カレーについて

はじめに

 セブンイレブンがカレーフェスを始めてから、SNSで食い物の話題の中心がカレーになった。

 普段、特別に食道楽ではないにしても、色々な食べ物について投稿している人たちが、カレーの一色に染まっているのだ。

 みんなそんなにカレーが好きだったのか。いや、好きなのは知っていたが、いま目にしているとおり、みんな本当に好きだったのだ。

 他の食い物の話題も、まずカレーありきだったのだ。「(カレーが好きだけど、それはそれとして)今日はこういうものを食べた。作った。美味しかった」ということであって、この( )の中が今回のフェスによって白日にさらされ、俺の知らないところで、実はみんな一体だったのか…という気持ちになり、安心感と不安感が入り混じった変な気持ちなる。

 

 似たような気持ちに、一度だけに襲われたことがある。三十年近く前、小学校低学年の頃のことだ。

 あれから長い年月が経つけども、それ以来、同じ感覚を抱いたことはなかった。

 例えば、「みんながこういうことで一つになるのに驚いた」というケースとして、国際的なスポーツのイベントとか大きな災害の時が挙げられるが、俺個人は、成長する過程で出会ったどれ一つとして、「知らんかったけど、みんな本当は同じものを共有していたんだ」と驚いたことはなかった。今回のカレーフェスで抱いた、安心感と不安感が溶けあった奇妙な感覚は、本当に、三十年前のあるとき以来だ。

 

『怪奇!大東京妖怪ゾーン』

 それは、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』というホラーを読んだときのことだった。物語の主人公は俺と同じ小学生で、級友たちと一緒に、日常にひそむ妖怪や宇宙人を追うという内容だった。

 当時の子供向けホラーの多くは、テンションの高い作品だった記憶がある(意外と、文庫の『学校の怪談』みたいなドメジャーがダウナーな作風だったが)。

そうした中で、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』というタイトルも、他作品と同様の明るい印象を受けるが、実際の印象はまったく違っていた。陰惨で、超常的なオカルトとはまた別の、世の中の暗部みたいなものも描かれていて、過剰なほどグロテスクでもあり、とにかく気分の高揚とは切り離されたヘンテコな作風だった。

 以下はネタバレ。古い作品で、もう目を通す機会もあまりないと思うけど、一応、改行しておく。

 物語の最後で、自分の周りにいる友人たちが、これまで追ってきた妖怪や宇宙人によって、すでに成り代わられていたことが判明する。実は、人間なのは主人公だけなのだった。

 侵略ものとしてはメジャーな展開かもしれないが、当時の俺はものすごい衝撃を受けた。ところが、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』が本当にすごいのはここからで、なんと主人公自身も相手側の計画によって、化け物に変態させられてしまう。強制的に、というのではなく、ひそかに以前から「種」のようなものを埋められていて、それが物語の最終盤になって唐突に、抵抗しようもなく体を支配し、変質させるのだ。

 自分の身に何が起こっているのか、古い肉体を脱ぎ捨てて変わっていく主人公自身も気づいていない。ものすごく怖い。

 

 でも、同時に「ん? じゃあいいのか…?」という気持ちにもなる。

なぜかというと、友人たちの正体がわかったときに感じた恐怖や不安感というのは、 主人公以外の存在がみんな、彼とは別の異質な存在に統一されていることから来ていた。

 そうした、最後に残された孤独感とか、抗いようのない無力感が怖かったのだ。しかし、主人公もそこに合流していくわけだから、孤立していたのは結局、一瞬のことだった。だからそこには、まあ明らかにハッピーエンドではないけれど、同時に妙な安心感もあったのだ。

 

話はカレーに戻る

 今回のカレーフェスで感じた不安感と安心感は、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』を読んだときの気持ちとすごく似ている。

 あのときと同じように、みんな俺の知らないうちにカレーでとっくに一体化しており、そして、俺自身も結局はその一部なのだった。

だから俺もいま、フェスのカレーを食ってる。宣伝するつもりはないので商品名は言わないけど、マジで、店で出されるようなちょっと珍しい香辛料を使っているやつがあって、結構感動する。

惜しいのは、このブームに参加するのが遅れてしまったことだ。こういうとき、まずは「どうやら、このカレーフェスはかなりクォリティが高いらしい」から始まるわけだが、

 

① ま、だからって本当にカレー食いたきゃ店に行けばいいわけだし…

② あれ、周囲の熱がまだ冷めないな?

③ …俺も、食ってみようかな

 という具合に、しばらく様子を見ているうちに時間が経ち、③に至る頃には、もう終盤になっている。こういうことが多いのだ。もったいないことだ。

 

そして、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』に戻る

 最後に、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』が今回のフェスと唯一違っているところについて書いておく。

 妖怪と宇宙人に取り囲まれた主人公の孤立と不安から、彼もそこに取り込まれていく妙な安心感へと移っていく中で、最後に一人だけ、取り残された者がいる。物語を読んでいた、当時の幼い俺のことだ。

 周りが得体の知れない化け物だらけになったとき、ある意味で、主人公は完全に一人ではなかった。なぜなら、読者である俺が彼を見届けていたからだ。

 俺は、子どもが持つ強い感情移入と想像力を動員し尽くして、主人公のそばに立っているもりだった。しかし、応援していた主人公は、最後は向こう側に連れていかれてしまう。

 主人公にとって、それは完全なバッドエンドではないかもしれない。しかし、俺は一人だけ、あとに取り残されてしまった(ここで、化け物になるのがある種の隠喩だとすれば、現実の読者たちもとっくに「化け物」かもしれない、という批評が思いつかないあたりは、まだ子どもだ)。

 いま、「みんな、本当にカレーが好きだったんだな…」と言いながら自分もカレーを食っている俺は、人々の正体を知った驚きを感じつつ、それと一体化している。俺は、最後に自分も化け物になった『怪奇!大東京妖怪ゾーン』の主人公である。

 ということは、どこかに当時の俺と同じように、カレー大好き人間たちに取り囲まれながらも自分では口にしなかった、独りぼっちの誰かがいるんじゃないだろうか?

 きっといるはずだ。

 当たり前の話だが、飯というのは別に、誰かが食っているからといって同じように食わないといけないわけではない。俺だって、タピオカもマリトッツォも食ったことない。

 しかし、今回のカレーフェスは、こいつはちょっと、食わないのはもったいなかったかもしれない。そのぐらいには美味い。

 今度はいつあるか知らないけど、次回はあなたもどうですか? と言いつつ、「『怪奇!大東京妖怪ゾーン』のラスト、宇宙人になった主人公がこっちに(読者の方に)振り返ってみせるような描写があったら、本当に嫌だっただろうなあ」としみじみ思ったので、以上、書いておく。

今日、脳から捨てたものについて ⑬

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

MARVELコラボ

 何年か前までパズルアンドドラゴンズをプレイしていて、「おお、この漫画のコラボが来るのか!」と楽しむという、とても健全な盛り上がり方をしていた。

 映画作品ともよくコラボしていたので、ふと、「しばらく遊んでないけど、MARVEL作品ともコラボしたことあるのかな?」と思ったのだった。

 していた

 ただ、キャラクター一覧を見ると、『X-MEN』の登場人物も入っているようだ。『X-MEN』はMARVELなのである。

 一方、映画作品として展開される、いわゆる◯◯シネマティック・ユニバースでは、多くのMARVELキャラクターとX-MENとは完全に切り離されている。その辺に業界の複雑さを感じる。

 ただ、資本主義、もしくは、よく言えばファンの期待に応えようという熱意は、こういう「大人の事情だからしょーがないね…」という世間のあきらめも、いつか来るプロモーションの起爆剤にしてしまうというか、何年後かに世界観がスクリーンで交わって(そして、版権に関する契約書も交わされて)、ファンたちが無邪気に「すっげー!」という未来がきても、まあ驚かない。いや、やっぱり驚くかな。

 

ポケモンコラボ

 さすがに、こことはコラボしていない。

 全然関係ないが、俺はいつか、ポケモンの本編がスマートフォンで遊べたらいいな~と思っている。

 交換も対戦も指先のタップ一つ。なんらかのかたちで、膨大な数のプレーヤーがフィールドに同時に接続していて、そこで起こすアクションのすべては、常にSNSで共有され続ける。

 そういう未来が俺の願望であると同時に、実は、自分のゲーム史において本当に大切なタイトルに対する暗いサディズムでもあって、ポケモン本編がスマートフォンに来たら、それは何かの歴史の一つの終わりになるだろうな、と勝手に思っている。

 

エッジランク

 フェイスブックにおいて、自分のニュースフィードの表示を決めているアルゴリズムをこう呼ぶらしい。

 よく、利用者ごとにカスタマイズされるSNSの表示については、いわゆるフィルターバブルに閉じ込められる負の面が強調される。ただ、はっきり言って現代の情報の大半は無価値、もしくは気が滅入るものばかりなので、こういうフィルタリングがなけりゃやってらんねえだろ、とも思う。

 一方で、そもそも、こういう取捨の仕組みがなければ確実に溺れてしまうような、今の世界の情報量自体が不健全で、もう根本的にどっかおかしいだろ、という考えもある。

 

なんていうやり方だぁ

 昨年のオリンピックのとき、TBSアナウンサーの安住氏がNHKの方針を批判して発した言葉。

 

なまねこなまねこ

 元ネタは宮沢賢治『蜘蛛となめくじと狸』

 邪悪さにも色々種類があって、異常な怪物のように、コミュニケーションが不可能な邪悪さもあれば、表面的に言葉をとりつくろって、一見すると意思疎通ができそうな邪悪さもある。

 個人的には、暴力性や悪意を隠さない人間よりも、何かの言葉を発して危険性をカモフラージュしてくる相手の方が嫌いである。それは、騙される危険性があるからではなく、そういう作戦を取るところに相手の罪悪感みたいなものを感じて、生理的に不快だからである。

 ちなみに、それは自己嫌悪の話でもある。

 

ワイマラナー

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 美しい生き物がいるものだ。

 

クエビコ 

ja.wikipedia.org

 

 日本神話の神々の名前というのは、とても「日本」を感じる響きがある。

 ちなみに、俺は日本の文化にも寺社仏閣にも、ほとんど愛着はない。

 

様々なる意匠

 小林秀雄の文章。学生時代に読んでいたせいか、題名をいきなり思い出した。題名以外は何一つ思い出せない。

 

以上

今日、脳から捨てたものについて ⑫

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

酒池肉林区 卑猥町

 元ネタは『ナニワ金融道』。

 町中の看板も小切手の名義も、この漫画ではすべてがこういうカラーで占められている。作中の人たちも何も言わないので、「もしかすると、こちらと向こうでは言葉の意味が違うのだろうか?」などと考え始めると、とても不思議な気持ちになる。

 

猿のリハーサル

 ものすごいピリピリムード、と続く。

 元ネタはさまぁ~ずがやっていたラジオ番組『さまぁ~ずの逆にアレだろ』のコーナー、「悲しいダジャレ+1」より。

 

阿葉山 もち

 元ネタは『無限の住人』。

 阿葉山は作中に登場する老剣客。最終盤の戦いで敗れ、死亡したかと思われていた。その後、後日談にて、呆けて「もち」と言いながら、親族の世話になっている姿が描かれている。

 それまで、阿葉山の戦闘シーンはあまり描かれてこなかったが、この漫画における準最強候補の一人である偽一と互角に戦ったため、間違いなく強キャラであった。

 ところで、俺は30半ばであり、もう老いを語れるような、まだ語れないような微妙な感じだが、何か明確な夢や大志がある限り、年数に関係なくある程度は遠ざけることができ、それらを失った瞬間に深く染み入ってくるものをそう呼ぶのかな、ということを思う。

 ちなみに、上で「準最強」という表現をしたが、『無限の住人』における最強は議論の余地なく決まっている。そういう漫画である。

 

麺がもちもちになる!

 元ネタは『寿エンパイア』に登場する寿司職人である児島さんのセリフ。

 児島さんはオールバックに眼鏡の強面で非常に口が悪く、勝負した相手の寿司をボロカスにこき下ろすことをルーティンとしているが、「どうすれば改良されるか」を忘れずに言い添える上、それが毎回的を射ているため、読者から変な人気が出た人である。

 

欲望に正直じいさん

 元ネタは『御緩漫玉日記』。

 俺は脳から物を捨てるときに一度口に出していることが多く、そのときは発する言葉が社会的にどうとかのフィルターが基本的に機能していないため、職場でけっこう危険である。

 

ほら貝

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 ほら貝というと楽器として加工済みの、道具としての姿が思い浮かぶ。しかし、ほら貝はまだ生きているうちからほら貝という名前である。「ホラにするための貝」ということである。

 ということは、死んでからそれに加工する予定の道具の名前をあらかじめ付けられているということであり、なんというか、うまく言えないが、すさまじいことだと思う。

 

タタミイワシ

 食ったことがない。食わずに死ぬ可能性がそこそこあり、どうもそういう、「あれ、このまま一生食わんかもな」という食品が見えてきたような気がする。

 

 以上。

今日、脳から捨てたものについて ⑪

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

 

・もちろん新品で買ったわ

 漫画家 花沢健吾の旧HPに登場するフレーズ。要するに、中古ではなく新品で買ってくれということだと思われる。

 俺は当時金がなかったので、マンガを新品で買うことはあまりなく、やや居心地が悪かった。

 

・アジアからアメリヤカから…

 『ガキの使い』「マジかる浜田で浜田が激怒」。

 浜田の今後の海外進出計画(というテイ)について語る吉本 旧社長である岡本氏のセリフである。「アジアからアメリ『カ』から」を噛んでしまったものと思われる。

 

・何度でも美味しい朝ごはん

 『世界ネコ歩き』。

 一匹の地域猫があるお宅で朝ごはんをもらい、そのまま何食わぬ顔で別のお宅に向かって、そこで再び朝飯をもらう様子を評したもの。

 

・そりゃおめえはそうだろうよ

 元ネタなし。

 他人に対して、俺がよく毒づく際に心の中で思っている言葉。

 俺より才能や魅力に恵まれた人間が、「できるでしょう」的な感じで気楽にムチャを言ってきたとき、もしくは、俺よりいい加減な人間(というのはこの世にあまりいないようでいて、意外といるのである)が適当な提案を口走ったときなどに、よく思っている。

 早い話、俺は偏狭なのであった。

 

・ユナ・ボマー

ja.wikipedia.org 

 

 天才で犯罪者、というのがみんな好きなのだが(俺も好き)、なんかこう、屈折したルサンチマンが根っこにあるんだろうか、と思う。  

 

・儲かりましたわ

 M-1グランプリ2022でラストイヤーに臨みながら準決勝で敗退した、金属バット 友保の言葉。

 細かい背景は言わないが、また、実際に発した言葉なので、小説でも創作でもなんでもないのだが、「これこそ文学」だと思っている。本当に、本当に本当にカッコいいと思う。

 

 以上。

人類、このデスゲーム製造機。『イクサガミ 天』の感想について

はじめに

 デスゲームとはなんであろうか。

 その主な二つの要素は、

 ①殺し合うこと

 ②殺し合いの誘発と離脱防止が、システマチックに管理されていること

 …だと思っている。

 人類は有史以来、①をずーっとやってきた。あとは②でシチュエーションを整えるだけで、いついかなる時代・場所でもデスゲームはつくれる理屈である。

 つまり、人類はデスゲーム製造機である。そういうわけで、本作の舞台は明治時代である。

 

 いきなり余談だが、未来では人間は殺し合いを完全にやめているだろうか?

 それは、人類の知性の発達とお互いの信頼にかかっているだろう。

 最近はAIが怖いぐらい発達してきているので、もう人間そのものには期待せずに、そっちに任せたほうがいいかもな、と思わなくもないのだが、AIにすべてを委ねた果てにある戦争と破滅は、『火の鳥』ですでに描かれてもいるのだった。

 

本題

 そういうわけで、デスゲームはいつの時代だろうと描ける。

 ただ、現代でやるのとそれより前の時代でやるのとでは、違うところがある。『イクサガミ』の場合、殺人という行為の意味合いがいまと根本的に違う。

 

 現代において、殺人は悪行であり犯罪である。

 「お前、さっき『人間はどんな時代でも殺し合ってる』って書いてたじゃねえか」と言われると苦しいが、とにかく今の時代、人は人を殺してはいけないことになっている。

 だから、現代を舞台にしてデスゲームを描く場合、仮にルールに強制されていようが、人を殺めてもいいのか、という葛藤が最初の焦点になる(ただ、このあたりは大量の作品によってコスられ続けているので、もはやチープになりつつある)。こうした殺人の葛藤は、都合のいい戦闘狂的なキャラクターが登場し、作中における殺人を大っぴらに解禁するまで続く。

 

 一方、『イクサガミ』では殺人は悪ではない。

 なんでかというと、江戸〜明治のどさくさで普通に人を殺していたような連中ばかり、基本的に集められているからである。

 彼らは人を殺すことが何かの表現であったり、思想を示す手段であったり、というか普通に飯の種であったような魑魅魍魎だらけなので、殺人の葛藤とかゼロである。むしろ、「いつまでもあんまり、人とか好き勝手に斬るんじゃねーぞ」みたいな、時代がそんな雰囲気になりつつあって、じゃあ俺たちの意義って…みたいなやつさえいる。

 

 人殺したちの最後の残光というか、滅びゆくさだめ。デスゲームとしての緊張感だけでなく、こうした時代の流れみたいなものも、今作のテーマかもしれない。

 他にも、当時の雰囲気とか時勢を上手く描写している作品である。けっして、「ちょっと奇をてらったデスゲームものとして、舞台を明治にしよう。時代考証とかはどうでもいいぜ」みたいなノリではない。ちゃんとした時代劇である。

 

 ただ、作品の大筋はというと、ほぼベタなデスゲームものである。

 特にキャラクターの設定。新奇さはない。逆に言えばみんなの好物が多いとも言える。

 例えば、主人公。人殺しに苦悩はあり、弱者を見捨てられない甘さを抱えるが、いざというとき腕は抜群に立つ。

 関西弁で得体の知れない、同じく強いライバル。

 正体不明で不気味な強ジジイ(みんな強ジジイ好きだよな。俺もだけど)。

 主人公と同じ修行を積んだ、因縁のある同門の徒。

 混沌とした時代の中にあってさえネジが飛んでる、異質のヤバい殺人鬼。

 

 この手のジャンルではありがちで、といっても目が離せない者たちが入り乱れて、殺し合いながら、点数(となる札)を奪い合い、目的地である東京を目指す、そういう物語である。

 ちなみに、「点」と「移動」が物語の核になっているあたり、本作の枠組みは『スティール・ボール・ラン』にも近い。デスゲームというよりは、「SBRっぽい作品だよ」という方が雰囲気がうまく伝わるような気もする。

 

 以下は、気になった点や今後の予想を書いておく。

・覆面男は何者か?

 物語で顔を隠しているキャラクターには、何か隠す理由がある、と思っている(メタ的に)。

 上記のとおり、『イクサガミ』には「こいつは別格でヤバい」という人物が何人か登場する。

 そのほとんどはゲームの参加者だが、覆面男だけは異なり、彼は主催者を守る護衛である。参加者たちの中から「お前ら運営の好きにはさせないぜ」とタンカを切って出てきた実力者を、開始早々圧倒的に叩き斬ってデスゲームを本格始動させるという、まあいかにもというか、物語において大変無駄のない仕事をしたキャラである。

 俺は、戦乱を生き延びた新撰組の有名人が正体では、と思っている。斎藤一とか、永倉新八とか。

 覆面をめくって、「いや、どちらさんですか?」よりは、その方が美味しい。あと、主人公は新撰組と因縁があるようなので、そういう点でも美味いと思う。

 

・強ジジイは何者か?

 ゲームの開始直後に別格の強さと危険さを見せたジジイがいる。

 主人公が使う剣術の傍流に一人、ヤバいジジイがいる、というエピソードが挟まれているので、もしかしたら強ジジイはそいつかもしれない。

 

・黒札のゆくえ

 今作の特殊なギミックに、「黒札」がある。

 物語の基本的なルールとして、主人公たちは京都から東京を目指すことを命じられる。旅程の途中、それから最後の東京に関所があって、他のプレイヤーが身につけている木の札(一人一点)を一定数集めないと通過できない。殺し合いは、この札をめぐって発生する。

 ただ、札を失うのが殺された場合だけとは限らず、路上で力尽きたり、勝手に捨てるやつが出てくるかもしれない(捨ててはいかん、とは言われている)。そうすると、その分の点数が盤上から消滅してしまうことになる。

 黒札はそれを埋めるもので、第三ステージを最後に通過したプレイヤーに、「それまでに消滅した全ての点数分」として、(強制的に)運営から渡される、一枚で大量の得点を意味する札になる。

 一気にたくさんの点がもらえるのはラッキーだが、同時に強烈なデメリットがあり、黒札の保持者は他のプレイヤーに通知されてしまう。こうして、黒札を巡って戦闘が加速する、という運営側のモクロミである。

 

 黒札を争って起きそうな展開をいくつか予想してみる。

① 主人公がうっかり持ってしまう

 冒頭から、他人にかけた情けのせいで周囲から目立ったターゲットになってしまう主人公なのだが、それがさらに悪化する、という展開。

 ただ、今のままでも十分標的になっているし、黒札持ってもあんまり変わらないか?

 

② 強敵にわたる

 ヤバすぎて絶対に戦ってはいけない、もしくは心情的に戦いたくない相手に黒札がわたる。上で書いたとおり、関所を通過するには一定の点数が必要になるため、なんらかの理由で大量の点数が必要になった主人公が、黒札の持ち主と戦わざるを得なくなるという展開。

 

③ 故意に押しつける/押しつけられる

 黒札については、一つ疑問がある。

 黒札は誰かに奪われたあとも黒札なのか、それとも、奪われた後は同じ点数分の普通の札に換えられるのか?

 もし、相手に奪われたあとも黒札のままなら、一種のババとして、故意に押しつけることもできそうだ。ここからの黒札の行方に注目したい。

 

・みんな、人の顔よく覚えてんな

 敵プレイヤーを認識するのに、「スタート会場で見た顔」という根拠でみんな山林や街道でいきなり戦い始める。俺なら覚えてられないが…。

 

・あいつは生きてる

 主人公の仲間になる…という罠を見破られ、重傷を負って姿を消したキャラクターがいるが、死んだとは描かれてないので、生きていると信じている。俺は詳しいんだ。

 

・続編いつ出んの?

 昨年11月の時点で書き始めている、なので(2023年2月現在)、それなりのところまでは進んでいる。

 …かもしれないし、いないかもしれない。

 気長に待ちたいと思う(追記:2023年5月16日、続刊となる『イクサガミ 地』が発売されました)。

 

 以上、よろしくお願いいたします。

 

求めれば与えられる時代について

 よく行っている作業に、読んでいる本の気に入った部分をOCRで読み取って文字化し、そのデータを整理・分類する、というものがある。

 整理にはnotionを使っており、作ったページにOCRのデータをコピペする。それから、文章のテーマごとにタグ付けをする。【生物学 遺伝子】とか、【歴史 古代中国史】とか。

 まあ、内向きで陰気で、でも愉楽にあふれた作業なのだ。

 

 ところで、OCRを使うと本の体裁そのままにデータ化される。だから、紙面で行が変わって次の行に移るところは、データにすると一つの文章としてつながらない。改行が挿入されて文章が途中でぶつぎれるので、この改行を消す必要がある。

 俺はこの改行を一つ一つ、つぶつぶと消しながら文章をつなげる。これまでずっと、そうしてきたのだ。つぶつぶ、つぶつぶ。

 

 今日もそういう作業をしていたのだが、唐突に思った。

 「もしかして、インターネット上には、ウィンドウの中に文字データを放り込むだけで、改行やスペースを自動で消去して文章をひとつなぎにしてくれるサービスがあるんじゃないのか?」

 

 あるだろうか。

 

 あった。

 

html-css-javascript.com

 

 つぶつぶ終了である。

 それと同時に思ったのだが、なんというか単純に、探せばあるものだな、ということだ。そんな便利なもんはねえだろう、という、言葉で自覚さえしない無意識のストッパーのようなものが脳に仕込まれているのだが、実際はあるのである。

 求めれば与えられる時代なのだなあ、と思う。強い欲望を持ち、それを言語化する能力に長けた人の生きやすい時代なのだ。

 

 俺はどうだろう? まあ、中の上ぐらいでしょうか。

 なんか損してるなあ、とか、「俺は知っているが、あいつらはこんなことも知らねえんでやんの」とか、そういう変なところに落ち着かなければいい。そう思っている。

2022年M-1グランプリでのウエストランドの漫才について

はじめに

 ロングコートダディの1stラウンドが一番面白かった。

 よく、「感心が優先してしまって笑えなかった」という表現があるが、感心した上に猛烈に面白かった。あと、ほぼ、誰も傷つけない笑いだったと思う(以下の話を書く上で関係する)。

 

ウエストランドの漫才は「みんな思っていたけど言わなかった」ことなのか(もしくは井口さんは何者としてあそこに立っているのか、という話)

 公式がリアルタイムで動画を上げているので掲載する。

 

・1st ラウンド

www.youtube.com

・決勝ラウンド

www.youtube.com

 公式が上げなければ誰かが非公式にやってしまう時代とはいえ、すごい世の中になったと思う。

 俺は、てっきり1stまではアップロードして、あとは決勝が気になるならテレビを点けてね、ということかと勝手に思っていたけど。丸々上がっている。

 CMなしだけど、いいのか? と思ってしまうが、審査員の評が気になる視聴者は観るからいいんだろう。

 

 で、観ればわかる通り、向かって左のツッコミ(井口さん)が「あるなしクイズ」という形式にかこつけて、世の中の色々な人や職業に対して悪口を延々と言うのをボケ? の河本さんが聞いている、というかたちになっている。

 少し脱線するけど、観ていて井口さんがボケ、河本さんがツッコミだと思っていたのだが、立ち位置としては逆らしい。そうなんだ。

 なんか、もうボケとかツッコミとかいう時代でもなくなってるのかもな~、と思った(俺がいい加減なだけですか? すいません)。

 

 で、Youtubeのコメント欄でこういうものが多い。

 「みんな思っていたけど言わなかったことを言った」

 「人を傷つけない笑いの時代を経て、人を傷つける笑いが帰ってきた」。

 あれ、そうですか? と思う。これ、みんな思っていたこと? で、これは人を傷つける笑いなの?

 

 なぜ、俺はそう感じるのだろう? だって、まあ、いかにもなテーマで、特定の人や職業をボロクソに言っているじゃないですか。

 

 これはけっこうややこしい話になる。

 まず、あのネタが「みんなが思っていたこと」かどうかから考える。

 

 俺は、井口さんが言っていたことは、別に「みんな思っていたこと」ではないと思う。なんでかというと、俺は井口さんは一種の狂人とかピエロという役どころであそこに立っていると思っているからだ。

 あんなめちゃくちゃで、暴論で、薄っぺらくて、なんなら本人さえ信じていていなさそうな、世間でありがちな偏見や雑な先入観を、口は災いの門的に先走ってしまう、それを井口さんはしゃべってるんだな、と思って観ていた。

 俺としては、「もう古くなって、最近では相当ピントがボケているステレオタイプ」を、テンション上がった勢いでむちゃくちゃ言っている井口さんが面白いんであって、別に世間を代弁しているわけではなく、あくまで井口さんのあらわす異常さが面白いんだと思っていた。

 その証拠というか、相方の河本さんは井口さんに一度も賛同していない(はずです。違ってたらすいません)。

 攻撃的な要素を含むあるあるネタで、たまに相方が「まあ、そういうこと、あるけども」と一瞬同調する場面がときどきあるけど、河本さんはそれをしないで、「違います」とかしか言わない。

 だから、この漫才は別にあるあるネタではないし、みんなが思っていたことを言ってしまうところが面白いのでもない。あくまで、井口さん一人が狂っているところが面白いんだと思う。

 

 で、それが「人を傷つける笑い」かどうか、ということだ。

 例えば、井口さんが言っているのが、本当に「誰もが真実だと知っているけど言わなかったこと」だったら、その批判や嘲りの対象になった人は傷つくと思う。

 でも、舞台上で井口さんは狂人を演じているのであって、その発言は「そういう見方をされることもあるかもしれないけど、一方で、時代遅れだったり歪んでいるところも多量に含んだ、世迷いごと」なのだ。

 観ている側がそれを真に受けないのだったら、何を言ってもいいんじゃないか? =「人を傷つける笑い」ではないんじゃないか?(と、俺は観ていた。でも、そう観ない人もいるし、その方がたぶん正しい。これは後半で書く)。

 

閑話休題1 俺は「人を傷つけない笑い」という言い方が好きではない

 半分ウソです。

 正確には、2019年末の話題をさらったぺこぱの漫才を「人を傷つけない笑い」と表現することが好きじゃない。

 前に誰かが言っていたが、あれは「人を傷つけない笑い」じゃない。なんでかというか、あの漫才の中で、ツッコミの松陰寺さんは必ず傷ついているからだ。

 松陰寺さんはボケに翻弄され、戸惑っても、自分が傷ついていることを二の次に置いている。これはけっこう悲惨なことで、はっきりと被害者だ。

 そりゃあ芸で構成された架空の世界の中のことではある。でも、芸事の中なら誰を傷つけてもいいわけではなく(だからこそ、ウエストランドは批判されてもいる)、やっぱり、あれも「人を傷つける笑い」なんだと思う。

 

閑話休題2 でも、「人を傷つけない笑い」はある

 じゃあ、すべての笑いは誰かを傷つけるのだろうか?

 それも違うと思う。

 一本のネタ全体、落語の一席をとおして、とかだと厳しいかもしれないが、少なくとも、部分を抜き出せば「誰も傷つけない笑い」は存在する。

 それこそ、今回のロングコートダディの1stラウンドでのネタが誰かを傷つけるとは思えない。あと、最近だと『女の園の星』のトイレ掃除の話とか(なんか、具体名出すと巻き込んだみたいで申し訳ないですね)。

 だから、「誰も傷つけない笑い」は、たぶんある。

 俺は、誰かがちゃんと(?)傷ついているのに、それを「傷つけていない」というのは変だし、といって、笑いというのは必ず誰かを傷つけるんだ、と断言するのも変だよな、と思う。

 

閑話休題3 「みんな思っていたけど言わなかったこと」なんて存在しないと思う

 そもそも、「みんな思っていたけど言わなかったこと」なんてこの世界にあるんだろうか? 俺は、ないと思う。

 「一定数の人が、それが事実かは別として、事実だと信じたいこと」はあると思う。たくさんあると思う。

 

 例えば、「何かに失敗したり不本意な人生を送る人は、日々の心がけや努力が足りなかったんだ」とか。

 反対に、「自分が上手くいかないのは自身の責任ではなく、周囲や社会が悪いんだ」とか(俺です)。

 もっと規模がデカくて、「いまの社会は過剰な権力を持った組織や個人によって思うがままに操作されているんだ」とか(完全に否定はしないけど、これまでに見かけたどの説にも、俺は同意できない)。

 

 それは、単に俺たちが事実だと信じたいだけだったり、すでに「そう感じた時期もあったけど、どうやら違うっぽいな~」と思って捨てた…つもりで、頭の隅に残っていることだったりする。

 いずれにしても、事実ではない。

 ただ、俺たちは自分以外の誰かの頭の中を一つ一つのぞいて回って、「お、こいつは俺と考えが違うんだな」とかできないし、いちいち議論したり多数決を取ったりできない。

 時間をかけて、何が本当か学んだり、他人の立場に思いをはせるのも大変だ。だから、誰かが発した乱暴なステレオタイプにうっかり同調したり、昔の自分を追憶した感覚について、「みんな思っていたけど言わなかったこと」と表現してしまう。

 実際のところ、それは「俺たち自身がそうであって欲しいと望んでいる(望んでいた)こと」でしかないと思うんだよな。

 

さいごに。ウエストランドの漫才は人を傷つけるか

 まとめとして、本題に戻る。

 上に書いたとおり、俺は井口さんは一種の狂人とかピエロとして舞台に立っていると思っていた。その発言を、むちゃくちゃな世迷いごととして聞いていた。

 では、その言葉が根拠のない、もしくは古臭い暴論だとして、言われた側は傷つくだろうか?

 

 正直に言うと、俺は最初は、「傷つかねえんじゃねえか?」と思っていた。

 だって、明らかにトンチキな暴論なわけだし。観客だって、それが事実だとは思ってないし。

 

 でも、仮に時代遅れのズレた妄言でも、好き勝手に言われたらやっぱりムカつくし、傷つくよな~とは思う。当然だ。

 しんどいのは、ムカついたので「不愉快なんじゃ、ボケ。漫才だからって適当なこと言いやがって。クソ野郎が」と言おうにも、その相手がいまや、M-1王者として権威付けされてしまっているところかもしれない。

 上で書いたとおり、そもそもあれを、一種の言いにくい真実として聞いていた人もいるわけだ。攻撃された側がそれが傷つくのはもちろんだが、仮に嘘だろうと、日本中で大笑いを取ってしまったことが、傷ついた側の反撃する気持ちを大きく失わせると思う。

 少なくとも俺なら、日本中が彼らに賛辞を送っている中で、「何が面白いんですか? 全然事実と違うし、不愉快です」と言う気力はない。それは、ちょっとまずいよな、と思う。

 

 俺はウエストランドの漫才で笑った。二度とも大笑いした。

 そこに罪悪感はあるけど、こういっては何だが、許される範囲の暴言だったし、漫才にはそういうネタを舞台にかける権利があると思っている(じゃあ、OK/NGの線はどう引くんですか? というのはある)。

 でも、ウエストランドにああいう漫才をする権利があるように、それに対して「面白くないんだわ。クソボケが。あることないこと言うな。お前らも、それで笑ってる他の連中も全員、勘違いした加害者どもが。くたばれゴミども」という声が封殺されない、発する権利を損なわれてはいけないな、と思う。

 

 なんというか、振り返ってみれば、「俺はありだと思うけど傷つく人もいるだろうし、そのダメージや感想が世間から見えなくなるのはダメだよね」という当たり前の話だった。

 なんか、ウエストランドに対して、「言いにくかったことを言った」とか「傷つけない笑いの時代を経て傷つける笑いが帰ってきた」みたいな感想をよく見たのだ。

 それについて、「いやいや、あれは狂人の妄言をみんなで笑ってんだし、仮に漫才の台本がどれだけ無害になったって、少なくとも漫才師本人が自分を押し殺したり混乱するのをみんなで笑うのをずーっと続けてきてるんであって、『傷つけない笑い』が時代を制してなんかいねえだろ」、と思っているうちに、回り道してしまった。以上です。