セックスの同意について

※ この記事では暴力と性を題材にしています。

 

ニュー・シネマ・パラダイス』の編集フィルムの過激なバージョン

 映画を観ていると、ときどきセックスのシーンが出てくる。その中でも、個人的に印象に残っているものは次の作品で描かれている。

 『ジョゼと虎と魚たち』。

 『そこのみにて光輝く』。

 『オールドボーイ』。

 『薔薇の名前』。

 『弓』(はちょっと違うか)。

 ドラマだけど、最近の『白い巨塔』。

 

 共通点を挙げると、割とみんな追い詰められていることが多い。例えば『そこのみにて光輝く』の綾野剛池脇千鶴とか、両者ともに世の中的にどん詰まりで、目の前に現れた相手にかろうじて希望を見出した…というほどポジティブでもなく、単に飢え果てた結果、どうにかお互いに食い合っているというか。

 俺が良いと思う情交は、そういうダウナーな感じのものが多い。それは一種の衝動だったり、感情の決壊だったりする。そのため、言葉は交わされず、合意があるとすれば、声に出されないその場の雰囲気でなされている(ことになっている)。

 それが情緒だと俺は思うし、言葉という理性の象徴を欠くことでしか表現できない哀愁があると思っている。もしも、「よろしいですか」「よろしいです」の一幕がはさまれたら、これらの場面が持つ雰囲気はかなり損なわれるだろう。

 例えば、「映画の中では省略されているけど、画面に映っていないところで言葉がやり取りされたのですよ」という解釈でもダメなのだ。言葉による意思確認が欠如している、ということが重要なのだから。

 でも、現実はそうではなくなりつつある(と言えるほど、そもそも、俺はみんながどうやって相手と関係を持っているのか知らないが)。そして、それはやはり、進歩と呼ぶべきだろう。

 

猫を焼く

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 スペインで、相手からの同意がない性行為をすべて性的暴行として罪に問うことができるようにする法律の改正案が可決されたという。

 性的暴行の容疑を取り扱うというのは、それなりに特殊なシチュエーションだと思う。なので、「じゃあ、いちいち関係もつ前に念書交わすのか」とか、「こんな法律をつくって、どれだけ女の側を言った者勝ちで優遇するんだ(こういうことを言う人は得てして女の側だけが悪用すると言う)」というのは、反論として少しズレてるな、と感じる。

 性暴力の加害者として訴えられる状況なんて、そうそう起きることではないんだから、そんなレアケースを恐れて法律に反対するのは重箱の隅なのでは…。

 そう思うのは、俺が男だからそう思うだけなのか。女性の6.5%は、一回以上男性から無理やりに性交された経験があるという統計がある。

  つまり、女性たちの一定数が、自分の身に起きたことを暴行として認識しており、それが立件されれば、スペインだったら犯罪ということだ。

 ん? 統計的に男性が加害者であることが多いということは、スペインの法律も基本的に、その被害に遭った女性を救済・保護するために運用されるのか。

 じゃあ、「このルールで相手を陥れて得するのは女ばっかり」というのも、あながち間違いじゃないのかもしれないな、と統計的に加害者であることが多い性別の俺は思う。

 よくわからないが、「じゃあ、あなたの性別を保護する法律を整備するから、自分と同じ性別の十数人に一人が性暴力に遭う社会で暮らしたいですか。別に、法律を悪用しようと思えばできますけど」と聞かれたら、男性はどう答えるだろう。おそらく、多くが「暮らしたくない」と言うのではないかと思う。

 

 その昔、ヨーロッパでは娯楽として猫を火に投げ込み、猫が苦しんで踊るのを見て楽しんでいたという。現代では猫を祀る(?)のんきな祭りと化しているベルギーのイーペル猫祭りも、その起源は高所から猫を投げ落として殺す行為にあったらしい。

 色々な文化・風習があるにしても、現代社会で動物を苦しめて喜んでいたら批判されて当然で、かつては当たり前の楽しみだったものも、徐々に変わっていくのだ。

 例えば、俺は『ガキの使い』で浜田が理不尽に後輩芸人にビンタを張るのが好きなんだけれども、女性芸人の髪を引っ張ったり胸を揉んだりする場面ではもう笑えないだろう。

 それは、ときどき耳にする「昔のテレビは面白かった。いまは規制ばかり」という意見では擁護することができないと思う。失われた「猫焼き」と同じだからだ。

 人間は、もうそういうものを面白いと感じないところまで、進歩しているのだ(じゃあ、男性芸人なら先輩にビンタ張られてもいいのか、という批判はあるだろう。実際、今の若い人はもう、あれを観ても笑わないのかもしれない)。

 

 新しい世界では、俺が上で挙げたような映画のシーンは情緒でも悲哀でもなんでもなく、単なる犯罪であり、それで映画そのものまでが古臭い遺物になるのかもしれない。どうなるかはわからない。

 以前、人類最古の文芸作品と呼ばれる『ギルガメシュ叙事詩』を読んだとき、その野蛮な価値観には確かに時間の流れを感じた覚えがある。ただ、一方で、変わらないと思った部分もあった。

 自分にとって大切なものが、世界の気まぐれによって永遠に失われたとき、人間は自分がこれまでしてきたのと同じことをただ繰り返し、そのむなしさを埋めることしかできない。物語で描かれていたそうした人生観は、数千年のときを超えていると感じた。

 俺の好きな映画を、次の世代や、その次の世代の人たちが観たとき、「あのシーンは今だったら犯罪だし、全般的に古臭いけど、◯◯の場面だけはよかったな」と思うだろうか。だったら、嬉しいと思っている。