雨脚について

 地形がそうなっているのかわからないが、俺の家は雨脚がよく聴こえる家だ。

 雨脚がよく聴こえると言うのは、雨の音が単に目立つということではなく、降っている雨がいくらか急に強くなり、聴いている側が注意を向けて耳を澄ませてみると、また弱くなっていく、その様子がはっきりとわかるということである。

 脚、とはよく言ったもので、どこからか近づいてくるように雨が音を強くしていき、やがて去っていくようにして弱くなる様子は、『もののけ姫』かなんかのジブリの映画に登場するような、脚がたくさんあって、それをざわざわ蠢かせながら歩きすぎていく、巨大で半透明な神の姿をイメージさせる。

 そういう得体の知れない、地上にわずかな関心もない大きな存在が、遠くからやってきて辺りの家々の屋根を無数の触手でひたひた叩きながら歩き去っていく。そういう音に思えて、まさに雨「脚」だなあ、と考えながら聞いている。

血の雨降れどもまだ降り足りぬ。『イクサガミ 地』の感想について

はじめに

 幕末の混沌を残しつつも、その残響は確実に消えていく明治初期が舞台となる、滅びゆく剣客たちの点取道中デスゲーム第二巻(前巻の感想はこちら)。

 

 前巻に引き続き、めちゃくちゃ面白かった。

 対決に次ぐ対決。一対一、一対多、多対多。

 斬撃、銃声、血しぶき。

 剣技と忍術、正統と邪道が入り混じり、すべての勝負が面白い。

 

 直接の殺し合いだけではなく、道中で集まる点数をめぐる駆け引きもあり、それゆえに、打算抜きの覚悟や人情がさらにまぶしい。

 デスゲームの盤外も緊張感を増し、参加者以外の強者も参戦、因縁も錯綜し、なかなか一本道では終わらない。

 また、江戸〜明治特有や空気感や当時の風俗に関する描写も前巻以上に丁寧に書かれており、没入感がハンパない。最高の第二巻だった。

 

 以下、特によかったところを書く。ネタバレ注意。


仏生寺弥助登場

 前巻『天』で衝撃の展開で引きになった『イクサガミ』は、なんだかわからんやつのエピソードから再開する。

 なんだかわからんのに面白いのは、これが「時代劇×ちょっとした異能」という、あんまり見かけないけど一緒に食べたらマジで美味しいですよ、という組み合わせだからで、俺は「(無理のない範囲で)いいぞ、もっとやれ」と思う。

 さて、この仏生寺弥助のエピソード、「こんなやべーやつもゲームに参加してますよ」という導入なのかと思ったら、読み進めても、本編になんの関係があるのかよくわからない。

 そして、なんと最後までなんだかわからないのである。まあ、結局つながりはよくわかんないけど、面白いからヨシ! とは思う。

 

義兄弟チーム 対 岡部幻刀斎

 『イクサガミ』は点数を奪いあう勝負であると同時に、主人公の剣客・嵯峨愁二郎と義兄弟たちが秘奥義の継承をめぐって殺し合う勝負でもあり、実はデスゲームの入れ子構造になっている。

 かつて、仲の良かった兄弟同士の殺し合いを嫌って修行から脱走した愁二郎は、混乱を生んだとして、他の兄弟たちにかえって憎まれてしまっている。また、愁二郎がもたらしたものは他にもあり、それが、脱走者が出た場合に兄弟全員を始末するべく発動するキラー、謎の剣士・岡部幻刀斎である。

 前巻の時点で、ゲームの参加者の中に別格に強いヤバ爺がいて猛威を振るっていたが、今巻でこのジイさんこそ幻刀斎であることが確定する。『地』では兄弟たちと幻刀斎がついに接敵する。


 義兄弟チーム 対 幻刀斎の対決は熱い展開の欲張りセットのようなもので、とてもよかった。

・過去の脱走をめぐって遺恨のある兄弟の次男・愁二郎と四男・化野四蔵が、超強敵の幻刀斎を倒すために一時共闘。

・…からの、ジジイ強すぎて兄弟二人相手に優勢。

・ジジイ、ターゲットを別の兄弟に移す。今度は森の中で、忍術を得意とする三男・三助と幻刀斎が激突。そして…。

 とにかく、敵も味方もみんな素晴らしかった。

 

真・双葉無双

 『イクサガミ』の特徴として、デスゲームものに珍しく、有力なプレイヤーのほとんどが話の通じるヤツだったり善人であることが挙げられる。

 だからこそ、幻刀斎や貫地谷無骨のような悪党の魅力も際立つのだが、とにかく、点数さえもらえれば相手を殺すまではしないとか、恩のあるプレイヤーとは点数を分け合うとか、けっこう「義」が目立つ場面が多い。

 そうなると独自の強さを発揮するのが主人公の保護する子ども・香月双葉で、無邪気で異様に高い善性を備えているため、これが強さと人情を兼ね備えるライバル、さらにはドライな合理性のみを是とするはずの運営サイドの一部まで魅了し、デスゲームに大きな波乱を起こしている。

 『地』における双葉の最大の見せ場は、中盤にて、明らかに不合理な選択で別のプレイヤーを救う場面だと思う。そして、このプレイヤーによって愁二郎は終盤の危機を脱するため、双葉がいなければ愁二郎は退場していたかもしれない。

 

黒札

 殺し合いを加速させるために運営が仕かけたギミックであり、一枚で大量の得点が得られるメリットと、所持者の居場所が他のプレイヤーに通知されるという強烈なデメリットを持つ。

 『地』でこの黒札を入手した(してしまった)のは誰かいうと…こう来たか、という感じ。

 なお、黒札が手渡された瞬間の運営側とプレイヤーとのやり取りも見どころ。開催者からの「なんか違和感はあるけど、いまいち意図がわからないメッセージ」に対して、頭脳派二人が即座に反応して警戒モードに入るところがいい。 

 ちなみに、もう少し先のチェックポイントまで進むと黒札の点数を配分できるらしい。そこからの展開も注目。

 

 『カイジ』の「優しいおじさん」といい、匿名のユニフォーム集団の誰かが一瞬個性を出す展開はいいものだ。

 

奥義

 剣技というより、身体能力にバフをかけるタイプの技術。愁二郎たちは一人に一つ与えられたそれぞれの奥義を兄弟同士で奪いあい、最後の一人が総取りすることになっていた。

 愁二郎は、自分たち兄弟は、実はどの奥義もすでに使える状態なのではないか、と推測している。本当は修得済みであり、あとは継承の手続で暗示のロックを外すだけ、というのはけっこうすごい発想だと思う。

 今巻でも奥義の継承は発生したが、その描写を見ると、必ずしも一方通行ではなく、互いの奥義を交換もできるのでは、という気がする。もしかすると、いま生き残っている兄弟同士で協力して、全員を一時的に奥義全部持ちにすることもできるのでは?

 

生き残り予想

 現時点で生き残っている有力なプレイヤーは以下のとおり。

 

・嵯峨愁二郎(主人公)

・香月双葉(主人公その2)

・柘植響陣(関西弁の相棒、と書くと、某ガンアクション漫画のファンとしては「じゃあ、死にますね…」と思ってしまう)

・狭山進次郎(こういうキャラクターの見せ方に作家の技量が出る気がする)

・化野四蔵(兄弟四男。個人的にはかなり太い死亡フラグ…だと思っていたのだが)

・蹴上甚六(兄弟六男)

・衣笠彩八(兄弟長女)

・カムイコチャ(弓使い)

・秋津楓(薙刀使い)

・ギルバート・カペル・コールマン(イギリス軍人。短いけど泣けるエピソードの持ち主)

・貫地谷無骨(悪役その1。フットワーク◎。しゃべりが立ち、やるときはやるヤツであり、窮地には奥の手を見せるという、善悪反転したら普通に主人公みたいな人)

・岡部幻刀斎(悪役その2。強ジジイ好きという一部オタクの嗜好をくすぐるジジイ)

 

 この12人の中から9人が生き残る…ということなのだが、

 

 あれ?

 

もう、『イクサガミ 世界編(全10巻)』しかないのでは?

※ ここから超ネタバレです。未読の方はバック推奨

 

 『イクサガミ 天・地』まで来て、「…おお、こいつが脱落するか」というキャラクターは二人、『天』の菊臣右京と、『地』の祇園三助である。

 ところが、強力なプレイヤーはまだまだいるし、『地』では秋津楓とギルバートも登場した。つまり、残り1巻なのに、キャラクターはそこまで減っていない…というか、増えてしまっているくらいである。

 ゲームから生還できるのは最大9人と決められているため、上記の12人から少なくとも3人が脱落するわけだが、最終巻となる『イクサガミ 人(仮称)』がどれだけボリュームがあろうと、3人の退場を描くだけの余裕があるのだろうか?

 

 本当にあと一冊で収まるのか、という勝手な心配をいったん脇に置いて、生還者を予想してみたいのだが、『地』の最後で波乱が起きたため、かなり難しくなった。兄弟一番の実力者である四蔵が(たぶん)生還を決めてしまったのである。

 これがなんで波乱かというと、兄弟の中で最も強い人物という位置づけは、オタク目線でメタ的に見れば強力な死亡フラグだからである。四蔵を除いて退場者を予想してください、というのはかなり悩ましいのである。

 

 で、個人的には ① 兄弟の誰かで甚六か彩八のどちらか ② 響陣 ③ 幻刀斎かなあ…と思っている。

 無骨と幻刀斎の悪役二人と誰か、という組み合わせも考えたが、無骨はなんとなく生きてゴールに着くのではないか、という気もする。

 ただ、それは物語の最後まで無骨が生存するという意味ではなく、「9人ゴールしたあとのその先」というきわめて不穏な展開が示唆されているからである。無骨に罰が下るとしたら、そのときでは、と思う。

 

 というか、そうなんである。『イクサガミ 人(仮称)』で描く必要があるのは12人⇒9人の戦いだけではないのだ。

 そこから先のエクストラステージの全貌も明らかにした上でそれも決着させ、デスゲームと並行して起きている警視局クーデターにも終止符を打たなくてはならない。さらに、仏生寺弥助の遺した忌み子・天明刀弥(?)にいたっては本編に登場してさえいないため、このストーリーも回収しなくてはいけない。

 

 これが、あと一冊で終わるだろうか?

 俺は無理だと思う。公式が三部作と言おうが、もう一冊では終わらんと思う。

 そして、終わらなくても別に構わない。あと二冊でも三冊でも、『イクサガミ 甲乙丙』でも世界編でもやってくれたらいい。

 とにかく、そのくらい面白いんだから構わない。作者のtwitterによれば、今年中には『人(仮称)』が出るそうだ。楽しみにしている。

 

 

 

今日、脳から捨てたものについて ⑮

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

あれなんだったんだろうね? 気持ち悪いねあれ

 『バナナマンのバナナムーン』における日村の発言より。

 番組における罰ゲーム企画にて、流れている楽曲のいいところで合いの手を入れるようにオナラをすべし、という「カラオ屁」に挑んだ際のもの。

 日村だけでは心もとないため、マネージャーと構成作家の三人で挑戦したが、結局、誰もオナラを出すことはできなかった。

 途中、マネージャーが「出た」と申告し、日村と構成作家にも何か聴こえたらしく「出た! 出た!」と騒いだものの、録音を確認したところ何の音も録れていなかった。では一体、自分たちが聞いたものは何だったのか? となって日村が発した言葉。

 

ちんすこう 美味すぎる

 名物に旨い物なし、という都会人のエゴ丸出しの言葉があるが、ちんすこうに限っては当てはまらず、お土産でもらうたびに「美味いなあ」と思っている。

 

眼の周辺 血流

 ◯◯歳を過ぎると体の衰えが急に来る、という言説には30歳、32歳、35歳など様々なものがあるが、俺はというと、35を超えても何も起こらなかった。

 「もしかすると自分はすさまじく恵まれているか、あるいはすでに死んでいるのでは?」と思っていたところ、先日、一切まったく何の前触れもなく目元がダルダルになってきた。潔く受け入れればいいものの、とりあえず揉んだりしてみている。

 

ホットブラッド

 「サウナで『整う』現象の正体は、温められて大量の酸素を含んだ血液(ホットブラッド)が脳や体をめぐるからで、これは大きな負荷がかかっており危険である」という旨のツイートを見た。

 へえ~と思って「ホットブラッド サウナ」でググったが、何も出てこない。

 そうなると、ホットブラッドという言葉、さらに連鎖して、整う現象への説明までなんだか怪しくなり(正しいのかもしれないけど)、整うとはなんなのか、結局いまだによくわからない。

 

あっ。遠藤だ。

 『相席食堂』における大悟の発言より。

 その日の企画は、遠藤さんという害獣ハンターとともにスギちゃんが山に鹿を撃ちにいくというものだった。

 結局、発砲許可が下りている時間中には鹿を見つけることができなかったのだが、タイムリミットを過ぎた直後に鹿が登場したため、「遠藤氏は鹿にバカにされているのでは?」という流れになり、大悟が鹿のセリフをアテレコして発した言葉。

 

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

 ネタバレ。

 

アラスカのヤーツ

 好きな芸人はたくさんいるが、この人の才能が欲しかった、という人の筆頭は岩井だ。

 

 以上。

花について ①(2023/5/15~)

はじめに

 

 一番背が高くて葉が枯れかけているのが桜。

 赤いのはガーベラ。

 ガーベラの左隣の花の首が落ちているのがシャクヤク

 一番左はよくわからない。

 

なぜ花を

 桜の枝を一本買ったのが3月ごろで、理由は机に向かうきっかけが欲しかったのである。

 座って作業をしていて、集中が切れてきたら花を見て、また作業にもどる…。そういう光景を夢見ていた。

 実際は、まあ、できたりできなかったりした。

 

 桜はやがてピンク色に咲き、花が散って燃えるような緑の葉を茂らせた。しかし、いまは葉が茶色くなってくるくるに巻き、あまり良くない感じである。次の芽が出ている枝もあるが…。

 養分を与えすぎることによる肥料焼けと呼ばれる症状があるらしい。特徴として、葉が先の方から茶色くしおれてくるらしく、それなのかもしれない。

 俺は栄養の適量もわからないで、いい加減に栄養剤を水に溶いたものに花を挿している。今回は少し濃度を薄めてみた。これで葉の生気がもどるとよいのだが…。

 

 ガーベラをいったん飛ばしてシャクヤクである。なぜ花の首が落ちているかというと、花が咲かなかったからである。

 これも栄養の与えすぎが悪影響した可能性がある。

 買うときに花屋の方から、「養分が豊富すぎると蜜が出て、花弁が固まって咲かないことがあるから気をつけてください」と言われていた。そんなことがあるもんかな、と思っていた。

 そしたら、本当に咲かなかった。どうも、書いているうちに自分がロクにものを知らない、命に触れる資格のない人間に思えてきたが、確かに、いくらかそうなのだろう。

 とりあえず、栄養の与え方は見直すつもりでいる。

 

 一番左の花は正体がよくわからない。得体が知れないのは珍しいからでもなんでもなく、単に俺が花をよく知らないだけだろう。

 これは、他の花を買ったときに一緒に入ってきた緑色ばっかりの植物で、なんだろうな? と思っているうちに白い小さな花が群れて固まって咲いた。

 買ったときに添えられていた意味は、もっと鮮やかな他の花のにぎやかしなのだと思う。別に、いまでもすごく目を引くとは思わない。

 ただ、真っ赤っ赤なガーベラを見ていて、ずっと眺めているとその鮮烈さに気疲れし、気づくと白いぽわぽわしたしょうもない花の方を見ている、ということがある。

 

 最後に赤いガーベラである。大きさの異なる花弁が、中央から同心円状に重なっていて、「馬鹿馬鹿しい手が込んでるな」と見ていて思う。

 幾何学模様みたいで、自然物にはどうも見えない。工芸品のようだが、そう思って見ると、今度は「人間にこんなものが作れるわけないな」と感じる。

 ずっと眺め続けていると、自分が何を見ているのかわからなくなる。ただ、とにかく赤い。複雑で、強烈に赤いものを見ている。

 

花は

 すでにどこかで、おそらく言われていると思うが、花をいくつかまとめるのはポケモンの構成を考えたり、RPGのパーティを組むのに似ている。

 どうしても、個々の役割のようなものを与えたくなるし、できるだけ偏重を避けたくなる。どれだけ豪華になっても、一つの花瓶の中にガーベラが2輪あったらやりすぎだと思う。

 …と同時に、この中に真っ青なガーベラを加えてみたいな、とも思う。どうなるかな、という気持ちになる。みんな、そんなことが楽しいんだろうな、となんとなく思っている。

少年マンガ × 『タ◯◯◯◯◯◯』。『オオカミ狩り』の感想について

 

はじめに

 「監獄船内バトルロイヤル」という触れ込みで本作の前評判を耳にし、アジアの暴力映画が好きなのもあって、観に行った。

 とても面白かったので、あらすじからオチまで感想を書く。

 ただ、紹介にけっこう気をつかう作品である。だから、ネタバレは後半に回す。

 

 とりあえず言えること。

 映画を観ていて「こうなるとは全然思ってなかったけど、それはそれで面白い」という経験をしたことがある人は、きっと、『オオカミ狩り』は色々調べない方が楽しめると思う。

 公式のティザー映像でも情報が多いぐらいである。気になったら何も考えずに行った方がいいと思う。

 

簡単なあらすじ(ここはネタバレなし)

 フィリピンで逮捕された韓国の凶悪犯数十名が、船で本国に送還されることになる。

 監視する刑事たちが拳銃で装備しているのに対し、囚人たちは手錠で壁につながれ、食事を摂るのも不自由する状態。しかし、船内には実は、ギャング側の人物が潜んでおり、仲間たちを解放するための工作を始めていた。

 内通者は船のセキュリティを破壊し、密かに持ち込んだ重火器の封を切る。同時に、囚人たちの中でも別格の存在感と危険性を示す男(役名はパク・ジョンドゥ)が、口の中に仕込んでいた針金で自分の手錠を外す。

 

観るべき人、気をつけた方がいいところ

 海上の密室と化した船にイカれた悪党が捕まっているなら、その手錠は物語的には当然外れるのであって、囚人組対刑事組の船内戦争が始まる。

 

 まず、暴力描写が苦手な人は絶対NGだと思う。

 人を刃物で刺す、銃で撃つ、鈍器でぶん殴る…が延々と最後まで続くし、血もビュービュー、バシャバシャ出る。

 あと、直接ではないが性暴力が匂わされる場面があるし、キャラクターがそういう発言をすること自体、不快な人もいると思うので、その場合も止めた方がいいと思う。

 

 めちゃくちゃ苛烈なバイオレンスが荒れ狂う一方で、「それなりに耐性のある観客でも、これ以上はキツい」となる一線は超えていない印象もある。製作側も、そこは気をつけて描写しているような気がする。

 暴力描写で観ていてつらいケースとして、傷ついた側が痛みで長く苦しみ、それに感情移入してしまう場合がある。

 『オオカミ狩り』はその点で言うと、攻撃を食らった側は基本的に即死することが多く、苦痛でのたうち回ることもなく死ぬので、被害者の苦しみとか悲しみはそれほど感じない(例外は、パク・ジョンドゥがナイフを相手にゆっくり突き刺していく、すごく印象的な一場面ぐらい)。

 また、仮にじわじわ殺される場合でも、「あ、次の瞬間には、映ってるこのキャラ死んでるな」というタイミングでカメラが巧みにずらされることが多い(キャラクター本人は死んでいるが)。

 その他、すごく生々しい話で申し訳ないが、攻撃された肉体が嫌な感じに変形したり、体の断面が見えたり、内臓が出たり、みたいなこともない。だから、生理的な不快感ではギリギリのところにとどまっていると思う。

 

 ただ、逆に言えば、「暴力慣れしてる観客でもキツい、ギリギリのところまでは描かれる。

 最近観た中で、バイオレンスの水準やノリとして近いのは『哭悲』。攻撃の容赦のなさではいい勝負。グロ描写では『哭悲』の方がキツかった。

 しかし、例えば血液の質感について、『哭悲』がただの赤い色水とかゼリーのように見えたのに対し、『オオカミ狩り』の方は実際の血に相当近く作られており、生々しい(あんなに大量に見たことないから知らないが)。そういう理由で、結局、「暴力・グロ苦手でも楽しめるよ!」というわけではまったくない。

 全然関係ないが、俺は映画でバイオレンスを見ると笑ってしまうことがあって、『オオカミ狩り』は観ながらずっと笑っていた。席で隣にいた人は非常に気味悪かったと思う。

 

 そして、「おお、そう来るか…」という映画である。

 楽しくなくなるため、あまり詳しく書かないが、エンディングの予想がほぼ不可能なタイプの作品である。

 だから、途中で訪れる大きな変調に、「まあ、これからもハラハラさせてくれたらなんでもいいよ!」と付き合えるかが大事。そういう楽しみ方ができれば、あとはエンジョイするだけだと思う。

 

ネタバレ兼キャラクター紹介

 超ネタバレ注意。

 未見の方は、映画のあとで再びお会いしましょう。

 

 

 

 

 

 

パク・ジョンドゥ(演:ソ・イングク

 主人公…と見せかけて違うけど、間違いなく今作のMVP。

 囚人組でもっともヤバい男であり、その鮮烈な印象をひたすら、ひたすらに観客に焼き付けたのち、その死によって『オオカミ狩り』の本当の開戦のゴングを鳴らすキャラクター。

 色白で線の細い俳優さんに、首筋と下半身までタトゥーを入れて筋肉をつけさせたら、同じことを強面がやるよりもずっと不穏な人物になった、という素晴らしいキャラ設計。

 

 『オオカミ狩り』には作品における開戦のゴングが3回あると思う。

 序盤、壁につながれていたジョンドゥが隠し持った針金で手錠を外すときの「カキン」という音。

 中盤、船底から復活した怪人(後述)がジョンドゥの銃撃を歯牙にもかけず、彼を完膚なきまでに圧倒し、絶望に染まったジョンドゥが発する怒号。

 終盤手前、船への突入を命じられたオ・デウン(後述)が怒りで金属板を破壊したときの音。

 うち二つが、ジョンドゥに関係する。いいキャラクターは、そいつが物語のスイッチを入れたときと退場するときの2回、ストーリーを大きく動かす。

 

イ・ダヨン(演:チョン・ソミン)

 刑事組。

 責任感◎。機動力◎。

 

 『オオカミ狩り』のいいところの一つは、暴力の色々なパターンを各陣営に代表させている点だと思う。

 容赦がなく、脈絡がなくて先が読めないアウトローたちの暴力。

 法治という制限を受けるが、一度発動するとアウトローたちより洗練され統率されている警察の暴力。

 そして、完全に制御不能で対処不可能なモンスターの暴力。

 ダヨンには、基礎的な身体能力や武器の扱いではギャングたちを上回る警察の特徴がうまく表れていた。

 ちなみに、『オオカミ狩り』がもう必要なくなったキャラクターには1mmも手加減がないことを表す人物でもある。というか、重要人物を消すことで次のフェーズに進んだ合図にしている、と言うべきか。

 

イ・ソグ(演:パク・ホサン)

 刑事組班長

 

 「この船は三日間海の上だ!(逃げ場のない密室だ)」

 「相手の人権など知ったことではない!」

 …という序盤の発言が、見事に返し矢(そのまんま自分たちに返ってくることの意)になっていて笑ってしまう。

 警戒が甘かったせいで船内に地獄を招いた無能上司…と思いきや、責任感と人情にあふれた人物。

 歯が異常に強い。

 

医師と初老の犯罪者

 コメディリリーフでありつつ、怪人の正体はなんなんだよ、というヒントを示す役割もあり、設定として無駄がない。

 無駄がないと言えば、「ここからはシリアス一辺倒でエンディングだから、もうコメディ担当は要らないね」となれば処理されるのが『オオカミ狩り』クォリティ(古いな)。

 

怪人・アルファ(演:チェ・グィファ)

 中盤以降の主役。脳外科手術であれこれして、オオカミの遺伝子をなんかしたので常人の5倍強い(どう考えても5倍では済まない気がする…)。

 

 怪人・アルファの素晴らしいところは、最初に出てから本格的に始動するまでの存在感の残し方だと思う。

 物語の序盤、休眠状態で出てきたとき、「なんか変なやつが船底に積まれてるぞ?」というのが観客に向けて描かれる。

 ただ、この時点では、正体がいい具合によくわからない。そのため、こいつが中盤〜終盤にかけてのメインキャラクターであり、この怪人の登場によって物語中の攻撃力がインフレするので「重火器で装備してようが普通に死にます。『オオカミ狩り』はギャング対刑事の抗争じゃなくて、人間対怪物のモンスターパニックムービーです」になるとは想像しにくい。

 ただ、予告編を観ていたら推測がつく人もいるかも。俺が、ティザー映像も公式サイトも観ない方がいいと思うのはこれが理由である。何も知らずに観た方が面白いと思う。

 

 怪人・アルファがジョンドゥに上げさせる絶望の声が『オオカミ狩り』2回目のゴングである。しかし、その直前、上のフロアから明らかに異様な着地音とともに、ギャングたちと刑事たちがにらみ合っているところに乱入する場面からして、すごく良い。

 「…え? 何こいつ?」

 ギャングも刑事たちも(そして観客も)、誰も状況を理解できないでいたら、怪人の近くにいた人間が殴られて、「あれ、なんか、軽く殴られただけなのにメチャクチャぶっ飛んで即死したんですけど…」という衝撃がすごくいい。

 観客は映画の序盤からここまで、解放された犯罪者たちが装備の性能と不意打ちで刑事たちを圧倒するからこそ、ドキドキしたのだ。刑事チームがそこから体制を立て直すのはいいが、戦況が完全に拮抗してしまっては、面白くもなんともない。

 どうせ新しい波乱が起こるなら、秒で起こった方がいい。だから即起きる。『オオカミ狩り』は無駄がない。

 

 というわけで、『オオカミ狩り』におけるターミネーター、もしくはT-REXが怪人・アルファである。

 ちなみに、映画におけるモンスターの多くは、ある宿命を背負う。それは、ターミネーターに対するT-1000、T-REXに対するスピノサウルスのように、続編にはもっと強力な同種が登場し、対決を迫られることである。

 そういうわけなので、怪人・アルファにも同族のライバルが現れるが、『オオカミ狩り』はそれを一作品の中でやってしまうのだった。

 

オ・デウン(演:ソン・ドンイル)

 監獄船運航管理 ⇒ 海洋特殊救助団チーム長。

 陸上から監獄船を見ている管制室にて、職員全員パリッとした服装なのに、この人だけいい加減な格好で登場するいい加減な上司。

 緊急事態となって意見を奏上した部下に「お前の見解など聞いてない!」と言ったあと、「どうにかしろ!」と続けて言うなど、お前は指揮をしたいのかしたくないのかどっちなんだよ、という人。

 無能上司と思いきや、実は有能…ということもなく、不要な人死にをたくさん出しているし、あの勤務態度なので(おそらく)部下にも嫌われているため、ホンモノの無能上司。

 しかし、『オオカミ狩り』の良いところは、このポンコツがこのあと乗船し、直接の戦闘描写がある中ではたぶん、一番強いのが判明するところである。イ・ドイル(後述)に余計な舐めプをしたために逆転されてしまったが、それさえなければ勝っていたと思う。

 

 船上への突入を命じられたデウンが近くにあった金属を怒りでぶん殴り、穴を空けたとき、「おいおい、コイツもアルファと同じ怪物なのか」となって、『オオカミ狩り』の最後のゴングが鳴る。

 この展開は、ジャンプのような少年マンガをイメージさせる。スーパーサイヤ人も念能力も卍解も、誰かが身に着けた特殊な能力は、次の章ではどれも、すべてのキャラクターの標準装備になる。

 そういうわけなので、怪人・アルファが最初に示した超人能力は、デウンをはじめ、他のキャラクターにも展開されることになる。そして、『オオカミ狩り』のすごいところは、それを一作品の中でやってしまうところである。

 

超人部隊

 怪人・アルファ、デウンと同じ超人技術を搭載した大勢の戦闘員たち。

 登場時の彼らのたたずまいが良い。軍人特有の(と言っても実物はしらないが)、これまでの経験や注意点が一般人とあまりに違うため、得体の知れない余裕があるというか、なんか話が通じない雰囲気が漂う、その感じがすごくよかった。

 それだけに、アルファとドイルにほぼ全滅させられてしまったのは残念である。

 上で書いたとおり、『オオカミ狩り』では「ギャング」「刑事」「モンスター」と色んな種類のバイオレンスが見られる。ここで超人部隊が、統率された怪物たちという新しい暴力を見せてくれるとよかったんだけど、そうはならなかった。

 

イ・ドイル(演:チャン・ドンユン)

 主人公(たぶん)。おそらく唯一の生存者であり、超人技術のイレギュラー。

 彼については最初からうまく伏線が張られており、観客にも少しずつ違和感が増してきたところで正体が明かされるのが上手い。

 登場人物がひと通り退場したのち、その背景が明らかになり、『オオカミ狩り』の最後を自身の復讐劇として締めくくる…んだけど、ジョンドゥや怪人・アルファによる大暴れの影響を受け、メインキャラクターとしての持ち時間が短くなり、存在感が足りない印象はある。

 超人技術のための人体実験で拒絶反応が出たときの演技はすごくよくて、いい役者さんだと思う。続編に期待。

 

続編あんの?

 適当に書いた。実際は、できないような気もする。

 諸悪の根源? が無傷で生きているし、ドイルにとっても因縁が残っているので、やろうと思えばできるだろう。

 ただ、最初は「ギャング対刑事の密室抗争」として始まった作品が、「実は人間対モンスターのパニックアクション」 ⇒ 「いやいや、本当は家族を奪われた男の復讐劇」という二転三転が『オオカミ狩り』の面白さだったわけで、その続編となると普通のアクションやノワールでは認められないだろうし、ちょっと予想ができない。

 

 まあ、でもあったら観に行くと思う。それぐらい面白かったので。

 

 以上。

あまりにも扇情的な傑作。映画版『BLUE GIANT』の感想について

 



扇情的

 良いのと悪いのと二つの意味を含めて「扇情的」と言いたい。

 一つは、音響によって観客の心と体をゆすぶる、とても官能的な作品であるということ。

 原作のストーリーの良さをまったく損なわない、素晴らしく編集された映画版だが、それでも、主役は物語ではなく圧倒的に音楽だった。そのくらい、言葉にならないぐらい良かった。本当に凄い楽曲群だった。

 もう一つは、過剰に観客の感動を誘おうとしていて、はっきり言ってポルノすれすれであるということ。

 映画版『BLUE GIANT』は、観ている側の感情のツマミに遠慮なく手を伸ばして、スイッチをオンオフするような作品だと思う。強烈に気持ちが動かされる一方、どこか観客を操作しようとしているというか、「創作工学」みたいな言葉も浮かぶ。

 念のため言っておくと、創作物は例外なく、触れた者を操ろうしている。俺が主張したいのは、そのやり方にも品性というか、つつましさみたいなものがあるべき、という話である。

 あと、とにかく、登場人物がよく泣く。

 映画作品のうちで何度もキャラクターに涙を流させるのは、法律で固く禁じられている。これは俺が定めた法律である。理由は、歳を取ると、スクリーンで誰かが泣いていたら自分も泣くからである。

 俺はこんなに常に誰か泣いている映画を以前に観たことがない。冗談抜きで、5分に1回以上のペースで誰か泣いている。

 何か達成したときであったり、挫折したときであったり、とにかく感極まってしまったときであったり…。ほとんどみんな泣いている。

 そして、俺も観ていて泣く。これは反則である。一応言っておくが、本来の悪い意味で反則である。

 

 そういうことで、映画版『BLUE GIANT』はポルノまがいの怪作と紙一重である。誰に何と言われようとはっきりそう思っている。

 そして、文句のつけようもなく、ものすごい傑作である。原作ファンでまだ観ていない人は、絶対に観た方がいいし、そうでない人にもおすすめする。本当に素晴らしい体験ができた。

 

あらすじ

 物語は、世界一のサックスプレイヤーになることを目指す18歳、宮本大が東京に上京したところから始まる。そして、大が組んだトリオによる、日本ジャズ界の聖地・So Blueでの演奏で終わる。

 明確な起承転結あり、原作から漏らしたところのほとんどない、素晴らしいストーリー展開。原作ファンはみんな、「あ、このエピソードをちゃんと描くのか」と思ったんじゃないだろうか。

 『BLUE GIANT』という作品のすごいところは、大という圧倒的な輝きを放つ青色巨星が主人公として存在する一方で、周囲の人物たちの葛藤や人生をものすごく丁寧に描く群像劇でもあるところである。そういうわけで、雪祈と豆腐屋とか、玉田とそのファンになった男性とか、大切な挿話も細かいセリフもちゃんと拾われている。

 2時間にこれらをまとめたのは、ものすごい編集の力だと思う。こうして構成された「大とその周囲の人々」という世界観が、エンディングの感動(嫌な言葉ですね)に大きな役割を果たす。

 あえて、原作にあったアレも映画で観たかったな~というものを挙げると、玉田が大と雪祈の前でソロを練習した成果を見せる場面だろうか。玉田の演奏を聴く二人の表情が少しずつ変わっていくのが好きなシーンだった(っていうか、玉田に関わるエピソード全般が好き)。

 

 ちなみに映画の冒頭は、まだ何者でもない大が、雪の中でサックスを練習していて、一匹の猫と遭遇するシーンで始まる。俺は原作でもあの場面が本当に好きで、大のすごさ、孤独と共感が両立する最高のエピソードだと思うので、大事なオープニングに選ばれたのはうれしかった。

 

具体的な感想

 以下、もう少しストーリーに触れながら感想を書く。

 二重の意味でネタバレになる。原作を知らない人だけでなく、原作ファンにとってもネタバレである。なんでかというと、最終盤の展開が原作と違っていて、そのことを書くからである(こう書くこと自体がもうネタバレだが)。

 あのエンディングには賛否があると思うけど、俺は良いと思った。

 そういうわけで、詳しく書いていくが、その前にある点でも話題になっている作品でもあるため、先にそっちに触れておく。

 

CG

 演奏シーンのCGがだいぶひどい、という理由で世間をにぎわせており、「どんなもんだろう」と思っていたら、確かにひどかった。

 これは擁護のしようがなく、サックスを吹く大の動きは捕まってあばれるエビみたいだったし、雪祈はキャラクターのディテールがつぶれてマネキンのようだった(玉田が一番マシに見えたな、俺は)。

 ただ、CGでないアニメーションで描かれる部分も多かったし、幻想的なビジュアルで演出している部分も多く(こっちはすごくカッコいい)、CGの出来は作品の印象にまったく影響ない。

 要するに、絵づらで多少失点しようと、そんなもの意に介さず吹き飛ばすくらいの魅力がある内容になっている。たぶん、多くの人もそう感じたと思う。

 

具体的な感想。雪祈について(注:ネタバレしかない)

 超絶技術の持ち主で、ハンサムで傲慢で繊細な、大と同じ18歳のピアニスト。

 『BLUE GIANT』映画版は、ある意味で雪祈の作品である。主人公の大も他のキャラも、みんな良かったけど、それでも、雪祈に注目することを求める構成だったと思う。

 

 原作ファンとして、「あ、雪祈ってこういうやつだったのか」とあらためて思ったのは、雪祈がはじめて大のプレイングを聴いたときの場面である。

 初登場時から合理性と傲慢さ(そして、そういう姿勢を認めさせる才能)を鮮やかに印象づけた雪祈。その雪祈が、サックスを始めてまだ3年だという大の演奏をはじめて聴いて、涙を流す。

 雪祈の計算高さや冷たさはその後、何度も描かれるんだけど、それでも彼は相手の努力に敬意を払い、そこに込められた情熱と、費やされた膨大な時間を敬える人間なのだ。

 

 クラブ・So Blueの平から、技術を誇るような自分のプレイングをコテンパンに評されたとき、多くの読者にとって印象的だったのは、一人になった雪祈がつぶやいた「あの人、いい人だな」という言葉だったと思う。

 これは、なかなか言えない。特に、雪祈ほど優秀なら、なおさら言えない。傲慢さと謙虚さ、他人への冷たさと優しさ、自己批判が入り混じったのが雪祈なのだ。

 ちなみに、この傲慢さと〜云々は、別のもう一人の人物にも当てはまる。主人公・大である。雪祈と大は、多くの面を、しかしまったく違ったかたちで共有していると思う。

 

 はじめて大のプレイングを見たとき、もしかすると雪祈は、感動と同時に恐怖を覚えたかもしれない。

 恐怖が言い過ぎなら、「敵わない」という圧倒的な格のようなものを、かすかに意識したような気する。この点はこのあとで書く。

 

 トラックの事故は、映画版でもやりすぎだったかなあ…と思う。俺は原作のときも、ストーリー上の展開という点で批判したけど、映画版については「あまりに扇状的」という点で、やっぱり批判したい。

 事故の描写が良くも悪くもリアルすぎる。たぶん、実際の事故もああいう感じで、ちょっと目を離した隙にすさまじい暴力が無音でやってきて、最後の一瞬だけ写真を投げ込むように時間が止まって、即座にすべてを無機質に押し潰していくのだろう。

 ああいうものを見せられたら(それも、これまでの熱いドラマのあとに)、観客の感情はぐちゃぐちゃになってしまう。これは人の心の中に手を入れてかき回すようなもので、映画ってそれでいいのか? と思う。

 思うけど、でも、いいのか。何しろ、そこから先はもう、感動するしかないのだから。よくわからない。

 

最後の演奏

 原作では、So Blueでの演奏は大と玉田二人だけのものになった。

 映画版は違う。大と玉田が演奏を終えて裏にはけたところで、雪祈が片手の使えない状態で合流し、アンコールでカムバックするからである。

 これによって、So BlueのステージにJASSの三人がそろう。ただし、アンコールは自分も演奏する、と告げた雪祈は、これを最後にバンドを解散することも同時に伝える。解散ライブなのだ。

 

 この展開について、批判から書く。

 まず単純に、「さすがにその体じゃ無茶だろう」と思う。止めろよ普通に、と。

 ただ、『BLUE GIANT』というのは、ある種のブッチギレてしまっている人たちの物語でもあるので、許されるかもな、とも思う。

 大は雪の降る中で延々とサックスを吹き続けるような人物だし、雪祈も青春のすべてをピアノにかけてきた。玉田だって人生の大事な一年をすべてドラムに捧げると決めた。言い換えれば、みんな「これに狂う」ことにしたのだ。

 ポーズで情熱を装っているわけではなく、三人とも根本的にどこかネジを飛ばしている。そして、観客もたぶん、それを観に来ている。どうかしているプレイヤーたちが、ステージでさらにどうかしていくところを観に来るのだ。きっと、そうやって「狂っているやつがさらに狂う」ことの中にしか表れない、生きている価値を観るために。

 でもまあ、「いや、ステージで倒れたらその後の営業どうすんの…」と冷静に思う俺もいましたよ。

 

 もう一つの批判は、雪祈がステージに参加することで、So Blueでのライブが今後の物語に与える影響が完全に変わるからだ。

 上で書いたとおり、俺は原作での展開を批判したことがあるけど、それは、「何もここまであからさまに、今後の展開のためにキャラクターを壊さなくてもいいだろう」ということだった。「日本国内では大を成功させない」という作者の意図が見えすぎている、と思った。

 難しいのは、作者の目的そのものは理解できることだ。やりたいことはわかる(気がする)。日本では十分なキャリアを積めず(トリオでのSo Blue演奏を飾れず)、裸のチャレンジャーとして次の世界に挑む大、俺も見たい。でも、他の方法はなかったか、ということなのだ。

 しかし、映画版では雪祈が合流することになった。

 原作が「盟友のピアニストを欠いた状態で、非常に印象的ではあるものの未完全のライブを行い、次の地に向かう」のに対して、映画の「重傷から奇跡的に復活したピアニストと一緒に、完全なトリオで解散ライブを行ってから出発する」のでは、意味がかなり違う。そういう批判を書いておく。

 

 それでも。

 それでもですね。

 あの最後の三人でのライブシーンは本当に素晴らしかったよ。本当に。

 

 俺はジャズをまったく聴かないし、他の音楽の精神性なんかもわからない。

 だから、◯◯と比べてジャズは…ということはわからないけど、考えたことがある。

 劇中で雪祈が言った言葉に、「他の音楽と違い、ジャズバンドはずっと同じメンバーでは続かない」というものがある。

 この不安定なあり方と関係があるのかもしれないが、JASSの三人は強い絆で結ばれていながらも、各人が視野に入れているものは、まるでバラバラである。

 大は世界一のプレイヤーになるのが目的で、So Blueでの演奏はいわば、一つのステップに過ぎない。

 一方、雪祈は10代でSo Blueのステージに立つのが夢で、とにかく今は、そこにすべての照準が合っている。

 玉田はSo Blueとか未来とかではなく、「いま、この三人」でプレイするためにバンドを組んでいる。

 つまり、彼らは目的と技術と友情でまとまっているけど、一方で、何かのきっかけで分解する可能性を常に秘めている。こうした不安定さゆえに常に崩れてかけているものを、劇的にまとめ、一時的とはいえかたちにするのが、ステージでのライブだったのだ。

 だからこそ、雪祈の加わった最後の演奏は、すさまじい緊張感でもう、ちぎれそうになってる。

 夢のために一日も立ち止まれない大は、これ以上バンドにとどまれない。

 雪祈はこの舞台で人生最大の目的を達してしまった。

 そして、この二人と演奏できないなら、玉田にはジャズそのものを続ける理由がない。

 三人は、どうしたって今日で解散するしかない状況でプレイしているのだ。そういう分解の運命が、ステージでは反転し、一つのバンドの音となって鳴らされているわけで、この矛盾、このドラマなのだ。

 

 演奏中に、雪祈が大を見つめる場面が何度か挿入される。一方、大は雪祈をあまり見ていないように感じる。

 この先も、何度か描かれることになる、大が持つある種の残酷さ。周囲との関係性やあらゆる感情を燃焼させ、この場の演奏に変換する狂気。

 4歳の頃からピアノを弾き、音楽のキャリアではるかに先を行く自分をノックアウトした大の姿を、雪祈はまぶしそうに見つめ、もしかしたら恐れ、あこがれているのかもしれない。

 だからこそ、エンディングで大が雪祈に放ったひと言は、きわめて強い意味を持っている。

 「俺がお前のピアノの一番のファンだ」

 心底あこがれ、恐れて、でもその感情は秘めてきた相手から、こんなことを言われたら…一体どうしたらいいのでしょうか?(大は本当に罪作りだ)

 

 あらためて、ものすごい映画だと思う。

 批判も気になったことも、上で全部書いた。色々言いたいことは言ったうえで、それは、この映画がくれる感動をまったく傷つけない。

 原作ファンはもちろん、ちょっとでも興味がある人は、ぜひ行ってほしいと思う。

今日、脳から捨てたものについて ⑭

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

あぱぱの肉揉み

 元ネタは町田康の短編『権現の踊り子』。

 物語というのは、作者が考えていることや感情を伝えるツールになる。しかし、場合によっては、感情を食って別のものに変身してしまうことがあるというか、「最初は、そーいうつもりで書いてたんじゃなかったんだよな~」ということが結構ありそうだ。

 怒りとか嘲笑とかは特に難しく、なるたけ毒を抜かないと商品にならない。そういうバランスが難しいんだろうと思う。

 『権現の踊り子』は、あんまり大っぴらにするものでもないタイプの感情が、割りと原液の名残を濃く残している気がして良い。

 

マッド感

 ガキの使い、「これってエコじゃね?灼熱の素手地獄!箸なき戦い!!」より。

 煮立ったような飯に向かって、指を箸やレンゲに見立てて食うという企画。熱さをものともしない狂気を表した言葉。

 

dengue dengue dengue

www.youtube.com

 仕事中はずっと民族音楽を流していたい。

 

エシュロン

ja.wikipedia.org

 「そんなものないです」「いや、あるし」

 …というのは陰謀論の構造なのだが、エシュロンはどうも本当にあるらしい。そして、もちろん、陰謀論者はみんな、「これだけは本当にある」と言っているのである。

 ちなみに俺は高野和明の『ジェノサイド』で知った。

 

だらだら食い

 実家の猫が飯を一度に食べきらず、食べてはどこかに行き、また来ては食べ、を繰り返す様子を叔母が表したもの。

 

よく似ておる

 元ネタはモンスターエンジンのコント「暇を持て余した神々の遊び」。

 発想がものすごく優れたコントだと思っていて、実際にヒットもした。それでも、あれ一本で天下が取れるわけではないところに、厳しさを(勝手に)感じている。

 

三界に家なし

 どこにも身を落ち着ける場所がない、という意味。子どもの頃は「ふーん」と思っていたが、齢を重ねて、うっすらほんのりと俺もそうなりつつある。

 

プロテイン 原料

 筋トレの後、「一体、何からできているのだろう…」と思いながら毎回飲んでいる。気になるが調べるほどでもない、絶妙のラインにある。

 

 以上。