カレーについて

はじめに

 セブンイレブンがカレーフェスを始めてから、SNSで食い物の話題の中心がカレーになった。

 普段、特別に食道楽ではないにしても、色々な食べ物について投稿している人たちが、カレーの一色に染まっているのだ。

 みんなそんなにカレーが好きだったのか。いや、好きなのは知っていたが、いま目にしているとおり、みんな本当に好きだったのだ。

 他の食い物の話題も、まずカレーありきだったのだ。「(カレーが好きだけど、それはそれとして)今日はこういうものを食べた。作った。美味しかった」ということであって、この( )の中が今回のフェスによって白日にさらされ、俺の知らないところで、実はみんな一体だったのか…という気持ちになり、安心感と不安感が入り混じった変な気持ちなる。

 

 似たような気持ちに、一度だけに襲われたことがある。三十年近く前、小学校低学年の頃のことだ。

 あれから長い年月が経つけども、それ以来、同じ感覚を抱いたことはなかった。

 例えば、「みんながこういうことで一つになるのに驚いた」というケースとして、国際的なスポーツのイベントとか大きな災害の時が挙げられるが、俺個人は、成長する過程で出会ったどれ一つとして、「知らんかったけど、みんな本当は同じものを共有していたんだ」と驚いたことはなかった。今回のカレーフェスで抱いた、安心感と不安感が溶けあった奇妙な感覚は、本当に、三十年前のあるとき以来だ。

 

『怪奇!大東京妖怪ゾーン』

 それは、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』というホラーを読んだときのことだった。物語の主人公は俺と同じ小学生で、級友たちと一緒に、日常にひそむ妖怪や宇宙人を追うという内容だった。

 当時の子供向けホラーの多くは、テンションの高い作品だった記憶がある(意外と、文庫の『学校の怪談』みたいなドメジャーがダウナーな作風だったが)。

そうした中で、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』というタイトルも、他作品と同様の明るい印象を受けるが、実際の印象はまったく違っていた。陰惨で、超常的なオカルトとはまた別の、世の中の暗部みたいなものも描かれていて、過剰なほどグロテスクでもあり、とにかく気分の高揚とは切り離されたヘンテコな作風だった。

 以下はネタバレ。古い作品で、もう目を通す機会もあまりないと思うけど、一応、改行しておく。

 物語の最後で、自分の周りにいる友人たちが、これまで追ってきた妖怪や宇宙人によって、すでに成り代わられていたことが判明する。実は、人間なのは主人公だけなのだった。

 侵略ものとしてはメジャーな展開かもしれないが、当時の俺はものすごい衝撃を受けた。ところが、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』が本当にすごいのはここからで、なんと主人公自身も相手側の計画によって、化け物に変態させられてしまう。強制的に、というのではなく、ひそかに以前から「種」のようなものを埋められていて、それが物語の最終盤になって唐突に、抵抗しようもなく体を支配し、変質させるのだ。

 自分の身に何が起こっているのか、古い肉体を脱ぎ捨てて変わっていく主人公自身も気づいていない。ものすごく怖い。

 

 でも、同時に「ん? じゃあいいのか…?」という気持ちにもなる。

なぜかというと、友人たちの正体がわかったときに感じた恐怖や不安感というのは、 主人公以外の存在がみんな、彼とは別の異質な存在に統一されていることから来ていた。

 そうした、最後に残された孤独感とか、抗いようのない無力感が怖かったのだ。しかし、主人公もそこに合流していくわけだから、孤立していたのは結局、一瞬のことだった。だからそこには、まあ明らかにハッピーエンドではないけれど、同時に妙な安心感もあったのだ。

 

話はカレーに戻る

 今回のカレーフェスで感じた不安感と安心感は、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』を読んだときの気持ちとすごく似ている。

 あのときと同じように、みんな俺の知らないうちにカレーでとっくに一体化しており、そして、俺自身も結局はその一部なのだった。

だから俺もいま、フェスのカレーを食ってる。宣伝するつもりはないので商品名は言わないけど、マジで、店で出されるようなちょっと珍しい香辛料を使っているやつがあって、結構感動する。

惜しいのは、このブームに参加するのが遅れてしまったことだ。こういうとき、まずは「どうやら、このカレーフェスはかなりクォリティが高いらしい」から始まるわけだが、

 

① ま、だからって本当にカレー食いたきゃ店に行けばいいわけだし…

② あれ、周囲の熱がまだ冷めないな?

③ …俺も、食ってみようかな

 という具合に、しばらく様子を見ているうちに時間が経ち、③に至る頃には、もう終盤になっている。こういうことが多いのだ。もったいないことだ。

 

そして、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』に戻る

 最後に、『怪奇!大東京妖怪ゾーン』が今回のフェスと唯一違っているところについて書いておく。

 妖怪と宇宙人に取り囲まれた主人公の孤立と不安から、彼もそこに取り込まれていく妙な安心感へと移っていく中で、最後に一人だけ、取り残された者がいる。物語を読んでいた、当時の幼い俺のことだ。

 周りが得体の知れない化け物だらけになったとき、ある意味で、主人公は完全に一人ではなかった。なぜなら、読者である俺が彼を見届けていたからだ。

 俺は、子どもが持つ強い感情移入と想像力を動員し尽くして、主人公のそばに立っているもりだった。しかし、応援していた主人公は、最後は向こう側に連れていかれてしまう。

 主人公にとって、それは完全なバッドエンドではないかもしれない。しかし、俺は一人だけ、あとに取り残されてしまった(ここで、化け物になるのがある種の隠喩だとすれば、現実の読者たちもとっくに「化け物」かもしれない、という批評が思いつかないあたりは、まだ子どもだ)。

 いま、「みんな、本当にカレーが好きだったんだな…」と言いながら自分もカレーを食っている俺は、人々の正体を知った驚きを感じつつ、それと一体化している。俺は、最後に自分も化け物になった『怪奇!大東京妖怪ゾーン』の主人公である。

 ということは、どこかに当時の俺と同じように、カレー大好き人間たちに取り囲まれながらも自分では口にしなかった、独りぼっちの誰かがいるんじゃないだろうか?

 きっといるはずだ。

 当たり前の話だが、飯というのは別に、誰かが食っているからといって同じように食わないといけないわけではない。俺だって、タピオカもマリトッツォも食ったことない。

 しかし、今回のカレーフェスは、こいつはちょっと、食わないのはもったいなかったかもしれない。そのぐらいには美味い。

 今度はいつあるか知らないけど、次回はあなたもどうですか? と言いつつ、「『怪奇!大東京妖怪ゾーン』のラスト、宇宙人になった主人公がこっちに(読者の方に)振り返ってみせるような描写があったら、本当に嫌だっただろうなあ」としみじみ思ったので、以上、書いておく。