はじめに
猛烈に面白かった。
結末まで含めた感想は後半で書く。前半は未読の方に向けて、内容を明らかにしない範囲で、頑張って薦めたり紹介したりしておく。
2024.7.29現在、Amazonでの『爆弾』の評価は4.1である。
俺は、可能なら☆7.0つけてもいいと思う。5.0が100点満点だと理解した上で、そのぐらい規格を外れて猛烈に面白かったということである。
感覚的に、これほどまで面白い、いわゆるリーダビリティの高い小説は、20作品に1つあるかないかで、『爆弾』はそういうレベルである。2023〜2024に発刊されたミステリーやサスペンスを何作か読んだが、その中で完全にぶっちぎっている。
大まかなあらすじは出版社による案内を見てもらうとして、作品の系統や雰囲気としては、映画の『セブン』に近い。
得体の知れない怪人に頭脳戦を挑まれ、警察署内で相手と直接会話し、善悪の決断を迫られるという点では『ダークナイト(バットマン)』の構造にも近いが、実際の印象はあまり似ていない。『ダークナイト』のジョーカーがスタイリッシュ過ぎ、これに対峙するバットマンの価値観がストイックすぎるからかもしれない。
『ダークナイト』においては、正義マニアで孤高のヒーローであるバットマンもある意味で異常者であると示されている。この映画で描かれているのは、一つの失点も許されない無欠の英雄の戦いである。
一方、『爆弾』で犯人と対峙する刑事たちは、別に無欠の正義を自認しているわけではない。道徳観も徹底されていない、プロの職責と私生活の狭間でうろうろする一般人である。
ただ、今作のヴィランであるスズキは、その不徹底さ、あいまいさを見逃さないだろうな、と思う。むしろ、強く責めるかもしれない。
なぜなら、あいまいさは弱さではなく、ある種の強(したた)かさでもあるからである。
「私たちの道徳は完全なものではありません」。
最初に、自分たちの方から言ってしまうことで、その根拠をくわしく追求したり、不完全さを責めることを、何か野蛮で無礼な行いのようにしてしまう。道徳としてあいまいであるがゆえに、(利用しないことも含めて)自由自在に使い分けられ、同時に、これに沿わないイレギュラーを好きに排除できる。お前の正義はなんなんだ? と問われれば、「私は不完全なので」と答えてのらりくらりとしている。
『ダークナイト』における緊張感が、完璧な正義であろうとするバットマンの苦悩に由来するなら、『爆弾』の場合は、普通の人間が上手に使っている、お互いが「普通」であることを確認する際の目配せのような、不透明な道徳に照準があっている。
というわけで、単なる一般人である正義の味方が怪人と向き合う『爆弾』の構図は、『バットマン』よりは『セブン』に近い。全編にわたって漂う生理的な不快感も似ている。人によってはおすすめできない理由はこの点で、『爆弾』では基本的に不愉快なことしか起きない。嫌な感じにセクシャルな描写も多いので、嫌いな人は避けた方がいい。
「野球は、何時から?」
二時ですとスズキは即答した。チューハイは何本だっけ? 三本です。試合が終わったのは――。 五時です。
(中略)
「通報は八時過ぎだ。 試合が終わってから三時間は経ってる」
スズキはにこにこしている。人畜無害な大黒さまのように。
「あんた、なんのつもりだ?」
「刑事さん」
ドアが開く。荒々しい風が吹き込み、同時に伊勢が飛んでくる。 血相を変え、等々力の耳もとに叫ぶいきおいでささやいた。
秋葉原で爆発です。詳細は不明。
スズキがいった。変わらない笑みのまま、
「あなたのことが気に入りました。 あなた以外とは何も話したくありません。そしてわたしの霊感じゃあここから三度、次は一時間後に爆発します」
このくだりが、物語の最序盤で俺をノックアウトした。
スズキタゴサクの相手をしているのは、刑事組の中で、中心人物の一人となる等々力(とどろき)である。冒頭から、仕事にあまりやる気がなく後輩にも慕われていないことがうかがえる等々力だが、ささいな直感からスズキの異常さを認識する。
スズキの発言に潜んだ時間の経過に関する不審点について、等々力がするどい質問を発するのを見て、読者は「おっ」と思う。こいつは、単なるぐうたらじゃないな、と思う。
それまでゆるんでいた等々力がギアを上げる瞬間については、特に細かく描写されない。へらへらした怪人に向き合っていただらしない刑事が、いきなり切れ味を増してみせる。これがいい。
そして、それに対するスズキタゴサクの反応が、さらにしびれる。スズキも即座に、等々力の本質を理解して見せ、今後の自分の相手として等々力を指名するからだ。
素晴らしい応酬である。すごくて笑ってしまった。そして、このテンションのまま最後まで行ったら、すごい作品になるだろうな、と思った。
実際、最後まで、このまま行くのである。だから『爆弾』はすごい作品なのである。小説というメディアのすさまじいエネルギーを感じられる作品である。
ネタバレなしの感想はここまでにする。みんな読んでほしい。
対スズキの「継投」
以下は、作品の具体的な内容も紹介しつつ、『爆弾』という小説の魅力についてあらためて分析してみる。
未読で、今作に興味がある人は、読んでからお会いしましょう。
警察の取調室における対スズキタゴサクは、野球でいえば継投である。最初が等々力、次が清宮、最後に類家(るいけ)という三人の刑事が、順番にスズキと相対して、この怪人の正体と狙いを探り、都内に仕掛けられた爆弾を無力化しようとする。
読んでいて同じ感想だった人も多いと思うが、スズキの相手となる刑事たちが、価値観の異なるキャラクター同士、うまくばらけていると思う。
卓越した直感を持ちながら、過去の出来事が原因で自分にとっての正義が定まらず、仕事に身が入らない等々力。
強い職業倫理と高い知性、自制心を持ち、怪人相手にも礼節を守る清宮(『爆弾』という作品において、いわゆる正義の味方がいるとしたら、彼である)。
清宮でさえ舌を巻く驚異的な頭脳の回転を誇る一方、道徳観には疑問があり、場面によってはスズキの同族にも見える類家。
彼らが何のために刑事をしており、何が誇りで、強さで、それと裏返しの弱点はどこにあって…というのが見事にバラついている。
彼らは基本的にスズキにやりこめられてしまうのだが、それぞれ苦渋の舐めさせられ方が違うし、プライドを守る最後の一線やスズキへの一矢報い方に、各々のキャラクターが表れていて、読んでいて飽きない。
また、刑事たちの違いを魅力的に演出するうえで、ある要素が大きな役割を果たしていると思う。それは、怪人・スズキタゴサクが見せる、それぞれの刑事たちへの向き合い方である。
スズキは、一貫して人を食った態度で取り調べに応じているだけに見えて、刑事によって態度を使い分けているように感じられる。
等々力に見せた「無邪気」な面、刑事の理想を象徴するような人物である清宮を原始的な憎しみに突き落としてやろうとする面、退屈な仕事で才気を飼い殺しているような類家に理解を示す面。怪人が見せる使い分けは、スズキタゴサクというキャラクターの本質を考える上で大切だと思うので、次で詳しく書く。
怪人の強みと弱み
なぜ、この社会は不平等なのか。
なぜ、他人に親切にしなくてはいけないのか。
なぜ、正しい人間が多数であるはずの世界に、理由のない暴力が渦巻いているのか。
そして、なぜ、本当はみんな社会を良くすることを諦めているし、他人なんてどうでもいいと思っているのに、そうではないフリを続けているのか。
スズキタゴサクはこうした質問を刑事たちに投げかける。
ただ、俺はこれが、スズキと刑事たちとの倫理をめぐる質問と会話とは思わない。これは単純な対峙ではなく、もう少し屈折した構造だと思う。
それは、おそらく、スズキタゴサクにとって、自分が投げかけた質問への回答などどうでもいいからである。
スズキは、正義と秩序の側にいる刑事たちにとって挑発として有効だから、こういう質問を投げているだけである。相手が冷静さを一瞬失ってくれればいいのであって、返ってくる回答に興味などない。
いくつかの書評で既出の表現だが、スズキタゴサクの本質は鏡であると思う。清宮が徐々に追い詰められ、類家が均衡の上を危うくわたっている、自身の憎悪や欲望のままに行動したいという、ネガティブな感情。スズキは挑発的な発言を繰り返すことで、相手を自分の醜い部分に向き合わせ、自壊させようとしている。これは対話ではない。スズキ自身も興味のない質問を投げかける、向き合う相手によって変化する、一方的な攻撃である。
鏡に映った像を破壊することはできない。『爆弾』という物語は、刑事たちとスズキタゴサクの対決である一方、実はスズキ本人はほぼ、鏡の裏に隠れたまま、勝負の場に上がっていない。
刑事たちはスズキに敗れるというより、混乱で自滅しているのである。怪人の強みと本質はここにある。そして同時に、弱みもまた、ここにあると思う。
なぜ、これが怪人の弱点なのか。それは、本来ならば警察にとってクリティカルな問であるはずの、「お前たちは、道徳ががらんどうの単なるファッションになってしまった今の社会を、どうとらえているんだ? お前たちは何をやっているんだ?」という質問の切実さを、スズキ自らが損なっているからである。
スズキタゴサクは、鏡という戦法によって、自分の質問にはまともに取り合う必要はない、というメッセージを発してしまっている(なぜなら、スズキ自身、回答に興味がなく、鏡の裏から出てこないから)。
これによって、警察の側に余地というか、ある種の逃げ場が生まれる。それは、スズキの問いに完全には答えられなくても、自分たちは誇りをもってこの仕事を続けていくんだ、という点で議論を決着させる余地である。スズキの戦法は凶悪な一方で、社会のいびつさやどうにもならない不条理をめぐる厳しい問いを、刑事たちの心の問題にスライドさせることを許しているのである。
物語の終盤で等々力は、スズキに翻弄されながらも、人間の抱える歪みと正義との間で立ち往生していた過去に一つの決着をつける。
清宮は、スズキに敗れて退場したのち、自分のあとを継いだ類家の戦いを支援するため、組織の規律を逸脱する決断をする。
類家は、自分がスズキの同族であることを認めつつ、社会への希望を口にする。
皮肉でなく、素晴らしい場面である。「砂糖まみれ」と類家が自嘲しても、読んでいて気持ちが熱くなる。
しかし、同時にこうも言えるはずだ。刑事たちが、挫折からどれだけ美しく立ち上がっても、それが現実の問題にとってはなんだというのか? 道徳が単なるコミュニケーションツールと化し、ルールに沿わないものを排除するシステムとなっている問題、どうにもならない社会の不平等に関する問題は、こんなことでは、一つも解決されていない。
例えば、スズキタゴサクが本当の思想犯であり、テロリストだったらどうだろうか。本気で、生身で血肉の通った言葉で、社会の欺瞞を告発し、正面から勝負を挑んできたなら、刑事たちが敗北からどのように奮起したところで、読者に与える印象はかなり違ってくるだろう。本質的な問題を棚上げした、自己満足という部分が鮮明になりすぎてしまうと思うのである(ちなみに、まったくの余談だが、俺は現実のテロルを、それが及ぼした影響も含めて絶対に肯定しない)。
しかし、『爆弾』のスズキタゴサクに、刑事たちの決意や宣言を欺瞞だと批判する権利はない。まともに会話を交わすことを最初から放棄しているのは、スズキの方だからである。スズキは鏡という戦法によって無傷で相手を自滅させる代わりに、勝敗の基準が警察の心の中に移っていくことを認めた。これが、スズキタゴサクの弱みである。
なお、『爆弾』が直木賞にノミネートされた際、俺の好きなある作家は、審査員として本作をかなり厳しく評した。
もしかするとその作家は、『爆弾』が犯人と警察との倫理をめぐる物語のようでいて、実際は少し屈折した構造をしている点を嫌ったのかもしれない。正義に関する正面衝突は存在せず、それゆえに、警察の方に、「それでも、自分たちは誇りをもって秩序を守り、人間を信じるのだ」という甘い感傷に逃れる余地を与えた点を、あの作家はとがめたのかも、と思わなくはない。
『爆弾』の巧みさを「勝ち点」から考えてみる
仮に、刑事たちの見せる誇りや決意が、スズキタゴサクが鏡という戦法をとったがゆえのおこぼれのようなもの、自己満足であっても、『爆弾』というエンターテインメントの価値は損なわれない。むしろ、この作品の面白さ、読んでいて得られる快感は、この点によって支えられていると思う。
例えば、スズキタゴサクと警察の攻防を、都内に仕掛けられた爆弾を計画通り爆発させたらスズキに1点、解除して防げたら警察に1点というゲームとして考えてみる。
最後まで読むと、警察はこのゲームでほとんど点数を取れずに、スズキタゴサクにいいように点を決められ続けていることがわかる。等々力の閃きや、類家の知能によって、いい場面を作ってはいるものの、基本的にはスズキの圧勝なのである。
ただ読者としては、怪人にいいようにされてばかりだと、娯楽として少し厳しい。互角、せめて、いくらかは食い下がってほしい…のだが、爆弾は爆発し続けてしまう(メタ的に言うと、爆発が続かないと物語も続かないんだけど)。そのとき、窮地の刑事たちが見せる信念や、覚悟が重要な役目を担っているのである。
実際のところ、『爆弾』では二つのゲームが並走する構造になっていると思う。表面的には、爆弾を起爆させるか、停止させるか。その裏では、スズキタゴサクが誘惑してくる悪意に飲まれてプライドを破壊されるか、踏みとどまるか。
爆発をめぐるゲームではスズキの完勝である。そして、悪意とプライドのゲームでも怪人はかなり優位に勝負を進め、実際に清宮に対しては陥落寸前まで追い詰めている。
しかし、スズキ自身が選んだ鏡という戦略ゆえに、二つ目のゲームに関しては、勝敗の基準が刑事たちの主観にゆだねられることになった。極端な話、警察が「負けてない」と胸を張れば警察の勝ち、スズキタゴサクには疑義をはさむ余地がない。
そして、怪人はいくらか点を取り返された。刑事たちは、爆発は防げなくても、心までは完全にへし折られなかった。
こう書くと爆発自体は止められなかったことを馬鹿にしているみたいだが、だからこそ『爆弾』は面白いのだ。二つのゲームの総合得点で、スズキタゴサクと警察の対決は勝負として拮抗しているし、それがエンターテインメントとして素晴らしい体験を読者に与えることなっている、と思うのである。
スズキタゴサクも、警察との勝敗を、爆弾を想定通りに起爆できるかだけでは計っていなかったと思われる。この邪悪な怪人に「人がいい」部分があるとしたら、この点ではないだろうか、と思う。
スズキは、勝負を爆発と殺傷だけに限定していれば、ほぼ完勝で、勝ち誇ることができた。しかしスズキタゴサクは、おそらく、悪意による支配とプライドを賭けた二つ目のゲームに、かなり高い配点を設定していた。
物語の最後に語られる「今回は引き分けです」は、そういう意味だと思う。爆発をめぐる攻防で等々力、清宮、類家をほとんど完封した怪人は、最後の最後で、鏡の防御を類家に突き崩され、等々力を取り込むことにも失敗した。
それが何か? 爆弾は、ほぼ計画通りに作動し、多くの死傷者が出た。平和を守るための組織としての警察の威信はずたずたである。
それでも、爆弾が爆発するかどうかとは別の勝負に、多くの得点を設定したのはスズキ自身である。そして、警察はギリギリのところで、爆発を防げるかどうかとは別の勝負で得点を拾ったのである。
この構造、そして、この怪人の弱みのゆえに、勝負は最終的に「引き分け」だった。そして、それがゆえに、『爆弾』はどれだけ爆発を止められなくても(警察の自己満足みたいな部分があっても)、スリリングな接戦であり続け、娯楽として超がいくらでもつく一級品として成立したのだと思う。
さいごに
小説というメディアの強烈な力を、あらためて楽しめる作品だった。
俺は漫画も映画も好きだけど、やっぱり小説が好きなんだ、バチバチ緊張感のあるシーンや会話を、文字だけを情報として浴びながら楽しむのが好きなんだ、と再確認したし、そんな大げさな話にならなくても、とにかく、もっと多くの人に読んでほしい作品である(ただし、注意点は冒頭参照)。
作品に登場する三人の刑事、等々力、清宮、類家というキャラクターを立ち位置で使い分ける書き方は、作品の構造として完璧だったため、続編があったら読みたいな、と思いつつ、蛇足になるかもな、という危惧もあったのだが…。
来る。
もちろん、読む。
ここまでの感想で書いたとおり、第1作はとても、キャラクターの設定や、爆発続きの事件をいかに拮抗したものに見せるかなど、「構造」を意識したつくりになっていると思う。第2作がこの構造をどう壊すのか、もしくはどう利用するのか、楽しみである。