子どもを見たときと映画の暴力シーンで笑うことについて

 以前、猫の柄はなぜ頭や背中についていてお腹や足先にはついていないのか、というネットの記事を見ていたとき、「絵の具を上から垂らすようについていくものだから」と説明してあって、もう一つ腑に落ちなかった記憶がある。

 納得いかなかったのは、これが解説しているようでいて、じゃあなんで絵の具を垂らすようについていくのか、という新しい問いを生むだけだからで、世の中に割とこういうことが多い気がする。説明しているようで説明になってなくねえか? という。

 もちろん、なんでも突き詰めていくとアリストテレスの第一原因にぶつかってしまうのだ。

 だから、説明がとぎれるのは最終的にはしかたがない。もう少し頑張ってくれ、ということだ。

 

 人間の感情というのもかなり正体というか、理由や出どころがよくわからなくて、嫌なことがあって悲しいとか、怒っているとか、「え? でも悲しみとか怒りとかってそもそも何?」と考え始めると、かなり足元が怪しくなってくる。

 悲しみって、何も手につかなくて自分がここにいる理由がわからなくなる感じ、とか。

 怒りって、自分をそうさせた対象を自分ごとぶっ壊したい感じ、とか。

 

 まあ、言って言えないことはない、説明はできるが、どうもよくわからんな、と思う。

 中でも正体が一番わからないのが笑いで、この感情は定義がかなり難しい。笑いは動作なので、正確に言うと、その根本にある「面白い」という気分って何? という。

 辞書で引くと「滑稽」とあり、今度は「滑稽」を引くと、「笑いの対象となる」とある。

 おいおい。一周しちまったな。

 

 昔から自分でもなんで笑ってるんだろう、と思うものに、子どもを見かけたときと映画の暴力シーンがある。

 俺は北野武の『ソナチネ』という映画がすごく好きなのだが、その中でヤクザである北野が自分の意に沿わない雀荘のおっさんをクレーン車で釣って海に沈めてしまうシーンがあって、観るたびに毎回笑う。

 まあ、あれはかなり笑わせにかかってる感があって(ただ、その「感」もちゃんとは説明できないのだけど)、そこまで不思議ではない。

 しかし、『凶悪』という別の作品でリリー・フランキーが人をアルコール中毒に見せかけて殺そうとしているときに相手に暴力的に酒を飲ませている場面とか、『渇き』で妻夫木聡役所広司の車で思いっきりはねられたときに笑ってしまったのは、我ながらよくわからなかった。

 …と言いながら、割とそういう人はいるんじゃないかなー、という気もしている。

 一説では、自分の理解を超えたものを見たときや恐怖を感じたときに、自分の価値観を正気の側にピン留めするために人は笑うのだそうだ。

 

 そして、子どもを見たときにも笑ってしまう。5歳ぐらいまでの子どもを街で見かけると、俺はほぼ確実に笑う。

 ほほえましい、というも当然あるんだろうけど、もう少しうす暗いものを感じる。

 どことなく、映画で人間が思いっきりぶん殴られたのを観たとき、気づくと笑っているのと近いものを感じる。

 

 なんとなくだが、俺にとって子どもというのは「見てはいけないもの」なんだと思う。自分を居心地悪くさせるものなんだろう。

 それは罪悪感とか恥じらいなのかもしれない。

 何に代えても守らないといけないものが、自分では自分の意味を理解せずにそこにいるのを見て、大人は見守ったり、場合によっては保護しないといけないんだけど、究極的にはこの世界で起きることから完全に守ることはできないので、それで俺は笑うんだと思う。

 そういうことである。オチはない。