バトルタワーのライコウと、スカーレット・バイオレットDLC『藍の円盤』に寄せることについて

 ポケットモンスタールビー・サファイアに登場する施設に、バトルタワーというものがある。

 ポケモンというゲームは基本的に、レベルさえ上げれば割と力押しでエンディングまで行けてしまう。ただ、対戦におけるエンドコンテンツ的な要素が強いバトルタワーでは話が別で、技の構成やポケモン同士の相性・役割の補完など、かなりシビアに考えないと先に進むことができない(厳密には、対CPUでほぼ100%勝つための構成と、対人の構成もまた別だが)。

 例えば、ストーリー本編で愛用し、無双してきたポケモンだとしても、タワーでは行程の30〜40%ぐらいで超えられない壁にぶつかって永遠に跳ね返されるつくりになっている。ここから攻略を続ける場合、イチから何体も対戦専用のポケモンを育て直すことになり、大変に面倒だ…なのだが、一方でポケットモンスターというゲームは、ある意味で「ここから」でもあるのだった。

 

 20年近く前、まだ高校生だった頃、このバトルタワーに関する印象的な記憶がある。

 タワー攻略は35連勝が最初の大きな区切りであり、配置されたボスキャラクターを倒すと、次は70連勝、それから100連勝の記念品、最後はどこまで連勝を伸ばせるか、という話になる。その間、CPUが敵として使うポケモンはどんどん強く、えげつなくなっていき、中には運ゲー上等ではじめからこちらとまともに勝負する気なんてないような、製作者の悪意が凝縮されたようなポケモンも登場する。それをかいくぐり、タワーを上に、上に登っていく。

 おそらく、連勝数が60~70を超えたあたりだったような気がするが、CPUが出してきたポケモンを見て、思わず「えっ」と声が出た。相手がライコウを出してきたからである。

 当時、自宅にインターネット環境がなかったため、紙の攻略本と手探りでここまでやってきた俺は、まさかライコウが出てくるとは思わず、GBAを手に少し固まってしまった。

 

 ライコウというのはルビー・サファイアのひと世代前、金銀に登場する伝説のポケモンである。ゲーム中には一匹しか出現しない=一匹しか捕まえられない、特殊な立ち位置のポケモンで、ゲーム内の敵キャラクターが使用することもない。

 言い換えると、ポケットモンスターのゲーム世界において、ライコウのようなポジションのポケモンを使うのは、主人公であるプレイヤーだけである。その原則の外に出るには、自分以外のプレイヤーと通信する=文字通り世界の境界を超える必要がある。

 

 「おお、タワーをここまで登ってくると、敵がライコウを出してくるのか…」

 実際、制作側からすれば、単にステージの難易度を上げて敵のパターンにバリエーションを持たせるための方策に過ぎないだろう。ただ、妙な興奮があった。

 

 あれから長い年月が過ぎ、当時の高ぶりを考えてみると、どうやらいくつかの感情に分解できるように思える。

 

 一つには、大げさに言えば、ポケットモンスターというゲーム世界を覆うテクスチャーを破って、はぎとってやった、という、どこかうす暗いものがあったと思う。

 ポケットモンスターというゲームは、奇しくも初代の赤緑から、特定の手順でコマンドを入れることで、(絶妙にプレイ続行の余地を残しつつ、)バグを意図的に呼び込めるという、当時の子供にとって、自分の手で一つの世界を破壊する原体験になるような作品だった。

 もちろん、俺がタワーで出会ったライコウは正規の仕様なわけで、本質的にバグとは違う。

 ただ、本来なら主人公=自分以外は連れていないはずのライコウを、なぜかNPCがしれっと使役しているという風景に、整然としたゲーム世界の破れ目をのぞいた感覚が、赤緑のときと同じく一瞬よみがえった気がした。

 

 もう一つあったのは、上で書いた世界がほつれる感覚とは反対に、物語があたらしく再構成される感覚だったような気がする。

 ポケットモンスターの本編における大きな目的の一つは、最終盤にあるポケモンリーグというボスラッシュで連勝し、最後にラスボスであるチャンピオンを倒して、自分が新しいチャンピオンになることである。

 この苦難と感動の行程は、しかし、そのあとに始まる対戦用ポケモンのレベル上げという段階に入ると急激に色あせてしまい、ポケモンリーグのボスたちを含め、旅の中で出会ってきた強敵たちは、最終的には経験値とお金を供給するための作業の一部になってしまうのだった。

 ゲーム本編のクリア後、他のどのNPCも持っていないような、強力で変態的な構成のポケモンを連れて、ボスキャラクターが発するセリフをAボタンでポチポチ処理しながらレベルを上げるというのは、当時はなかなか孤独な作業だった(いまなら、SNSとか動画配信とか、いくらでも並行してできることがある…)。‘

 そういう無機質になったゲーム世界において、バトルタワーに唐突に現れたライコウは、例えるなら「ポケモンリーグをとっくに突破したキャラクターたちが実は世界に大勢いて、そいつらは下界には目もくれず、延々とこのユートピアで勝負に狂っている」的な、マンガの新章のような新しい物語を錯覚させた。もちろんそれも、いつかは色あせ、敵が繰り出すライコウも他の伝説のポケモンも、タワー攻略のために淡々と処理する記号になってしまうのだけども。

 

 三つ目の興奮は、二つ目と似ていて、少し違う。

 二つ目が物語の再構成なら、三つ目は物語からの解放だったような気がする。

 伝説のポケモンを唯一連れて歩けるのは主人公の特権だが、同時に、大げさに言えば、主人公だけに負わされた宿命だった。強烈な才能であると同時に、世界を救う英雄の義務、さらに言えば呪いであり、どこかで主人公をさいなんでいた(かもしれない)。

 そのときに出会った、「あれ、こいつもライコウ連れよるわ…」という体験。

 もう、自分だけがヒーローじゃなくてもいいんだな。

 なんというか、そういうことである(かもしれない)。

 

 ポケットモンスターというゲームは、街と街を旅しながら合間でマフィアをしばくというジュブナイルから始まった。

 当時は、ボスキャラクターにあたる各街のジムリーダーも、子どもの目から見る「大人」の印象を上手いこと再現しているというか、旅を続けるために街を去っていく主人公に対して、ジムリーダーは街に残り、以降は物語にそこまでからんでこないところに、成人や自分よりも成熟した青年たちの責任感みたいなものが漂っていた(当時はまだ、各キャラクターを深堀りする開発リソースや容量がなかったからと言えばそれまでである)。

 

 以降も、シリーズ本編において、青春に入るよりもちょっと前ぐらいの子どもが冒険の旅に出る、というフォーマットは変わらないが、物語の規模は段々大きくなり、主人公が背負うものも重くなっていく。

 ルビー・サファイアは世界の地表や海が広がり、最後は移動できるマップまで変形してしまうような話だし、時空間がテーマになることもあれば、主人公の戦いに人類の存亡がかかることもあった。

 

 実は俺は、ポケットモンスターというゲームが、もしも初代から連綿とジュブナイルを一つのテーマにしているなら、シリーズの物語が壮大になる一方なのは、そこまで食い合わせがよくないんじゃないか、と思っている。

 なぜかというと、もしも世界の命運を託される条件に、何か特殊な才能や物語上の幸運(or 不幸)なタイミングがあるとして、主人公が少年/少女である必要性は、相対的にどんどん小さくなってしまう気がするからである。

 一番最初の、「子どもが旅に出て悪い大人を懲らしめつつ、最後はライバルの友だちと決着をつける話」に対して、「無二の才能を持つ誰かが偶然アクシデントに巻き込まれて、最後は世界の危機を救うことになる」、それが子どもの物語である必然性って、商品としてキャッチ―だから、以上の何かであるのか? とか考えてしまう。

 そして、ライコウどころか、世界の摂理自体に干渉できるような神に近いポケモンに好かれるというのは、他の誰にもない選ばれし才能以外の何物でもなく、これが俺の中では、子どもの冒険というくくりとはうまく接合できなかったし、どこかで乗りきれない、押し着せられた宿命に感じるようになったような気もする。

 ただ、これは俺が30半ばを過ぎたオジサンが物語の構造を斜めで見たときの感想で、ルビー・サファイア以降の作品にはじめての体験として接した子どもたちが、物語に自分を投影して夢中になった、としてもおかしいところはまるでない。

 

 その俺が、2022年に出た最新作のスカーレット・バイオレットの物語に完全にノックアウトされた。

 自分でも意外だし、一方で、「このストーリーだからこそ」とも思う。

 正直にいうと、ポケットモンスターのストーリーにはもうあまり期待していなかったのだが、本当に久しぶりに「いいな」と感じてしまった。

 というか、赤緑をプレイしていた子どもの頃の楽しみ方は、没入が強いが故にしみじみ感じ入る感じでもなかったので、「いい話だった…」という満足感は、むしろはじめての経験かもしれない。

 

 先に書いておくと、スカーレット・バイオレットの主人公も、別の時間軸からやってきた、物語の進行とともに地形を攻略すべく自在に変身できるようになる、非常にスペシャルなポケモンを連れるようになる。

 そういった、過去作と同じ無二のギフテッドでありながら、それほどギラついていないのは、スカーレット・バイオレットにおける主人公の物語が、仲間たちのストーリーと関わり合いながらできているから、ある意味、他者の物語の「余白」に成立しているからだと思う。特に、ポケモンリーグのチャンピオンを目指すという過去から続いてきた主軸を、いくつかあるストーリーの一つとして相対化し、主人公を孤高のチャンピオンとしてではなく、その権化のような別のキャラクターに伴走させる役割に変えたのはすごいと思った)。

 今回の主人公は、とにかくまあいいやつで、彼/彼女の活劇は本人の才能や幸運というより、仲間を助け、励ます中で生まれたものという印象がすごく強い。

 最終章でさえ彼/彼女は仲間と一緒にいて、どうしてもエンディングは壮大になったけど、それは他の仲間がそれぞれの役目を負って果たしたように、主人公には伝説のポケモンと一緒に一つの仕事をするという役割があり、その結果として果たされた、という感じだった。

 あの四人で行って・帰ってきたことで、ポケットモンスターは主人公を英雄の宿命や孤独から解放したように、俺には見えた。だから、すごく感動したのだ。

 

 ここまでが長い導入で、何が書きたいかというと、今秋から配信されているスカーレット・バイオレットのDLCのことである。

 なぜスカーレット・バイオレットのDLCかというと、「一つの才能として伝説のポケモンに好かれる『持てる(モテる)者』」としての主人公と、「持たざる者」の悩みの対比が、ここにきて鮮明に描かれているからである。

 ゲームとしてのポケットモンスターは、実はこの点について誤魔化さずに、過去作を通じてずっと描き続けている。つまり、「ストーリーにおいて伝説のポケモンを連れてチャンピオンになることが宿命づけられた主人公に対し、必然的にそれに敗れていくライバルたちは(実は、現実世界の俺たちの多くの分身たちは)、世の中のどこに自分を位置付けるのか」というテーマである。

 

 才能が一つのテーマとしてどうしようもなくフォーカスされるなら、敗れた者についてもボカさない、ポケットモンスターというゲームが、好きは好きではある。ただ、スカーレット・バイオレットは(勝手に)、今回はそういう物語からズレます、という話だと思っていたので、DLCの展開は少し意外だった。

 そんな、才能にまつわる残酷な対比がうかがえるDLCの後編となる『藍の円盤』は今月、14日に配信された。

 持てる者/持たざる者云々という見方は勝手に俺がしているだけだが、仮にそこにDLCの重要なポイントがあるなら、「どこに着地させるのだろう? 」という興味は尽きない(プレイ前である)。

 歳をとると、フィクションで親身に感じる対象も、自分の子どもだったら…という目線で見てしまうのも、どうしても主人公よりはスグリの方である。スグリ君が、苦しい道でも、日が当たらなくても、充実した道を歩けるといいと思っている。

今日、脳から捨てたものについて ⑰

 

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

家がない!

 元ネタは『妖怪ハンター』。

 異界に吸い込まれてしまった小さい女の子が、偶然、現世に戻ってくることができた。しかし、異界にいる間に現世では長い時間が経過しており、家はとっくになくなってしまっていた。その際、彼女が発したセリフ。

 自宅がなくなって呆然とするとか混乱するとかでなく、ただひと言、「家がない!」と怒る。

 作者である諸星大二郎の特異性については、その画風を評して手塚治虫「真似できない」と語ったことが有名だが、俺はこういうヘンテコなセリフ回しの方に個性を感じる(単に絵についてよく知らないだけだが)。

 

トマトに砂糖かけるのか?

 元ネタは『バナナマンのバナナムーン』。

 番組中、日村が主にしゃべって設楽が横からくだらない茶々を延々と入れ続ける、というパターンがあって、このセリフもこうした流れの中で設楽が発したもの。

 日村がまだ新人だった頃、コント赤信号渡辺正行から、将来的にどうしていくつもりなのか尋ねられたことがあったという。

 「お前ら、(これから)どうすんの?」と、そのときの渡辺の言葉を再現する日村。つまり、芸人としての今後のプランはあるのか、という意味なのだが、その後を勝手に設楽が継いで発したセリフが、「トマトに砂糖かけるのか?」である。

 

社長も喜んではるわ

 元ネタは『ガキの使い』の「絶対においしい~」シリーズ、炊き込みご飯回。

 なんでんかんでんのインスタント麺を白飯に混ぜ込むというアイデアを出した山崎邦正が、尋ねられてもいないのに「僕、(なんでんかんでんの)社長のことも好きで…」となぜか語り出した後、「美味そう」「美味そう」と周囲の期待が高まる中で発したセリフ。

 

あれはお化けですよ

 元ネタは落語の演目『牡丹灯籠』。

 あまり言う機会のないセリフだと思う(これに限ったことではないが)。

 

このパッドを貼ってな このパッドを貼ってな 電流を流すのじゃ

 元ネタは『スナックバス江』。

 元ネタの元ネタは芥川の『羅生門』。

 この作品、基本的には奇想とか斬新という印象はなく、別にけなすわけでもなんでもなく(ファンなので)、優等生的なギャグ漫画だと思うのだが、このネタに関しては本当に狂ったようなすごい発想だと思った。

 

素晴らしきかな 初期衝動

 元ネタはあるが、確実に誰にもわからない。だって20年近く前に、お茶の水ヴィレッジヴァンガードの店内POPに書かれていたコピーだからである。

 浪人時代に、ほぼ毎日通っていた。あの独特な香りのする店内で、サブカルチャーな本棚の間を濁った目で歩きながら(tだ、目は今でも濁っている)、黄色いPOPの文字が並んだ空間にいることで救われた時期があった。

 

浮世根問

 落語の演目から。

 知ったかぶりのご隠居を生意気なクソガキが延々と問い詰めていくという内容。ガキに「浄土というのはどこにあるのだ」と聞かれ、ご隠居が「西にある」と答え、「そこから先に西に行くとどうなるのだ」…というやり取りが続く。

 途中、回答に窮したご隠居が苦しまぎれに「そこから先はもう、むやみに朦々(もうもう)としているのだ」と答えるターンがあり、その困り方を笑うところだろうけども、実際のところ、あらゆる物事のさらに先は、むやみに朦々としているとしか言いようがない領域があるんだろうな、という気もして印象に残っている。

 

まるまーる

 元ネタは『ガキの使い』の企画、ハイテンション・ザ・ベストテン。サバンナ・八木の持ちネタ(?)。

 自分の体を丸めて「まるまーる」、体を広げて「だいまーる」というだけのネタで、とてもベテランがやるような内容ではない。

 最後のオチはネタを見せ終わったのち、司会役の松本から「(あなた)芸歴何年ですか?」と尋ねて「18年です」と答えるところ。

 

以上

写真について

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

         f:id:kajika0:20230925194333j:image

 

 

 その日、その瞬間が来る前から「やるなよ」と前フリではなくクギを刺されていたことがある。危険というだけでなく、迷惑だからである。

 それでもまあ、やるやつはいるだろうから制止するための人員が現場に待機していたんだけども、配置するにあたって当然時間と経費がかかっていることは考えなくていけない。

 で、いざやるやつが現れれば、「ああ、よかった。配置しておいて無駄にならずに済んだ」というものでもないのだ。単に誰もやらなければ、その方がいいに決まっている。

 

 それで、まあ案の定というか禁止されていることをやるやつが出てきて、そうしたら今度はその瞬間を写真に撮ったものがあって、それが印象的だというのですごく評判になって…もうあんまり書きたくないけども、「納得いかねえな」と思って一人でムカついている。

 

 だって、ダメって前から言われてたじゃん。

 普通に、人に迷惑がかかってるじゃん。

 そこにも、誰かのお金が使われてるじゃん。

 ダメだろ、それ。

 

 で、どれだけインプレッシブな写真として仕上がっていようが、そして、そこにその瞬間の記録がどうとか空気感がどうとか、どんな理屈をつけようと、それが世に出回ったら、今度また同じような状況になったときに、同じようなやつを出す方向に拍車がかかるに決まっている。

 じゃあ、公開も拡散も、しない方がいいだろ。今。この時点で。

 それで将来、またそのときに、「言ってもどうせ守られねえだろうな」「警備しててもやるやつはいるだろうな」「だって、言ってもあいつらはやるし、面白ければ外野もOKなんだしな」って体制側の無力感の中で、次も同じことが起こって、そのときは誰かが死んだり病気になったりするかもしれないし、ならなかったらならなかったで、「やってはいけないことだけど、その場の感動と熱気をとらえた印象的な瞬間」と再びみんな言うのだろうか?

 そういう状況を、クソ、というのだ。

 

 俺みたいな人間を俗に「ノリが悪い」という。

 何がノリだこの野郎。知ったことじゃねえんだ。

 そう言い返してやるのは、「やっちゃいけないけど楽しいよな/便利だよな/一体感があるよな。だから、やっちゃったらやっちゃったで仕方ないし、そこで生まれたものをアレコレ言うのは野暮だよな」という声に対して「関係あるかボケ、やっちゃいけねえもんは、やっちゃダメで、仕方ないことなんて1mmもないし、そこで生まれたものも評価しちゃダメなんだ」と半ギレしつつ冷静に応えることが、人間を進歩させたと信じているからである(本当にちゃんと進歩しているとして)。

 ノリが悪かろうが、間違っているものは間違っているし、不快なものは不快だと言わなくてはならない。

 もし、それができていなかったら、人間はいまだに祭りで猫を焼いて、女性や外国人をいまよりも差別し、自分と同じ立場であるはずの誰かでさえ、いまよりももっと激しく阻害しようとしていると思っている。

 

 やっちゃいけないことを「やっちゃいかんのだ」と怒る大切さと一緒に、それが自己満足と暴走に揺らいでいく容易さを知っているつもりでいるから、この辺で距離を取っておく。

 取っておきたい。

 だって、怒るのは楽しい。

 いずれにしても、俺はやってはいけないことをした人より、それを面白がっている周囲の方が嫌いである。だから、写真に写っている人よりも、あの写真そのものが大嫌いである。

 

 そういうムカつきが、このところ鬱積しているのか、何の関係もなく根本的に俺がぼんやりした人間なのか、近所の海にいって呆然とひたすら波を見ている。

 この浜は地形の関係で、西に突き出た岬が水平線よりも先に太陽を迎える。それで太陽は岬の陰に姿を消すのだけど、海に沈んではいないから残光を放っていて、それが夕闇が来る前に不思議な藍色をつくる。

 キレイだな、と思って見ていて、「あ」と思う。鑿を一つ打ったような白い三日月が、藍色の空にかかっている。

 月、すげえな。と思う。その下は薄墨から朱色のグラデーションになっている。そして、波打ち際はいきなりねっとりと暗い。遊んでいた誰かがじゃれ合いながら海から出てくるところだ。

 誰が何と言おうが、この写真の方がいい。

 やっちゃいけないことをやったその瞬間がどれだけ美しかろうと、俺の写真の方がずっといい。

 ざまあみろ、と言い放つのは俺の性格の悪さゆえで、要は俺は、「お前ら全員間違ってるぞ」と言うためにブログを書いている。

 俺も間違ってるかもしれないが、お前らの方が間違ってるぞ、と言うために書いている。

 そして、反論が返ってくる前に俺は耳を閉じて、もう一度写真の美しさに戻る。

 だって本当にいい写真じゃないか?

「物語を楽しむとは」第1夜、もしくは『君たちはどう生きるか』の感想について

はじめに

 映画のスタッフロールを観るたびに、「映画って、ほんとに色んな人が協力してできてるんだな」と思う。

 「◯◯監督最新作」とくくられがちであるこの芸術が、実は監督の下の制作チームを含めて構成されていて、各チームにはリーダーがおり、それ以外にも広報、プロデューサーで成り立ってることが、スタッフロールを見るとよくわかる。

 

 …ということを書いておきながら、俺は映画の制作体制にあまり興味がない。

 そういう楽しみ方や興味があること自体はわかる。

  単に、自分が何かの作品を好きになる過程で、そういう情報がなくても好きになれるので、あまり関心がないということである。だから、監督の周囲との人間関係とかも興味がない。

 

 そういう前提で感想を書く。

 

 あと、作品を観る前にこんな記事を読んだ。

 

「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」。

book.asahi.com

 別に、「訳がわからなく」てもいいらしい。公式がそう言っていると安心する。

 

ネタバレなしの感想

 上映開始から1ヶ月近く経ってネタバレなしもクソもないものだけど、一応、先に詳細を伏せた感想を書いておく。

 

 面白かった。

 

 上でも紹介したが、訳がわからなくても別にいいらしく、実際のところ俺も、「よくわからんな」と思いながら観ていた。

 同じ「訳がわからんな」という映画でも、最近観た中では『TENET』は相当苦痛だったのだが、何が違ったのだろうか? (もう、最近でもないか)

 たぶんだけど、『TENET』が作品ルールの理解を前提として視聴するように求めていたのに対して、『君たちはどう生きるか』は、はじめから、世界観の一貫した説明がつかない(つける必要がない)ものとして示されていたから、という気がする。

 要するに、「訳がわからないまま観てればいいのね」という前提で観られたのがよかった。その上で、自分なりに理解できる説明を考えたり、それもできないところは、印象的なところを単に楽しめばいいらしいぞ、と。

 少し先走るが、俺は『君たちはどう生きるか』という作品のテーマ自体が「訳のわからない中で自分なりに現実を整理して取捨すること」にあると思っている。

 そういう意味で、自分がいま映画を観ながらやっていることと、映画の伝えたいこととが、上手く重なったような気がする。

 

 いずれにしても、訳がわからなくていいらしいので、理解できるかどうかを観る前に不安に感じなくてもいいと思う。一方で、意味がわからなくてつまらなかった、という感想ももっともだ、とも思っている。

 

「訳がわからなかった」ところの話 ①

 以下、詳細なネタバレを含む。

 

 

 

 

 

 

 

 訳がわからんと言いながら、じゃあ、それはどこだったのか、ということを書く。

 

 『君たちはどう生きるか』で俺が「訳がわからん」と感じたところは、おおまかに言うと二つに分かれる。

 一つ目は、世界観の矛盾(というか、未整理の部分)。

 二つ目は、キャラクターの行動やストーリーについて、「なぜそういう展開になる?」と混乱した部分である。

 

 まず、一つ目の「訳がわからん」である、世界観の矛盾から書く。

 俺は、『君たちはどう生きるか』の世界観はいくつかの点で整理ができていない(あるいは、そもそもしようとしていない)と思う。

 

 例えば、主人公・眞人が異界で出会ったワラワラという存在について考えてみる。

 ワラワラは、産まれる前の魂であり、異界を上に登って眞人たちの世界に移ることで人として産まれるという。「なるほど、そういう設定なのか」と観ていて思う。

 しかし、そのあとで、身重である主人公の継母(ナツコ)が異界で出産をひかえている描写が出てくるので、「おや?」と思う。

 ワラワラ=人間の魂が人として産まれるためには、眞人たちの世界にわたる必要がある。ということは、少なくとも異界は、人間を産んだり産まれたりするための世界ではない。

 しかし、ナツコは異界で出産を控えているようだ。これはおかしいぞ、と思う。

 

 異界における「ばあやの人形」の扱いもよくわからない。

 眞人と一緒に異界に入ってしまったキャラクターに、疎開先にいた大勢のばあやの一人・キリコがいる。

 しかし、異界の中でキリコ自身は描かれず、代わりに登場するのは「若いキリコ」、それからキリコの人形である。

 キリコの人形は眞人が持ったまま、異界から眞人たちの元の世界に持ち出される。それと同時に、人形はばあやのキリコになる(ばあやに戻る?)。

 つまり、人形=ばあやのキリコ、ということになる…はずなのだが、ややこしいことに、異界にはキリコ以外のばあやの人形も登場する。

 眞人と一緒に異界に入ってしまった(人形になってしまった?)キリコとは違い、他のばあやたちは元の世界で普通に生活している。しかし、異界にはそこに迷い込んだキリコ以外のばあやの人形も出てくる。

 もしも眞人が、キリコ以外のばあやの人形を異界から元の世界に持ち出していたら、人形がばあやになって、何人かのばあやが二人になってしまうのか?

 まさか、そんなことにはならないはずだ。これも、なんだかおかしいな、と思う。

 

 もう一つ、矛盾とまではいかないが説明が不十分だな、と思う点がある。

 そもそも、観客は眞人がやって来た元の世界と異界とを、どういう構造で観たらいいんだろう、ということである。

 眞人が異界から元の世界に戻ってくると、異界から一緒に出てきた人間インコたちは普通の鳥になる。上で書いたとおり、キリコの人形もばあやのキリコになる。

 ここだけ見ると、眞人の元の世界は魔法を解く世界=現実世界であり、『君たちはどう生きるか』は現実世界と魔術的異界の対比になっているように感じられる。

 しかし、実は元の世界にも魔術の一部は存在する。なにしろ、異界の存在であるはずの青鷺は元の世界を自由に飛び回っているし、青鷺の羽で作った矢は、元の世界でも超常的な力を持っているからだ。

 そう考えると、現実対魔術という対比ではなく、「ほぼ現実(でも、やや魔術的)」と「完全に魔術的」という方が正しいように見える。この場合、世界同士の対比というより、並列関係という構造の方がしっくりくる気もする。

 対比か、もしくは並列か。

 どう理解するのが正しいのかはわからない。ちなみに俺は、眞人が異界に入る前に路上で登場した戦車がヘンテコに小さいのを見て、「ああ、ここも史実の世界ではなく架空のファンタジー世界なんだな」と思っていた。

 

 こうしたことを受けて俺が感じた結論は、「この作品の世界観に整合性を求めてもあまり意味がない」というものだった。

 実は本来、俺は物語の整合性にかなりこだわる。筋道が通っていない展開があったり、説明が不足している部分があると、強いストレスを覚える。

 そのため、「どうやらいい加減に観ていても問題ないらしいぞ」という結論に至ったあとも、楽しんで観られたのは我ながら意外だった。もしかすると、一つ一つの場面が面白くて見続けてしまったのかもしれない(大きな魚をバリブリと解体する場面とか、人間インコのかわいさとか)。

 

 眞人が異界に落ちてきたばっかりのとき、孤島の上にある巨大な岩室のようなものと、「墓の主」という非常に意味深なワードが登場する。

 しかし、これらが何なのかは明かされない。最後まで観ていてもわからないんである。

 こういう存在が出てくる作品の中で、整合性を気にしてもしかたがないんだろうな、とあらためて思う。墓の主という存在自体が「細かいことを気にするな」という作者からのヒント…とまでは言わないが、俺にとっては「じゃあ、あんまり考えても意味ねえな」と思うきっかけになったのは確かだった。

 

「訳がわからなかった」ところの話 ②

 続けて、二つ目の「訳のわからなさ」、キャラクターの行動やストーリーについて、「なぜそういう展開になる?」と混乱した部分について書く。

 

 なぜ、あのキャラが、あんな行動を取ったのか。

 あるいは、なぜ、ああいうストーリーの進行をしたのか。

 先に書いた世界観の矛盾が、あんまり深く考えても仕方ないんだな、と落ち着いて処理できたのに比べると、こっちの方が受け止めるのにエネルギーが必要だった。

 逆に言えば、いちいちマジメに受け止めて、その謎を解こうとしたのである。

 これは、「なんでこうなったか、観ている方々はわかるかい?」と挑発されたと感じたからかもしれない。実際はどうにせよ、謎を感じれば解こうとせずにいられない、観客というのは傲慢だな、と思う。

 

 「なぜこんな展開になる?」の一個めは、疎開先の子どもたちとケンカになった眞人が、ケンカの帰り道で、石で自分の頭を割る場面である。

 眞人がいきなり、自分の頭に石を勢いよく打ち付ける。ごぽ、どぱぁ、という非常に特徴的な液体の質感で、鮮やかな血が流れるシーンだ。

 一応、簡単な説明はできる。

 眞人が石で負った大怪我を見て、眞人の父親は地元の子どもたちのせいだと誤解し、その責任をとらせようとする。眞人は加害者たちへの嫌がらせのためにわざと自分を傷つけた、という解釈だ。

 眞人自身も、物語の終盤で自らの悪意と石の関係について触れているため、おそらくこれが正解なのだろう。

 それでも、俺はやや腑に落ちなかった。なぜかというと、眞人という少年が繰り返し、勇敢で誠実なキャラクターとして描かれるため、陰湿な悪意とはあまりかみ合わないと思ったからだ。

 

 うーん? と考えた結果、個人的に納得がいく解釈としては、あの自傷は自分への制裁でもあったんじゃないか、と思う。

 眞人は田舎に来る前に火事で母親を亡くしている。眞人は火傷覚悟で現場に向かったのだが、結局、母の命を救うことはできなかった。

 その後、地元の子どもたちにいじめられたとき、眞人はもしかすると、多人数である彼らにかなわないまでも、せめてズタボロになるまで抵抗して、あの火事から「生き残ってしまった」自分を納得させるところまで戦いたかったのではないか。

 しかし、結果としてはあっけなくやられたばかりか、負った傷といえば、ぱっと見ですり傷だけという、ある意味でもっとも情けないことになってしまった。

 そういう自分への不甲斐なさ、怒りが、石で自分の頭を割るというかたちになった、と俺は解釈した。

 

 「なぜそういう展開になる?」の二個めは、物語の最後の最後、エンディングの扱いである。

 眞人が異界から帰ってきたあと、ストーリーは急激な速さで閉じられてしまう。俺はここに大きな違和感を抱いた。

 眞人が異界から元の世界に戻り、画面が暗転すると、次の場面ではナツコが出産を終えて家族が増えており、一家は疎開先の家を発つ。

 ここまでわずか数分。そして、『君たちはなぜ生きるか』は、ここで唐突にスタッフロールを迎える。

 

 不可解と言っていいぐらい、最後にここまで早く物語をたたんだのは何が理由なのか?

 なぜ、異界から帰ってきた後の眞人の生活は、ほぼ完全に省略されてしまったのか?

 

 確かなのは、製作者側が「異界から戻ってきてからを描く必要はない」と判断したことだろう。言い換えれば、描くべきことは、ここまでで全部描かれた、ということになる。

 では、エンディングを迎える条件を満たす「描くべきもの」とは何だったのだろうか。

 

 うーん、と考えて、大事なのはこれかな、というものがいくつか思い浮かんだ。

 

 まず、眞人に深い悲しみを負わせることになる母親・ヒサコの死。

 そして、ヒサコの若い頃の姿と思われるヒミに異界で出会い、冒険を共にして、最後に「あなたのような子を産むなんて幸せ」という言葉をかけられたこと(これは、文字で起こすとなかなか……だ)。

 それから、異界への通路である塔の崩壊。

 最後に、映画につけられた『君たちはどう生きるか』というタイトル。

 

 どうも、この辺りを整理すると、最後の急速なエンディングの理由がが理解できるような気がする。

 

君たちはどう生きるか

 ベタな言説だけれど、「過去の出来事を変えることはできないが、その意味を変えることはできる」という言い方がある。

 自分の記憶にどういう意味合いや価値を与えるかは、ある意味で個人の人格そのものだから、簡単に変えられない。

 それでも、いくつかの方法で過去の意味を上書きすることはできる。強烈に印象的な物語に触れて、人生観をゆさぶられる体験は、そのうちの一つに含まれるだろう。

 たぶん、眞人の身に異界への冒険を通じて起こったのは、これと同じような変化だったのではないかと思う。元の世界とは違う幻想世界を通じて、永遠に喪われたはずの母親から、自分を強く肯定してもらうこと。そういう自身の人生の再解釈だったんだと思う。

 

 もちろん、眞人の母親であるヒサコ自身は、もう眞人に声をかけられない。言葉をかけられるのはヒサコの若い頃の姿・ヒミである。

 こうした間接的で遠回しなかたちで、アドベンチャーという枠組みに込めることでようやく力を発揮する、しかし、もし願ったとおりに機能すれば現実さえ変えられるファンタジーの力。それがあそこで描かれていたんだと思う。

 

 そのファンタジーの大元である塔は、しかし、物語の最後に壊れてしまった。

 肝心なこととして、塔とそこで生まれた物語は、眞人にとっては、第三者から与えられたものだ。

 その塔が壊れてしまったのだから、眞人はこれから自分の力で、この世界、不条理で残酷で、幻想的な異界とは違う意味で「訳がわからない」世界に対して、自分なりに筋の通った、もしくは筋は通らないけど自らを鼓舞できる物語を考えなくてはならない。

 塔なしでどうやって生きていくか。

 この世界に筋を通すか。

 だから、『君たちはどう生きるか』、なのだと思う。

 

 ただし、実際のところ、眞人が「どう生きたか」は、塔から出て以降の展開が急速にたたまれたため、まったくわからない。

 そう、あまりに唐突なエンディングの謎が、まだ残っているのである。

 

 俺は、この理由は、話の最後に作品の視点が、眞人から別のところにズレたからだと思っている。

 塔の崩壊を体験し、「塔の消失以後」をどう生きるか問われるのは眞人だけではない。ある意味では観客である我々も同じである。

 眞人のその後をあっけなく省略し、「どう生きるか」という大切な問いを不自然なくらい宙ぶらりんにさせる。これは、眞人の次に俺たちに向けて、「どう生きるか」という問いが移ったということなのではないかと思う。

 

 塔を管理していた「大叔父」が、映画を観ている俺たちの世界における誰のことだったのか、あるいは、塔が何かの組織の暗喩なのか、俺はその答えは別にわからなくていい。

 ただ、とにかく、この映画には無数の幻想世界の巨大な中央ターミナルである塔が登場し、そして、ぶっ壊されてしまった。

 塔を作り、そして壊した物語の作者が「じゃあ、これから『君たちはどう生きるか?』」と観客に質問する……、まあ、そういう権利がないこともないよな、とは思う。

 これが、俺の『君たちはどう生きるか?』の解釈であるので書いておく(実際のところ、「塔」が一つぶっ壊れたところで、同じようなものが俺たちの世界には他に無数にあるとしても)。

 

君たちはどう物語を楽しむか

 ここまで書いて、俺の中では色々と腑に落ちた。

 書いていて楽しかった。

 気になっていることを整理するのは楽しい。

 整理しながらうまい説明が思いつくと、つい、「きれいに整理できること」と「良い作品だったこと」をイコールで結びつけたくなってしまう。

 

 別に、「訳わからんけど楽しかったな(つまんなかったな)」というのだって立派な感想のはずだ。

 それでも、俺の観測範囲内で、『君たちはどう生きるか』は自分だけがたどり着いた真実を示す考察ゲームの中で語られている。俺だって、「俺はこう感じた」という言葉を、「俺は作者の思考を理解しきって真実にたどりついたぜ!」と言い切る傲慢さを抑えて、なんとか小声で発している。

 

mangacross.jp

 「私はこう読み解いた」というファッションが幅をきかせる世界において、「別に楽しけりゃ良いじゃん」という意見は、一見有効なアンチのように見えて、実は別のファッションとしてしか、意味を持ち得ないのかもしれない。

 それが製作者の望んだリアクションというか、望んだ世界だとは思えない。

 その点でも俺たち(のうちの一部)は、自分たちがこれからどうやって生きて(物語を楽しんで)いくかを考えるときが来ているのかもしれない、と思う。

 

 ※ この記事は、現代で「物語を楽しむとはどういうことか」を考えるために書いた、何回かのうちの第1回である。次があるかどうかは神の味噌汁。

悪夢について8

 逃げ込んだ先は、真っ暗な夜の校舎の中だった。

 山の中で、猿に似た正体のわからない無数の獣に襲われて、命からがらこの建物にたどり着いた。自分以外にも十数名ぐらいの人たちが一緒に逃げている。

 校舎の一階にある教室のうちの二つに、みんな恐慌に包まれながら、半分ずつに分かれてなだれ込んでいく。引き戸になっているドアを強く叩きつけるように閉めた。

 唐突に静寂がやってくる。闇の中で、人間の荒い呼吸音しか聞こえない。隣の教室の様子も一切聞こえてこない。こちらの部屋の中にいる人たちの顔を見回した。誰の顔も知らなかった。

 じゃり、じゃ

 建物の外で小さく何かがきしむような音が聴こえてきた。あの獣たちがやってきた。敷き詰められた小石が踏まれて、音が鳴っているのだ。獣たちがこの校舎の周囲を回っている。

 じゃり、じゃり、という音は小さいが、あの動物たちは気配を殺そうとしているわけではない。あの獣はおそろしく頭がいいからだ。そのぐらいの音量を断続的に響かせることが、どれほど人間を疲弊させるかよく理解している。獣たちは賢く、同時に悪意に満ちている。

 「開けてくださあい」

 カーテンを引いた窓ガラスの向こうから声がする。獣たちが人の声を真似ている。

 「開けてくださあい」

 「助けに来ましたあ」

 嘘であると見抜かれていることを、獣たちははじめから理解している。理解して、いたぶるためだけに言っている。外から呼びかける声には、あざけるような笑いが含まれていた。

 それから少しの間、静寂が訪れた。いきなり、何か激しくぶつけるような音が教室の後方から聴こえた。

 驚いて音のあった方を見る。教室が暗くていままでわからなかったが、教室の壁際に、そのまま開けて建物の外に出られるアルミ製のドアがあった。ロックはされているが、そのドアノブが外からつかまれて、めちゃくちゃに動かされている。

 ひときわ大きい、金属の機構がへし折れた音が鳴って、ドアが開きかけるのと、ドアに駆け寄ってドアノブをつかむのとは同時だった。

 すさまじい力でドアが向こう側にこじ開けられそうになるのを、全体重をかけて引き戻す。わずかに開いた隙間から、指先が異様に長い毛だらけの手が、木の枝が伸びるようにして入ってきた。

 動物の指は音もなく、こちらの手にからみついてきた。

 くふ

 外から声が聴こえる。ドアの向こうで笑っているのだ。獣の指が、ドアノブを握りしめるこちらの指をつまむ。冷や汗が出るような痛みがやってくる。

 その気であれば簡単に折ることも、ちぎり取ることもできるだろうに、そうしない。わざと負荷が限界を超えないところでとどめている。闇の奥で獣が笑いを押し殺しているのがわかる。

 もし教室に侵入してきたら、獣たちはこちらを食って殺すだろう。しかし、その前にさんざんこちらを痛めつけるだろう。ただの捕食では済まないだろう。

 痛みと嫌な想像で汗が止まらない。やがて、わざともったいつけるように、今度も無音で指先はドアの隙間から向こうに消えていった。こじ開けようとしていた力もなくなり、ドアは大きな音を立てて閉まった。

 いったんは遠くに離れたようだが、また確実にやってくるだろう。そのときはもう、防ぎようがないような気がした。

 そのとき、ドアのこちら側の金属部分と何かがぶつかって、少し耳に障るような高い音を立てた。

 なぜか、外の暗がりで妙に慌てたような気配があった。

 その直後、再びドアを開けようとする力がかかり始めた。何か焦っているような雰囲気があったが、それだけに込められている力が大きく、もう抵抗しようがない。

 無理だ、と思ったとき、教室内の誰かが、尖ったものでドアの金属部を削るほど強く引っかいた。大きな擦過音が闇の中に響いた。

 外で、何頭もいる無数の獣たちが一斉に嫌な悲鳴を上げた。ドアにかかっていた力が急になくなる。それと同時に、遠くに走り去るような音が聴こえたのは、ドアノブを手放すだけでなく、慌てて逃げ出したものらしい。

 金属音だ、と教室の中の誰かが言った。

 確かに、はっきりとわかった。あの獣たちは金属音を著しく嫌うらしい。

 少し希望が見えた気がした。まだ外は暗いが、夜明けも少しずつ近づいている。明確な根拠はないが、朝が来れば状況は少し好転する気がする。

 それから何度か、音を殺して校舎に接近してきた獣がドアや窓を強引にこじ開けようとすることがあったが、そのたびに擦過音を聞かせて撃退することを繰り返した。

 もう少しすれば、太陽が最初の顔を出すという時刻、何か大きな音が外から聴こえてきた。

 文明的で、しかしどこか暴力的なそれは、原動機、というか車のエンジン音だと段々わかってきた。こちらに近づいてくる。わずかに薄くなった教室の闇の中で、お互いの見合わせる顔に不安の色が濃くなっていく。

 誰かが、これまでのようにドアの金属部分をこすってみた。しかし、エンジン音にかき消されて何も聞こえない。

 唐突に、獣たちに追いかけられて校舎に逃げ込んだときに、隣の教室に閉じこもったもう一つのグループのことを思い出した。そういえば、彼らはどうなったんだ?

 そのことを考え続けるより先に、裏切られた、と思った。彼らは獣と取引して、獣に食われない代わりに、こちらを売り渡したのだ。そして今、こちらの金属音から動物たちを守るために、建物の外をエンジン音で満たしている。

 怒りと恐慌に襲われ、思わず窓に近づいてカーテンを開けた。

 闇の中で、白く強烈な光が動いている。ヘッドライトを点けた車が、こちらを馬鹿にするようにだらだらと、大きなエンジン音を上げながら校舎に沿って周回している。ドライバー席には獣の黒い顔とは違う、人間の肌色の顔が見えた。

 ただ、その顔がなんだか偽物のようというか、得体の知れない違和感があった。そのとき、ドライバーが頭を動かしたわけでもないのに、顔だけがずるずるっとすべってこちらを向いた。

 それは顔の皮だった。一枚にはぎ取られた顔の皮が、何もない空っぽの二つの目の穴でこちらを見ていた。車を運転しているのは猿に似たあの獣だった。あの獣が人間の顔をかぶっていたのだ。

 獣は正面を向いたまま、見られていることに気づいたのか、笑った気がした。それと同時に、ガラスが割れる激しい音がして、窓が割れた。教室の中に転がったものを見て、石が投げ込まれたのだとわかった。確かに、これなら校舎に近づかなくても窓を壊すことができる。

 じきに、窓から獣たちが飛び込んでくるに違いない。教室の中を見わたすと、みんな恐怖を感じつつ、それでも誰も絶望しきってはいないようだった。

 空が白みつつある。もう少しで夜が明けるだろうと思った。

『現代奇譚集 エニグマをひらいて』の感想について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミです。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 実話怪談というジャンルほどネタバレがもったいないものはないので、レビューの途中でも内容が気になった方は、そこでぜひ読むのを止めて、本自体に触れてもらえれば、と思います。

 

 よければ、こちらもどうぞ。

sanjou.hatenablog.jp

 

総評

 

 

 待ち続けた続刊である。

 

 2021年の10月に、鈴木捧は『実話怪談 蜃気楼』という本を出した。

 これは掛け値なしに鮮烈で、その作家の持っているいくつかの特徴がお互いに響き合いながら、一つのジャンルの上に、引き抜くことのできない鋭く美しい針を半永久的に打ち込むような作品だった。

 ものすごく驚いたので俺はしばらく感想が書けなくて、半年間ぐらい経ってようやく書いたのを覚えている。

 

 さて、この作品を含め、竹書房では作家の単著を一年に一冊のペースで出すことが多い。

 ということは、2022年の秋~冬には、『蜃気楼』の次の作品が出てもおかしくない。しかし、続刊の知らせはなかなか出なかった。

 俺は鈴木捧のtwitterをフォローしていて、執筆そのものは続けていることを知っていた。まったく他のジャンルにいくとか、ホラーでもフィクションの方にいくとか、そういうことかもしれないな、と思っていた。

 

 そうしたら、2023年の5月になって、ついに実話怪談の新作を出すというお知らせがあった。

 今作はkindleでの自主制作になったらしいが、読者としては別にかたちはなんでもよく、また鈴木捧の作品が読めるのは本当にありがたいことだと思う。

 それが『現代奇譚集 エニグマをひらいて』である。詳しい感想はあとに回すが、とてもいい本だ。

 怪談が好きな人に薦めるのはもちろんだが、いわゆるスリップストリームと呼ばれる文芸が好きな人も魅了されるのではないかと思っている。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

 

各作品評

 ※ 『エニグマをひらいて』の特徴の一つとして、各話には番号だけが振られており、個々のタイトルがないという点がある。

 実話怪談というジャンルに慣れていない人はピンとこないかもしれないが、これはきわめて珍しい形式である。

 一応、本の最後に「仮題」が用意されており、以下の評ではそれを使った。

 ただ、これから読む人は、題名を意識しない方が先入観なく楽しめるかもしれないとは思う。

 

 1-4 背中…◯。とても美しい話。

 あとでもう少し書くが、鈴木捧という作家は、文章の意味というのとは少しだけ違う、文字自体の佇まいというか、言葉の視覚的な美しさにとても意識的な作家なのだと思う。

 1-5 名画座の魚…◯。

 1-8 幽霊…◯。後述。

 2-4 溶解…◎。作者得意の、山で見つけた得体の知れないものの話。前にも別の記事で言ったことだが、俺はこういう怪談を読むと、「得した」と心の底から思う。

 2-5 死体忘れ…◯。

 2-6 鉄塔…◯。

 3-2 ケンカ…☆。後述。

 3-4 長い手…◯。

 3-5 誘拐…◯。

 4-2 開頭手術…◎。

 4-5 撮影…◯。

 4-7 ガガンボ…☆。別に守る必要もないのだが、ホラーを生業にする人が、切り札として一回だけ使うことを許されているセリフがあるとしたら、「死にたくない」だと思う。俺が勝手に思うそんな基準において、文句のつけようのない札の切り方をした作品。

 4-8 うつる話…☆。後述。

 5-3 空き地の話…◯。

 5-4 ラーメ…◎。後述。

 5-5 イバテル…◎。同じく実話怪談作家の我妻俊樹の作品に、『死ぬ地蔵』というすごい話があって、それを思い出した。

 怪異を中心に据えたシステムというかゲームがあり、いわゆる「因習」みたいに恐れられているわけでもなければ、肝試しのようにうかれたテンションで楽しまれているわけでもなく、ただ、なんとなくそういうものとして存在している。

 異常さが日常に織り込まれた、そういうヘンテコな状態のものほど、何かのきっかけでゆらぐと強烈に暗い部分や不安なものが出てくるのかもな、と思う。

 5-7 真夏の夜の音楽…◎。後述。

 5-8 二人目の彼女…◯。後述。

 

あらためて、総評

 ものすごく良い本である。
 
 上記の【各作品評】に◯から☆を並べたとおり、本当に素晴らしい作品。
 例えば、実話怪談の本を他に20冊、30冊買ったとして、こういうことは起きない。
 繰り返すが、絶対に起きない。断言してもいい。
 そういうレベルというか、要は鈴木捧というのはそういう作家だから、としか言えないことなのである。
 
 その一方で、とても重たい印象のある作品だな、とも思う。
 例えば音楽でいったら、シンプルで低音のビートに乗って語りかけるラップミュージックみたいな、すごく内省的で、同時に、聴く側にも耳を澄ませることを求めるような感触がある。
 
 それもあって、実は自分の中で、どう評価したらいいか難しかった。
 
 俺は実話怪談というのは基本的に、そういう重たさというか、ある種のシリアスさを押し殺した方が有利になる、アッパーなジャンルだと思う。
 それは早い話、実話怪談というのが、通常の自然法則では起きないような出来事を10ページ未満の文章量で描いて、読者を怖がらせたり不安にさせたりする試みだからである。
 こういうものを書いたり読んだりするとき、論理性を大切にしたり、読んでいる側にも同様の冷静さを求めることは、「オバケ」という異常なものを演出する上で、一種の重しというか、制約になると思う。
 幽霊や怪異とは何かを深く考えたり、考えた結果を表に出したり……そういうことをやればやるほど、文章は理性的に、「重く」なって、実話怪談としてやりにくくなっていく。
 
 もう一つ「重たさ」を感じた理由に、鈴木捧という作家自身の文章が見せる特徴がある。
 鈴木捧の文章は、怪談の体験者が思ったことや、その情景を、ものすごく丁寧に描写する。
 怪異に遭った彼女/彼が何を感じ、それが起きたのはどういう場所のどんな状況で、ということを、とても緻密に書く。これはおそらく、作家自身の姿勢によるものだろうと思う。
 
 一つ指摘をするなら、起こった怪異の大小(というものが数値化できるとして)で小さいものは、怪異以外の情報が文中に増えていくと、なかなか話の中心に出てこれなくなる。
 例えば、比較対象としてわかりやすいものに、竹書房が実話怪談のシリーズとして出している『瞬殺怪談』がある。
 瞬殺、という名前のとおり、パッと読んですぐ「オバケ」が出てくる。
 そして、話が短い=情報量が少ないと、その中で一番存在感があるのは自然と「オバケ」ということになる。まるで手順を踏むように、「オバケ」が必ずその話の中心になるようにできているのである。
 
 それに対して、鈴木捧ぐらいの文章量がある場合、ささいな怪異は話の中心にならないことがある。
 『エニグマをひらいて』にも、怪談というにはストーリーの分類が難しく、怪異はその一角を占めるだけ、という話がいくつかある。
 これも、本全体の「重たい」という印象と関係があると思う。他の実話怪談の本とは違って、「これ、怪談です」「はい、怪談ですね」という作品と読者とのコミュニケーションを簡単に取らせない部分がある。
 
 あえて比べるなら、俺は前作の『蜃気楼』の方が好みではある。
 ただ、「重たさ」云々については、実はここから本題となる。
 
 まず、この「重たさ」が欠点かどうかというと、別にそうではない。
 理知的な考え。整然と並ぶ言葉。
 それと同時にある詩情。
 それが鈴木捧の作品である。これをひれ伏すように敬愛している。
 
 その特徴を突き詰めると、自然と「重く」なるだろうな、という気がする。
 実話怪談をやるには不利なほど論理を重視していて、まるで、怪異が漫然と主役を張れてしまうオーソドックスな構造を責めるかのように丁寧で。
 『エニグマをひらいて』は作家としていずれ書かれるべき内容だったと思う。そして何より、そういう作家性どうこうを抜きにして、強烈に良い作品である。
 
 「重たさ」についてもう一つ、戦略的な面から書いておく。
 きわめて単純なことで、本が理性を重んじる内容であるほど、その「理」を突き破って吹き出すことのできる怪談は凶悪であるということである。
 
 『エニグマをひらいて』の中にもそういう話がいくつかあって、特に『4-8 うつる話』が、俺は一番こわかった。背骨をなでられるような忌まわしさがあった。
 物理的に考えた幽霊の居場所、みたいなロジカルな文章のあとに、こういう話が出てくるのである。
 これは本当に幸せなことだ。
 もし化け物に襲われて、いっそ絶望を楽しむなら、何の構えもないときではなく、自分の身を守る強固で分厚い鉄板を軽々と突き破られて攻め滅ぼされたいと思っている。
 
 結局、良い実話怪談は、「重たさ」をある程度は持たなくてはならないと思う。
 どっちだよ、という感じだが、実際そうなのである。
 
 幽霊というものが、理知的に考えたらどんなにおかしいものなのか。
 それでも、もしも幽霊がいるとすれば、それはどこにいるのか。
 普遍的な自然法則で支配されたこの世界の、どこにそういう隙間が、もしくは誰も知らない広大な闇の領域があるのか。
 
 作家の中でも、そういうことばかり考えている作家が書き、そういうことばかり考えている読者が喜んで読む、それが俺の好きな実話怪談だ。
 「重たさ」は実話怪談のやりやすさという点ではベクトルがそろわないが、それは言わば二次元の平面的な考え方であって、作品に深みという三次元を与えるには欠かせない要素でもあるのだ。
 それが、作家として、この世や、怪談を語った体験者や、そして読者に対して、誠実であるということなんだと思う。
 だから俺は鈴木捧の本が好きなのである。
 

 『1-8 幽霊』について。

 『1-4 背中』でも書いたのだが、鈴木捧は、文字そのものの佇まいみたいなものに、すごく意識的な人なのではないだろうか。

 「幽霊」という文字を目で見たときに、例えば、ひらがなの「ゆうれい」や英語の「ghost」を視界に入れたときとは違う、視覚から感じるその文字固有の息づかいみたいなものがあると思う。

 『1-8 幽霊』はそういう感覚が作家自身にもあって紹介された話のような気がする。

 個々の文字が持つ字面への愛情があって、それゆえに、それが破壊されたときの恐怖、倒錯した喜びみたいなものも同時にある気がする(『5-4 ラーメ』)。

 

 そして、言葉を文章としてつなげたときの、姿勢の美しさみたいなものに対するフェティシズムっぽいところもあると思う。

 『1-4 背中』の夕焼けの描写からはすごくそれを感じる。風景を同じ意味で説明する言葉の選び方、並べ方はたくさんあるのだが、この言葉・この配置でないといけない、という美意識を感じる(実際、ここの文章は大変に美しい)。

 

 『3-2 ケンカ』について。

 作者がどの程度、そういう読者がいると予想しているかわからないが、俺は『エニグマをひらいて』の中でこの話が一番好きである。

 デパートやスーパーで、例えば従業員用の通路へのドアが開いていて殺風景な奥の様子が見えたりすると、「なんだか、見ちゃいけないものを見ちゃったな」という気持ちになる。

 階段も同じく、はなやかな店舗エリアに比べると、ちょっとヒヤッとする空間だと思う。

 そこで起きた怪異というのが素晴らしいし、目にした後の母親の言葉が、なぜかものすごく好きである。本当にわけのわからないものの前では、大人であることなど実に無力なのだが、それでも取り繕うように何か口にするところに、親であることのいじましさと強さを感じる。

 

 『5-7 真夏の夜の音楽』について。

 鈴木捧の作品が好きな理由の一つは、怪談としてはもちろんのこと、俺たちが思い出やしがらみをひきずって、ちょっと疲れながら生きていくことを鮮やかに描く、もし文芸が人生にとってこうした役割を持つなら、つまり文学として優れているからである。

 その点で、いわゆるスリップストリームの一つとしても読めると思っている。超常的な要素はあるが、そういう方法でしか描けない、生きることの何かのかたちとか、瞬間。それに成功している文芸。

 

 スリップストリーム云々を持ち出したのは、一応、鈴木捧作品未読の人に向けたPRのつもりでもあるのだが、悲しいかな、スリップストリーム自体がメジャーではないのだった。

 おそらく、このカテゴリーで誰もがピンとくる作家を一人だけ挙げるなら、村上春樹だろう。大大大…大メジャーと強引にくくったように思われるかもしれないが、個人的には、短編の印象は本当にけっこう似ていると思う(村上春樹も、少し世の中とテンポのズレた人間、もしくは周囲と歩調がズレている時期に、音楽がふと、大きな存在感を持つことを描く作家だと思う)。

 あとは、リチャード・ブローティガンとか、アンナ・カヴァンとか。ビターで、はかなく、幻想的で美しい。

 ただ、もちろん英米のこうした作家が、泊まった旅館のテレビで開頭手術の映像を観る短編を書くことはないとは思う。

 

 『5-8 二人目の彼女』について。

 話そのものも美しいが、その締め方について、実話怪談の作家としての決意を示すような話だと思う。

 「オバケ」の正体、これはもちろん重要である。

 ただ、怪異と体験者が出会い、それと作家が出会い、最後に読者がそこに加わる、こうした関係性というか縁というか、それを実話怪談と呼ぶとして、それを尊重するなら、あえてそれを暴かなくてもいい場面はあるとも思う。そういう話だと感じた。

 

 最後に、『エニグマをひらいて』は、これまでの販路とは違うかたちでマーケットに出てきた本であるようである。

 それをふまえて思ったことと、実話怪談そのものについて感じていることをあわせて書いておく。

 

 実話怪談というのは、音楽でいうとオルタナティブ的というか、要するに本屋の棚で目立つところに来ることはほとんどないカテゴリである。

 そういうジャンルにもかかわらず、もしくはだからこそなのか、俺には非常に保守的な業界に見えて、はっきり言うと、十年以上前から同じような作家が同じような話をいつまでも書いている印象がある。

 別に、トラディショナルであることをダメだと言っているわけではなく、例えば、福澤徹三・糸柳寿昭の『忌み地』とか、実話怪談のフォーマットとしてはベタだけど、新刊を読むたびに「すげえな」と思う。

 逆に言うと、他の作家のほとんどは、俺にとって、同じような、かつ、いまいちピンと来ない話ばかりずっと書いている人たちである。

 といって、アヴァンギャルドな作風であればいいわけでもない。

 ベタな怪談じゃない、というだけなら、これもいくつか作品は挙がる。ただ、そうすると今度は、「こんなの、ただの凝ったコケオドシじゃねえか」と思うことが多い。

 我ながら面倒くさい消費者である。それでも、「ああ、金を払った甲斐があった。いい『オバケ』の話を読んだ」と思える数少ない作家が、鈴木捧である。

 

 といって、鈴木捧の新しい企画を自社で立てられなかった企業を責めるつもりもない(ややこしいですね)。

 理由は二つある。一つ目は俺自身が企業人だからである。

 例えば、事業として達成するべき数字の優先順位をつけるときに、企画を通したり見直したりするシビアさをいくらかはわかるつもりでいる。

 理由のもう一つは、そもそも鈴木捧を評価して市場に持ってきた出版社を尊敬しているからである。本当に保守性にひたりきったような業界なら、とても見出せない作家だと思っている(というのが作家への誉め言葉なのか、よくわからないが)。

 

 あえて言うなら、何かを刷新したり、何か一枚の看板を負うことになる人というのは、どこかしらオルタナティブで、地力はもちろんあって、誠実な人物だと思っている。

 もし、そのジャンル自体が出版という世界での傍流であるなら、その中でなお妙なことをやっているアウトサイダーが、良いものを真面目に作り続けた先に、何か重要なことを成すのだと思う。

 一方で、当たり前だが、特定の作家に向けて、そうあれ、と強いる権利を俺は持っていない。作家の好きにしたらいいことである。

 ただ、その人のファンであるから、その人がやりたいことを続けられればいいとは思う。そういうことを考えたので書いた。この本が多くの人の手に取られることを祈っている。

 

 

今日、脳から捨てたものについて ⑯

 

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの



 

全部トんどんじゃ

 『ガキの使い』の名物企画である七変化に挑んだ際に大悟が発したセリフ。

 笑わせにかからないといけないはずの状況で一向に何もしかけてこず、妙な空気が漂い始めたときにポツリともらしたもの。

 「(緊張のせいでネタが)全部トんでいる」の意と思われる。

 

僕は何をすればいい?

 元ネタは『トリビアの泉』。

 もうだいぶ前のことだが、「野生の一匹オオカミにバウリンガル(犬のいまの気持ちを言語化できるというデバイス)を使ったら、一体なんと言っているのか?」という企画にて、オオカミが言っていたセリフ。

 このセリフのすごさもなかなかだが、個人的には、荒涼とした雪原でガイドを依頼された外国人の専門家が、結果が出る直前に「なんて言ったんだ、なんて言ったんだ」と真剣に盛り上がっていたのが印象に残っている。

 

金を盗るやつ。寝てる間に金を盗るやつ

 『極楽とんぼの吠え魂』で山本が語っていた、過去の恋人との同居時代の思い出。

 そもそもは、シャ乱Qの『ズルい女』のメロディに乗せて改変した歌詞を山本が歌うという文字通り毒にも薬にもならないコーナーがあり、そこでいきなり、相方の加藤から、「今まで出会った一番ズルい女は誰ですか!?」と唐突にふられた山本がとっさに答えたもの。

 同棲していた恋人が、山本が寝ている間に山本の財布から2万円を抜くのを見てしまった、というすさまじい話。なお、山本は恋人が眠ってから、そのうちの1万円を抜き返している。

 

カルダモン 中毒性

 …あるのかは知らないが、カレーにはとりあえず正気を失ったようにかけて食っている。美味いから。

 

西野カナ先生

 俺の学生時代の友人が西野カナに敬称をつけて呼んでいるもの。

 彼が付き合っている彼女の心情を、西野カナの楽曲経由で理解できるから…というわけでもなく、普通に尊敬しているらしい。

 なんでだよ、と思わなくもないが、どちらかと言えば俺の方が間違っている。別に、好きなものを好きになったり尊敬したりすればいいのだ。

 

ゴルディロックスゾーン

 生物が生息・繁殖できる「快適な環境」。

 広義では地球そのもの。狭義では個々の生命ごとに存在するとも言え、深海の熱水噴出孔だろうと、一部の生き物にとっては快適な場所である。

 

知れてるか

 二回目。『いろはに千鳥』でノブが発した言葉。

 ロケで訪れた先の定食屋のメニューにカレーを見つけた際のセリフであり、「(こういう店のカレーっていうのはどんなものだろう。たかが)知れてるか」の意と思われる。

 

どこかに行ってしまいました

 『極楽とんぼの吠え魂』で加藤が発したセリフ。

 元ネタは品がないので省くが、ある出来事にショックを受けた(と加藤が勝手に言っているだけで、おそらくは無関係)山本が生放送のスタジオに現れなかったことによる。

 

以上