はじめに
映画のスタッフロールを観るたびに、「映画って、ほんとに色んな人が協力してできてるんだな」と思う。
「◯◯監督最新作」とくくられがちであるこの芸術が、実は監督の下の制作チームを含めて構成されていて、各チームにはリーダーがおり、それ以外にも広報、プロデューサーで成り立ってることが、スタッフロールを見るとよくわかる。
…ということを書いておきながら、俺は映画の制作体制にあまり興味がない。
そういう楽しみ方や興味があること自体はわかる。
単に、自分が何かの作品を好きになる過程で、そういう情報がなくても好きになれるので、あまり関心がないということである。だから、監督の周囲との人間関係とかも興味がない。
そういう前提で感想を書く。
あと、作品を観る前にこんな記事を読んだ。
「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」。
別に、「訳がわからなく」てもいいらしい。公式がそう言っていると安心する。
ネタバレなしの感想
上映開始から1ヶ月近く経ってネタバレなしもクソもないものだけど、一応、先に詳細を伏せた感想を書いておく。
面白かった。
上でも紹介したが、訳がわからなくても別にいいらしく、実際のところ俺も、「よくわからんな」と思いながら観ていた。
同じ「訳がわからんな」という映画でも、最近観た中では『TENET』は相当苦痛だったのだが、何が違ったのだろうか? (もう、最近でもないか)
たぶんだけど、『TENET』が作品ルールの理解を前提として視聴するように求めていたのに対して、『君たちはどう生きるか』は、はじめから、世界観の一貫した説明がつかない(つける必要がない)ものとして示されていたから、という気がする。
要するに、「訳がわからないまま観てればいいのね」という前提で観られたのがよかった。その上で、自分なりに理解できる説明を考えたり、それもできないところは、印象的なところを単に楽しめばいいらしいぞ、と。
少し先走るが、俺は『君たちはどう生きるか』という作品のテーマ自体が「訳のわからない中で自分なりに現実を整理して取捨すること」にあると思っている。
そういう意味で、自分がいま映画を観ながらやっていることと、映画の伝えたいこととが、上手く重なったような気がする。
いずれにしても、訳がわからなくていいらしいので、理解できるかどうかを観る前に不安に感じなくてもいいと思う。一方で、意味がわからなくてつまらなかった、という感想ももっともだ、とも思っている。
「訳がわからなかった」ところの話 ①
以下、詳細なネタバレを含む。
訳がわからんと言いながら、じゃあ、それはどこだったのか、ということを書く。
『君たちはどう生きるか』で俺が「訳がわからん」と感じたところは、おおまかに言うと二つに分かれる。
一つ目は、世界観の矛盾(というか、未整理の部分)。
二つ目は、キャラクターの行動やストーリーについて、「なぜそういう展開になる?」と混乱した部分である。
まず、一つ目の「訳がわからん」である、世界観の矛盾から書く。
俺は、『君たちはどう生きるか』の世界観はいくつかの点で整理ができていない(あるいは、そもそもしようとしていない)と思う。
例えば、主人公・眞人が異界で出会ったワラワラという存在について考えてみる。
ワラワラは、産まれる前の魂であり、異界を上に登って眞人たちの世界に移ることで人として産まれるという。「なるほど、そういう設定なのか」と観ていて思う。
しかし、そのあとで、身重である主人公の継母(ナツコ)が異界で出産をひかえている描写が出てくるので、「おや?」と思う。
ワラワラ=人間の魂が人として産まれるためには、眞人たちの世界にわたる必要がある。ということは、少なくとも異界は、人間を産んだり産まれたりするための世界ではない。
しかし、ナツコは異界で出産を控えているようだ。これはおかしいぞ、と思う。
異界における「ばあやの人形」の扱いもよくわからない。
眞人と一緒に異界に入ってしまったキャラクターに、疎開先にいた大勢のばあやの一人・キリコがいる。
しかし、異界の中でキリコ自身は描かれず、代わりに登場するのは「若いキリコ」、それからキリコの人形である。
キリコの人形は眞人が持ったまま、異界から眞人たちの元の世界に持ち出される。それと同時に、人形はばあやのキリコになる(ばあやに戻る?)。
つまり、人形=ばあやのキリコ、ということになる…はずなのだが、ややこしいことに、異界にはキリコ以外のばあやの人形も登場する。
眞人と一緒に異界に入ってしまった(人形になってしまった?)キリコとは違い、他のばあやたちは元の世界で普通に生活している。しかし、異界にはそこに迷い込んだキリコ以外のばあやの人形も出てくる。
もしも眞人が、キリコ以外のばあやの人形を異界から元の世界に持ち出していたら、人形がばあやになって、何人かのばあやが二人になってしまうのか?
まさか、そんなことにはならないはずだ。これも、なんだかおかしいな、と思う。
もう一つ、矛盾とまではいかないが説明が不十分だな、と思う点がある。
そもそも、観客は眞人がやって来た元の世界と異界とを、どういう構造で観たらいいんだろう、ということである。
眞人が異界から元の世界に戻ってくると、異界から一緒に出てきた人間インコたちは普通の鳥になる。上で書いたとおり、キリコの人形もばあやのキリコになる。
ここだけ見ると、眞人の元の世界は魔法を解く世界=現実世界であり、『君たちはどう生きるか』は現実世界と魔術的異界の対比になっているように感じられる。
しかし、実は元の世界にも魔術の一部は存在する。なにしろ、異界の存在であるはずの青鷺は元の世界を自由に飛び回っているし、青鷺の羽で作った矢は、元の世界でも超常的な力を持っているからだ。
そう考えると、現実対魔術という対比ではなく、「ほぼ現実(でも、やや魔術的)」と「完全に魔術的」という方が正しいように見える。この場合、世界同士の対比というより、並列関係という構造の方がしっくりくる気もする。
対比か、もしくは並列か。
どう理解するのが正しいのかはわからない。ちなみに俺は、眞人が異界に入る前に路上で登場した戦車がヘンテコに小さいのを見て、「ああ、ここも史実の世界ではなく架空のファンタジー世界なんだな」と思っていた。
こうしたことを受けて俺が感じた結論は、「この作品の世界観に整合性を求めてもあまり意味がない」というものだった。
実は本来、俺は物語の整合性にかなりこだわる。筋道が通っていない展開があったり、説明が不足している部分があると、強いストレスを覚える。
そのため、「どうやらいい加減に観ていても問題ないらしいぞ」という結論に至ったあとも、楽しんで観られたのは我ながら意外だった。もしかすると、一つ一つの場面が面白くて見続けてしまったのかもしれない(大きな魚をバリブリと解体する場面とか、人間インコのかわいさとか)。
眞人が異界に落ちてきたばっかりのとき、孤島の上にある巨大な岩室のようなものと、「墓の主」という非常に意味深なワードが登場する。
しかし、これらが何なのかは明かされない。最後まで観ていてもわからないんである。
こういう存在が出てくる作品の中で、整合性を気にしてもしかたがないんだろうな、とあらためて思う。墓の主という存在自体が「細かいことを気にするな」という作者からのヒント…とまでは言わないが、俺にとっては「じゃあ、あんまり考えても意味ねえな」と思うきっかけになったのは確かだった。
「訳がわからなかった」ところの話 ②
続けて、二つ目の「訳のわからなさ」、キャラクターの行動やストーリーについて、「なぜそういう展開になる?」と混乱した部分について書く。
なぜ、あのキャラが、あんな行動を取ったのか。
あるいは、なぜ、ああいうストーリーの進行をしたのか。
先に書いた世界観の矛盾が、あんまり深く考えても仕方ないんだな、と落ち着いて処理できたのに比べると、こっちの方が受け止めるのにエネルギーが必要だった。
逆に言えば、いちいちマジメに受け止めて、その謎を解こうとしたのである。
これは、「なんでこうなったか、観ている方々はわかるかい?」と挑発されたと感じたからかもしれない。実際はどうにせよ、謎を感じれば解こうとせずにいられない、観客というのは傲慢だな、と思う。
「なぜこんな展開になる?」の一個めは、疎開先の子どもたちとケンカになった眞人が、ケンカの帰り道で、石で自分の頭を割る場面である。
眞人がいきなり、自分の頭に石を勢いよく打ち付ける。ごぽ、どぱぁ、という非常に特徴的な液体の質感で、鮮やかな血が流れるシーンだ。
一応、簡単な説明はできる。
眞人が石で負った大怪我を見て、眞人の父親は地元の子どもたちのせいだと誤解し、その責任をとらせようとする。眞人は加害者たちへの嫌がらせのためにわざと自分を傷つけた、という解釈だ。
眞人自身も、物語の終盤で自らの悪意と石の関係について触れているため、おそらくこれが正解なのだろう。
それでも、俺はやや腑に落ちなかった。なぜかというと、眞人という少年が繰り返し、勇敢で誠実なキャラクターとして描かれるため、陰湿な悪意とはあまりかみ合わないと思ったからだ。
うーん? と考えた結果、個人的に納得がいく解釈としては、あの自傷は自分への制裁でもあったんじゃないか、と思う。
眞人は田舎に来る前に火事で母親を亡くしている。眞人は火傷覚悟で現場に向かったのだが、結局、母の命を救うことはできなかった。
その後、地元の子どもたちにいじめられたとき、眞人はもしかすると、多人数である彼らにかなわないまでも、せめてズタボロになるまで抵抗して、あの火事から「生き残ってしまった」自分を納得させるところまで戦いたかったのではないか。
しかし、結果としてはあっけなくやられたばかりか、負った傷といえば、ぱっと見ですり傷だけという、ある意味でもっとも情けないことになってしまった。
そういう自分への不甲斐なさ、怒りが、石で自分の頭を割るというかたちになった、と俺は解釈した。
「なぜそういう展開になる?」の二個めは、物語の最後の最後、エンディングの扱いである。
眞人が異界から帰ってきたあと、ストーリーは急激な速さで閉じられてしまう。俺はここに大きな違和感を抱いた。
眞人が異界から元の世界に戻り、画面が暗転すると、次の場面ではナツコが出産を終えて家族が増えており、一家は疎開先の家を発つ。
ここまでわずか数分。そして、『君たちはなぜ生きるか』は、ここで唐突にスタッフロールを迎える。
不可解と言っていいぐらい、最後にここまで早く物語をたたんだのは何が理由なのか?
なぜ、異界から帰ってきた後の眞人の生活は、ほぼ完全に省略されてしまったのか?
確かなのは、製作者側が「異界から戻ってきてからを描く必要はない」と判断したことだろう。言い換えれば、描くべきことは、ここまでで全部描かれた、ということになる。
では、エンディングを迎える条件を満たす「描くべきもの」とは何だったのだろうか。
うーん、と考えて、大事なのはこれかな、というものがいくつか思い浮かんだ。
まず、眞人に深い悲しみを負わせることになる母親・ヒサコの死。
そして、ヒサコの若い頃の姿と思われるヒミに異界で出会い、冒険を共にして、最後に「あなたのような子を産むなんて幸せ」という言葉をかけられたこと(これは、文字で起こすとなかなか……だ)。
それから、異界への通路である塔の崩壊。
最後に、映画につけられた『君たちはどう生きるか』というタイトル。
どうも、この辺りを整理すると、最後の急速なエンディングの理由がが理解できるような気がする。
『君たちはどう生きるか』
ベタな言説だけれど、「過去の出来事を変えることはできないが、その意味を変えることはできる」という言い方がある。
自分の記憶にどういう意味合いや価値を与えるかは、ある意味で個人の人格そのものだから、簡単に変えられない。
それでも、いくつかの方法で過去の意味を上書きすることはできる。強烈に印象的な物語に触れて、人生観をゆさぶられる体験は、そのうちの一つに含まれるだろう。
たぶん、眞人の身に異界への冒険を通じて起こったのは、これと同じような変化だったのではないかと思う。元の世界とは違う幻想世界を通じて、永遠に喪われたはずの母親から、自分を強く肯定してもらうこと。そういう自身の人生の再解釈だったんだと思う。
もちろん、眞人の母親であるヒサコ自身は、もう眞人に声をかけられない。言葉をかけられるのはヒサコの若い頃の姿・ヒミである。
こうした間接的で遠回しなかたちで、アドベンチャーという枠組みに込めることでようやく力を発揮する、しかし、もし願ったとおりに機能すれば現実さえ変えられるファンタジーの力。それがあそこで描かれていたんだと思う。
そのファンタジーの大元である塔は、しかし、物語の最後に壊れてしまった。
肝心なこととして、塔とそこで生まれた物語は、眞人にとっては、第三者から与えられたものだ。
その塔が壊れてしまったのだから、眞人はこれから自分の力で、この世界、不条理で残酷で、幻想的な異界とは違う意味で「訳がわからない」世界に対して、自分なりに筋の通った、もしくは筋は通らないけど自らを鼓舞できる物語を考えなくてはならない。
塔なしでどうやって生きていくか。
この世界に筋を通すか。
だから、『君たちはどう生きるか』、なのだと思う。
ただし、実際のところ、眞人が「どう生きたか」は、塔から出て以降の展開が急速にたたまれたため、まったくわからない。
そう、あまりに唐突なエンディングの謎が、まだ残っているのである。
俺は、この理由は、話の最後に作品の視点が、眞人から別のところにズレたからだと思っている。
塔の崩壊を体験し、「塔の消失以後」をどう生きるか問われるのは眞人だけではない。ある意味では観客である我々も同じである。
眞人のその後をあっけなく省略し、「どう生きるか」という大切な問いを不自然なくらい宙ぶらりんにさせる。これは、眞人の次に俺たちに向けて、「どう生きるか」という問いが移ったということなのではないかと思う。
塔を管理していた「大叔父」が、映画を観ている俺たちの世界における誰のことだったのか、あるいは、塔が何かの組織の暗喩なのか、俺はその答えは別にわからなくていい。
ただ、とにかく、この映画には無数の幻想世界の巨大な中央ターミナルである塔が登場し、そして、ぶっ壊されてしまった。
塔を作り、そして壊した物語の作者が「じゃあ、これから『君たちはどう生きるか?』」と観客に質問する……、まあ、そういう権利がないこともないよな、とは思う。
これが、俺の『君たちはどう生きるか?』の解釈であるので書いておく(実際のところ、「塔」が一つぶっ壊れたところで、同じようなものが俺たちの世界には他に無数にあるとしても)。
君たちはどう物語を楽しむか
ここまで書いて、俺の中では色々と腑に落ちた。
書いていて楽しかった。
気になっていることを整理するのは楽しい。
整理しながらうまい説明が思いつくと、つい、「きれいに整理できること」と「良い作品だったこと」をイコールで結びつけたくなってしまう。
別に、「訳わからんけど楽しかったな(つまんなかったな)」というのだって立派な感想のはずだ。
それでも、俺の観測範囲内で、『君たちはどう生きるか』は自分だけがたどり着いた真実を示す考察ゲームの中で語られている。俺だって、「俺はこう感じた」という言葉を、「俺は作者の思考を理解しきって真実にたどりついたぜ!」と言い切る傲慢さを抑えて、なんとか小声で発している。
「私はこう読み解いた」というファッションが幅をきかせる世界において、「別に楽しけりゃ良いじゃん」という意見は、一見有効なアンチのように見えて、実は別のファッションとしてしか、意味を持ち得ないのかもしれない。
それが製作者の望んだリアクションというか、望んだ世界だとは思えない。
その点でも俺たち(のうちの一部)は、自分たちがこれからどうやって生きて(物語を楽しんで)いくかを考えるときが来ているのかもしれない、と思う。
※ この記事は、現代で「物語を楽しむとはどういうことか」を考えるために書いた、何回かのうちの第1回である。次があるかどうかは神の味噌汁。