目を回すことについて

 選挙に行ってきた。

 

 この政党とその候補者だけには当選してほしくないという、積極的な否定の感情を持っているところがある。

 一方で、比較的よい印象を抱いている党に対しても、投票期日が迫り情報が集まってくる中で「おや?」と感じる部分が出てきて(ネットは目に入ってくるストーリーが多すぎて困る…)、ここ最近、こころおだやかに投票をするのが難しい。これで、票を投じたからといって当選するかどうかまた別の話、というのも難しい。

 

 また、同時に裁判官国民審査もあったので、ある理由に基づいて数名の裁判官に「×」を記入した。

 書きながら、でも彼らが法のプロフェッショナルであることは間違いないのだ、と思う。

 そういう人たちに「×」を入れるのは、法律の解釈に基づくものではあり得ない。

 いや別に、専門的な知識を持つ誰かが、裁判官たちが法的に誤っているとして断じることはあるだろうけども、少なくとも俺には、法律に関する見識はない。

 では何に依っているかといえば、市民感覚や良識と呼ばれるものになるだろう。

 (ある意味で悪名高い)裁判員制度も、こうした法律外の見識を持ち込むことを目的として導入されたと理解している。

 でも、それは本当に正しいことなのだろうか?

 そもそも、専門的な知識を持たない一般人による恣意的な判断が過剰な影響力を持たないように、極端に言えば「私刑が起きるリスク」を回避するために、裁判というプロフェッショナルに限定されたシステムが設けられているのではないのか?

 俺には法律と外界との関係性はわからないけれど、裁判というのはそういう独立した仕組みだと思っていた。

 というか、そうあるべきだと思っている。思っているからこそ、いわゆる市民感情に基づいて裁判官を評価することに矛盾を感じざるを得ない。

 しかし、では「法的に彼らが誤っていると判断できるものだけが『×』を投じよ」という解釈であるなら、一体、国民の何割が自信をもって審査ができるだろう。

 

 そういうわけでよくわからない、と思いながら「×」を書いてきた。

 よく知られていることだが、裁判官審査で罷免になった事例は過去に一度もない。

 「これまでに例がない」と「これからも発生しない」は厳密には因果関係がないが、可能性が低いことには間違いなく、それでも記入する意味とは…と思う。ただ、これが現実的に起きるかもしれない、となると、それはそれで真剣さの度合いが違ってくるから悩ましいのだが(じゃあ現在はお遊びでやってるのか、と言われると、それも困る)。

 

 帰りに、子どもの頃によく遊んでいた公園を通ってきた。

 広場の脇の小径を歩いていると、保育園年長ぐらいの男の子が、両手を広げて体を回転させながら楽しそうに笑っていた。

 ああやって体を回してから動きを止めると、目が回って世界中がぐらぐら揺れ動いているような感覚におちいったのを覚えている。

 それはもちろん錯覚なのだけれど、そのくらいの年齢の頃は、本当に世界全体が自分と一体になって波打っているような気がした。

 そして、それはある意味正しかったのだ。

 世界なんて本当に、多分そんなものなのだ。それを小さい子どもは信じているだけではなく、知っているのだ。

 投票しても期待した結果にならなかったり、期待した結果になっても世の中が良くならなかったり、そんな繰り返しのうちに、大人はよくわからなくなってしまうだけなのだ。

 そんな考え方だってあるだろう。

 

 ところで、10年前にはもう俺は子どもの心情を忘れて、現在のような物の考え方をしていたような気がする。

 じゃあ、お題に沿ってねえじゃねえか。その通り。すみません。

 以上、よろしくお願いいたします。 

 

 はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと