々と書いているのが良い話。

 

空き家の草取り

 言葉は呪いで、だまされずに回避したつもりでも、なんらかのかたちで呪われている。
 ギリシャ神話でオデュッセウスが、怪物から「お前は何者か」と聞かれ、「何者でもない」と答えるエピソードがある。

 化け物に素性や名前を教えてもいいことはなく、正しい判断と言える。ただ、ジョーゼフ・キャンベルという神話学者が面白いことを言っていて、「何者でもない、と答えたことが自己の喪失につながっている」…だそうだ。
 つまり、名乗ろうが名乗るまいが、別のかたちで呪われることになる。この手のやり取りで怪物を上回るのは難しい。

 

電車停車中

 あり得ない状況のあるあるとして面白い。

 有事のときに行政や警察の対応をどう書くかは作家の腕前が試される部分だと思うが、これが巧みでいいなあと思う。また、文章というメディアの情報的な制限を逆に上手く使っていて、見えそうで見えないホラーとしてもいい。

 

友達案山子

 バカバカしくて好き。舞城世界は利己的でないバカに優しい気がする。

 

迷子の守護者

 光の主人公が帰ってきて、やっぱりこれが欲しかった、と思う。作品の評価としては、家族からもシステム側からも「(それが善行であるのは理解したうえで)お前何してんの? うっとうしい」という描写がちゃんとあるのが大事な気がする。

 

花火の帰り道

 内田百閒の薄暗さが好きな人に。

 

寝ずの番

 スラップスティック。スペクタクル。旧twitterで誰か言っていたが、俺もアニメで観たい。

 

呪い

 シンプルに発想がおそろしい。

 なぜ怖いか、その理屈を言えば、「何かがそこにあるから見る」という因果をひっくり返して、「見るからそこに何かが発生する」というのが、みんななんとなく腑に落ちるから嫌なのだろう。

 

ワタシシ死

 中国の昔の怪談に、死者(いわゆる鬼)がさらに死んだ存在として聻(せき)というものが出てくる。

 中国の幽霊はあまりそれらしくなく、ふらっと家に帰ってきたり、なんなら生者との間に子どもを持ったりするいい加減なものなので、死の重みがかなり違うのだが、「死者がさらに死んだ存在」という概念はとても面白いと思う。

 人が幽霊を恐れるように、幽霊は聻を恐れるという。幽霊になれば怖いものがなくなるかというと、そんなことはなく、恐怖はどこまでも続く。きっと、聻の次もあるのだろう。想像することはどこまでも可能だ。

 話がズレるかもしれないが、俺は自分では割とヒューマニストのつもりでいるけど、人間の暗い本能にもはげしく惹かれる。ホラーを追っていて感じるのは人間の恐怖に向ける貪欲さで、俺たちという存在は恐怖に憑かれているな、と思う。

 『淵の王』にも、同じようなセリフが登場した。本来は生きるための機能である恐怖という本能をハックして、俺たちは四方八方から責め立てて快感をしぼり出そうとしている。恐怖のために躍動する想像力には限界がない。

 「そう。だから、いい加減なところでやめておけよ」というのが『淵の王』のメッセージだった。それでいて、状況を打開するための武器になったのも怪談だというのが、舞城王太郎のにくいところだ。

 いつの間にか『淵の王』になぞらえすぎたが、本来、この記事は『深夜百太郎』をほめるのが趣旨である。面白い話が多い。みんな読むとよい。

 

 

 

行ったり戻ったりについて

 虫が好きである。

 ひと夏に一回は、木の幹にとまって油断しているセミをガッとつかむことを自分に課している。ジッ。

 

 休日の朝になると、近所の神社に行って、ご神木や参道の脇に植わっている木を眺めに行く。セミが脱皮中なのでは、という期待を込めている。

 悲しいかな、実際にみたことはないのだが、透き通った茶色の抜け殻が木の肌の上に残っていて、やつらがここで殻を捨てていることはわかるので、いつか見られるかも、と思っている。

 

 夜、仕事からの帰り、路上でてのひらに乗るほどの黒っぽいものがうぞうぞやっているので、あらためてみたらカブトムシのメスだった。車に轢かれるのも気の毒なのでつまみあげると抵抗される。ギィ。

 カブトムシの匂いというものがあり、持ち上げるとそれが夕闇の中に強くたつ。指先でもごもご暴れるのをおさえながら、近くの木の上につかまらせる。

 

 母親と世間話をしているときに、このカブトムシのことを思い出し、昔カブトムシを育てるキットを買ってもらったことの話をした。今でもあるのか知らないが、卵だったか幼虫だったかが腐葉土に詰めて郵送されてきて、それを育てることができたのである。

 で、母親が、「実はあのデカい幼虫が怖かった」というので驚いた。まあ、虫を嫌がる人は多いが、母は割と生き物全般が好きで、昆虫もそれほど、嫌がるそぶりを見せたことがないからである。

 母親が続けるには、俺が虫を嫌がるようになるといけないので、表に出さないようにしていたという。話を振ってみないとわからないことというのが、何十年も親子をやっていても出てくるものだ。

 

 母の忍耐のおかげか、俺は虫を嫌わない人間になった。なんでも損得ではないが、虫に関しては嫌わない方が愉快なことは増えるのでいいことである。

 ただ、他人の心の機微とかはよくわからないし、世間のこともよくわからない人間になった。これは虫が好きなことと関係があるのか? その辺の天秤がどうなっているのかは知らない。

 

 繰り返し書くが、虫に関しては好きでいた方が愉快なことが多いので、母親に感謝している。俺もなるべく、特に嫌う必要がなく、好きでいた方が世の中広がるな、と思うものについては子どもの前で批判しないでおこう、と思う。(俺がそれを嫌いだとしても)。

 虫の見えがかりが生理的に根本的に受け付けないという人もいるだろうから、それはしかたがない話で、嫌なものを嫌だと表出するのも無理なかったり、むしろそれが求められる状況もある。物事によっては嫌だと言わないとよくならないこともあるので難しい。

 いろいろなことが、行ったり戻ったりするのだろう。とりあえず虫に関しては好きな人が増えるといいし、好きだと言うのが別に恥ずかしいことでなければいい。

今日、脳から捨てたものについて ⑱

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

タニシ長者

 心理戦、伏線、どんでん返しを多量摂取した結果、日本昔ばなしの世界に帰ってくる。

 

ヲロカピー

 情緒破壊蛇の名前(を呼ぶ友人のセリフ)。

 

ちょっと前すいませんをやりすぎてイワシになった人

 実際に見るとそんなに面白くない。

 

なんでこの家の人はみんなうまいこと言おうとするの?

 元ネタは『ギャグマンガ日和』。

 

ベジータがナメック星で付けとったやつやん

 空気階段のもぐらが付けていたCPAPを見て千鳥が言ったセリフ。

 

バナナは本当に美味い

 兄弟が夢で言った言葉というテーマに対する投稿(『さまぁ〜ずの逆にアレだろ』)。

 俺も食うたびに美味いなこれ、と思う。

 

死んだことないからわかりませんね

 俺はよく嫌なことを故意に言うが、天然で嫌なことを言うことも多々あるので、およそ言うことの8割ぐらいは嫌なことだと思う。

 

出てくるやつ出てくるやつスター選手

 『相席食堂』の競艇場で次から次にキャラクターの濃い素人のおっさんが出てきたときの千鳥のセリフ。漫画で例えるなら『キングダム』らしい。

 

浜岡賢次

 俺が小学生の頃から描いてて、絵も上手くなってるしお約束なのに面白いし、本当にすごいと思う。

 最近はドクター紅葉のパロディキャラがじいさんの入れ歯をチタンに替えたあと骨延長しようとしていて笑ってしまった。

 

こわいんすよね…

 バナナマンの日村に対してバイきんぐの小峠が発したセリフ。

 ここまでは日村の奇行にマジメにつっこんでいたが、

 「ロケ時間をマネージャーに何度もメールで聞いてきて、何回返信しても同じことを繰り返し確認してきて、最後には電話で聞いてくる」

 「後輩に車の運転を頼んだところ、理由があって断られてしまったのち、同じ後輩に電話をかけてきて車の運転をまた頼んでくる。『冗談か?』と思った後輩が、いやいや、日村さん…と笑いで流そうとしたら本気でキレだす」

 …などマジに意味不明な言動が紹介され始めて引いてしまったときのセリフ。

 

OK。生きて帰れ

 ダーケストダンジョンのwikiで、探索前の準備を紹介したページの締めくくりに書かれている言葉。

 このゲームはダンジョンに潜る前に確認するべき項目がやたらと多く、しっかり確認したところで無事に生還できるとは限らないため、内容をうまく表した言葉と言える。

 余談だが、俺は仕事で使った経費の精算がおそろしく苦手としている。内容をチェックし、他の担当者の承認を通過させる社内のシステムに経費をあげるとき、よくこの言葉を思い浮かべる(基本的には却下されて返ってくる)。

 

 以上