バトルタワーのライコウと、スカーレット・バイオレットDLC『藍の円盤』に寄せることについて

 ポケットモンスタールビー・サファイアに登場する施設に、バトルタワーというものがある。

 ポケモンというゲームは基本的に、レベルさえ上げれば割と力押しでエンディングまで行けてしまう。ただ、対戦におけるエンドコンテンツ的な要素が強いバトルタワーでは話が別で、技の構成やポケモン同士の相性・役割の補完など、かなりシビアに考えないと先に進むことができない(厳密には、対CPUでほぼ100%勝つための構成と、対人の構成もまた別だが)。

 例えば、ストーリー本編で愛用し、無双してきたポケモンだとしても、タワーでは行程の30〜40%ぐらいで超えられない壁にぶつかって永遠に跳ね返されるつくりになっている。ここから攻略を続ける場合、イチから何体も対戦専用のポケモンを育て直すことになり、大変に面倒だ…なのだが、一方でポケットモンスターというゲームは、ある意味で「ここから」でもあるのだった。

 

 20年近く前、まだ高校生だった頃、このバトルタワーに関する印象的な記憶がある。

 タワー攻略は35連勝が最初の大きな区切りであり、配置されたボスキャラクターを倒すと、次は70連勝、それから100連勝の記念品、最後はどこまで連勝を伸ばせるか、という話になる。その間、CPUが敵として使うポケモンはどんどん強く、えげつなくなっていき、中には運ゲー上等ではじめからこちらとまともに勝負する気なんてないような、製作者の悪意が凝縮されたようなポケモンも登場する。それをかいくぐり、タワーを上に、上に登っていく。

 おそらく、連勝数が60~70を超えたあたりだったような気がするが、CPUが出してきたポケモンを見て、思わず「えっ」と声が出た。相手がライコウを出してきたからである。

 当時、自宅にインターネット環境がなかったため、紙の攻略本と手探りでここまでやってきた俺は、まさかライコウが出てくるとは思わず、GBAを手に少し固まってしまった。

 

 ライコウというのはルビー・サファイアのひと世代前、金銀に登場する伝説のポケモンである。ゲーム中には一匹しか出現しない=一匹しか捕まえられない、特殊な立ち位置のポケモンで、ゲーム内の敵キャラクターが使用することもない。

 言い換えると、ポケットモンスターのゲーム世界において、ライコウのようなポジションのポケモンを使うのは、主人公であるプレイヤーだけである。その原則の外に出るには、自分以外のプレイヤーと通信する=文字通り世界の境界を超える必要がある。

 

 「おお、タワーをここまで登ってくると、敵がライコウを出してくるのか…」

 実際、制作側からすれば、単にステージの難易度を上げて敵のパターンにバリエーションを持たせるための方策に過ぎないだろう。ただ、妙な興奮があった。

 

 あれから長い年月が過ぎ、当時の高ぶりを考えてみると、どうやらいくつかの感情に分解できるように思える。

 

 一つには、大げさに言えば、ポケットモンスターというゲーム世界を覆うテクスチャーを破って、はぎとってやった、という、どこかうす暗いものがあったと思う。

 ポケットモンスターというゲームは、奇しくも初代の赤緑から、特定の手順でコマンドを入れることで、(絶妙にプレイ続行の余地を残しつつ、)バグを意図的に呼び込めるという、当時の子供にとって、自分の手で一つの世界を破壊する原体験になるような作品だった。

 もちろん、俺がタワーで出会ったライコウは正規の仕様なわけで、本質的にバグとは違う。

 ただ、本来なら主人公=自分以外は連れていないはずのライコウを、なぜかNPCがしれっと使役しているという風景に、整然としたゲーム世界の破れ目をのぞいた感覚が、赤緑のときと同じく一瞬よみがえった気がした。

 

 もう一つあったのは、上で書いた世界がほつれる感覚とは反対に、物語があたらしく再構成される感覚だったような気がする。

 ポケットモンスターの本編における大きな目的の一つは、最終盤にあるポケモンリーグというボスラッシュで連勝し、最後にラスボスであるチャンピオンを倒して、自分が新しいチャンピオンになることである。

 この苦難と感動の行程は、しかし、そのあとに始まる対戦用ポケモンのレベル上げという段階に入ると急激に色あせてしまい、ポケモンリーグのボスたちを含め、旅の中で出会ってきた強敵たちは、最終的には経験値とお金を供給するための作業の一部になってしまうのだった。

 ゲーム本編のクリア後、他のどのNPCも持っていないような、強力で変態的な構成のポケモンを連れて、ボスキャラクターが発するセリフをAボタンでポチポチ処理しながらレベルを上げるというのは、当時はなかなか孤独な作業だった(いまなら、SNSとか動画配信とか、いくらでも並行してできることがある…)。‘

 そういう無機質になったゲーム世界において、バトルタワーに唐突に現れたライコウは、例えるなら「ポケモンリーグをとっくに突破したキャラクターたちが実は世界に大勢いて、そいつらは下界には目もくれず、延々とこのユートピアで勝負に狂っている」的な、マンガの新章のような新しい物語を錯覚させた。もちろんそれも、いつかは色あせ、敵が繰り出すライコウも他の伝説のポケモンも、タワー攻略のために淡々と処理する記号になってしまうのだけども。

 

 三つ目の興奮は、二つ目と似ていて、少し違う。

 二つ目が物語の再構成なら、三つ目は物語からの解放だったような気がする。

 伝説のポケモンを唯一連れて歩けるのは主人公の特権だが、同時に、大げさに言えば、主人公だけに負わされた宿命だった。強烈な才能であると同時に、世界を救う英雄の義務、さらに言えば呪いであり、どこかで主人公をさいなんでいた(かもしれない)。

 そのときに出会った、「あれ、こいつもライコウ連れよるわ…」という体験。

 もう、自分だけがヒーローじゃなくてもいいんだな。

 なんというか、そういうことである(かもしれない)。

 

 ポケットモンスターというゲームは、街と街を旅しながら合間でマフィアをしばくというジュブナイルから始まった。

 当時は、ボスキャラクターにあたる各街のジムリーダーも、子どもの目から見る「大人」の印象を上手いこと再現しているというか、旅を続けるために街を去っていく主人公に対して、ジムリーダーは街に残り、以降は物語にそこまでからんでこないところに、成人や自分よりも成熟した青年たちの責任感みたいなものが漂っていた(当時はまだ、各キャラクターを深堀りする開発リソースや容量がなかったからと言えばそれまでである)。

 

 以降も、シリーズ本編において、青春に入るよりもちょっと前ぐらいの子どもが冒険の旅に出る、というフォーマットは変わらないが、物語の規模は段々大きくなり、主人公が背負うものも重くなっていく。

 ルビー・サファイアは世界の地表や海が広がり、最後は移動できるマップまで変形してしまうような話だし、時空間がテーマになることもあれば、主人公の戦いに人類の存亡がかかることもあった。

 

 実は俺は、ポケットモンスターというゲームが、もしも初代から連綿とジュブナイルを一つのテーマにしているなら、シリーズの物語が壮大になる一方なのは、そこまで食い合わせがよくないんじゃないか、と思っている。

 なぜかというと、もしも世界の命運を託される条件に、何か特殊な才能や物語上の幸運(or 不幸)なタイミングがあるとして、主人公が少年/少女である必要性は、相対的にどんどん小さくなってしまう気がするからである。

 一番最初の、「子どもが旅に出て悪い大人を懲らしめつつ、最後はライバルの友だちと決着をつける話」に対して、「無二の才能を持つ誰かが偶然アクシデントに巻き込まれて、最後は世界の危機を救うことになる」、それが子どもの物語である必然性って、商品としてキャッチ―だから、以上の何かであるのか? とか考えてしまう。

 そして、ライコウどころか、世界の摂理自体に干渉できるような神に近いポケモンに好かれるというのは、他の誰にもない選ばれし才能以外の何物でもなく、これが俺の中では、子どもの冒険というくくりとはうまく接合できなかったし、どこかで乗りきれない、押し着せられた宿命に感じるようになったような気もする。

 ただ、これは俺が30半ばを過ぎたオジサンが物語の構造を斜めで見たときの感想で、ルビー・サファイア以降の作品にはじめての体験として接した子どもたちが、物語に自分を投影して夢中になった、としてもおかしいところはまるでない。

 

 その俺が、2022年に出た最新作のスカーレット・バイオレットの物語に完全にノックアウトされた。

 自分でも意外だし、一方で、「このストーリーだからこそ」とも思う。

 正直にいうと、ポケットモンスターのストーリーにはもうあまり期待していなかったのだが、本当に久しぶりに「いいな」と感じてしまった。

 というか、赤緑をプレイしていた子どもの頃の楽しみ方は、没入が強いが故にしみじみ感じ入る感じでもなかったので、「いい話だった…」という満足感は、むしろはじめての経験かもしれない。

 

 先に書いておくと、スカーレット・バイオレットの主人公も、別の時間軸からやってきた、物語の進行とともに地形を攻略すべく自在に変身できるようになる、非常にスペシャルなポケモンを連れるようになる。

 そういった、過去作と同じ無二のギフテッドでありながら、それほどギラついていないのは、スカーレット・バイオレットにおける主人公の物語が、仲間たちのストーリーと関わり合いながらできているから、ある意味、他者の物語の「余白」に成立しているからだと思う。特に、ポケモンリーグのチャンピオンを目指すという過去から続いてきた主軸を、いくつかあるストーリーの一つとして相対化し、主人公を孤高のチャンピオンとしてではなく、その権化のような別のキャラクターに伴走させる役割に変えたのはすごいと思った)。

 今回の主人公は、とにかくまあいいやつで、彼/彼女の活劇は本人の才能や幸運というより、仲間を助け、励ます中で生まれたものという印象がすごく強い。

 最終章でさえ彼/彼女は仲間と一緒にいて、どうしてもエンディングは壮大になったけど、それは他の仲間がそれぞれの役目を負って果たしたように、主人公には伝説のポケモンと一緒に一つの仕事をするという役割があり、その結果として果たされた、という感じだった。

 あの四人で行って・帰ってきたことで、ポケットモンスターは主人公を英雄の宿命や孤独から解放したように、俺には見えた。だから、すごく感動したのだ。

 

 ここまでが長い導入で、何が書きたいかというと、今秋から配信されているスカーレット・バイオレットのDLCのことである。

 なぜスカーレット・バイオレットのDLCかというと、「一つの才能として伝説のポケモンに好かれる『持てる(モテる)者』」としての主人公と、「持たざる者」の悩みの対比が、ここにきて鮮明に描かれているからである。

 ゲームとしてのポケットモンスターは、実はこの点について誤魔化さずに、過去作を通じてずっと描き続けている。つまり、「ストーリーにおいて伝説のポケモンを連れてチャンピオンになることが宿命づけられた主人公に対し、必然的にそれに敗れていくライバルたちは(実は、現実世界の俺たちの多くの分身たちは)、世の中のどこに自分を位置付けるのか」というテーマである。

 

 才能が一つのテーマとしてどうしようもなくフォーカスされるなら、敗れた者についてもボカさない、ポケットモンスターというゲームが、好きは好きではある。ただ、スカーレット・バイオレットは(勝手に)、今回はそういう物語からズレます、という話だと思っていたので、DLCの展開は少し意外だった。

 そんな、才能にまつわる残酷な対比がうかがえるDLCの後編となる『藍の円盤』は今月、14日に配信された。

 持てる者/持たざる者云々という見方は勝手に俺がしているだけだが、仮にそこにDLCの重要なポイントがあるなら、「どこに着地させるのだろう? 」という興味は尽きない(プレイ前である)。

 歳をとると、フィクションで親身に感じる対象も、自分の子どもだったら…という目線で見てしまうのも、どうしても主人公よりはスグリの方である。スグリ君が、苦しい道でも、日が当たらなくても、充実した道を歩けるといいと思っている。