悪夢について8

 逃げ込んだ先は、真っ暗な夜の校舎の中だった。

 山の中で、猿に似た正体のわからない無数の獣に襲われて、命からがらこの建物にたどり着いた。自分以外にも十数名ぐらいの人たちが一緒に逃げている。

 校舎の一階にある教室のうちの二つに、みんな恐慌に包まれながら、半分ずつに分かれてなだれ込んでいく。引き戸になっているドアを強く叩きつけるように閉めた。

 唐突に静寂がやってくる。闇の中で、人間の荒い呼吸音しか聞こえない。隣の教室の様子も一切聞こえてこない。こちらの部屋の中にいる人たちの顔を見回した。誰の顔も知らなかった。

 じゃり、じゃ

 建物の外で小さく何かがきしむような音が聴こえてきた。あの獣たちがやってきた。敷き詰められた小石が踏まれて、音が鳴っているのだ。獣たちがこの校舎の周囲を回っている。

 じゃり、じゃり、という音は小さいが、あの動物たちは気配を殺そうとしているわけではない。あの獣はおそろしく頭がいいからだ。そのぐらいの音量を断続的に響かせることが、どれほど人間を疲弊させるかよく理解している。獣たちは賢く、同時に悪意に満ちている。

 「開けてくださあい」

 カーテンを引いた窓ガラスの向こうから声がする。獣たちが人の声を真似ている。

 「開けてくださあい」

 「助けに来ましたあ」

 嘘であると見抜かれていることを、獣たちははじめから理解している。理解して、いたぶるためだけに言っている。外から呼びかける声には、あざけるような笑いが含まれていた。

 それから少しの間、静寂が訪れた。いきなり、何か激しくぶつけるような音が教室の後方から聴こえた。

 驚いて音のあった方を見る。教室が暗くていままでわからなかったが、教室の壁際に、そのまま開けて建物の外に出られるアルミ製のドアがあった。ロックはされているが、そのドアノブが外からつかまれて、めちゃくちゃに動かされている。

 ひときわ大きい、金属の機構がへし折れた音が鳴って、ドアが開きかけるのと、ドアに駆け寄ってドアノブをつかむのとは同時だった。

 すさまじい力でドアが向こう側にこじ開けられそうになるのを、全体重をかけて引き戻す。わずかに開いた隙間から、指先が異様に長い毛だらけの手が、木の枝が伸びるようにして入ってきた。

 動物の指は音もなく、こちらの手にからみついてきた。

 くふ

 外から声が聴こえる。ドアの向こうで笑っているのだ。獣の指が、ドアノブを握りしめるこちらの指をつまむ。冷や汗が出るような痛みがやってくる。

 その気であれば簡単に折ることも、ちぎり取ることもできるだろうに、そうしない。わざと負荷が限界を超えないところでとどめている。闇の奥で獣が笑いを押し殺しているのがわかる。

 もし教室に侵入してきたら、獣たちはこちらを食って殺すだろう。しかし、その前にさんざんこちらを痛めつけるだろう。ただの捕食では済まないだろう。

 痛みと嫌な想像で汗が止まらない。やがて、わざともったいつけるように、今度も無音で指先はドアの隙間から向こうに消えていった。こじ開けようとしていた力もなくなり、ドアは大きな音を立てて閉まった。

 いったんは遠くに離れたようだが、また確実にやってくるだろう。そのときはもう、防ぎようがないような気がした。

 そのとき、ドアのこちら側の金属部分と何かがぶつかって、少し耳に障るような高い音を立てた。

 なぜか、外の暗がりで妙に慌てたような気配があった。

 その直後、再びドアを開けようとする力がかかり始めた。何か焦っているような雰囲気があったが、それだけに込められている力が大きく、もう抵抗しようがない。

 無理だ、と思ったとき、教室内の誰かが、尖ったものでドアの金属部を削るほど強く引っかいた。大きな擦過音が闇の中に響いた。

 外で、何頭もいる無数の獣たちが一斉に嫌な悲鳴を上げた。ドアにかかっていた力が急になくなる。それと同時に、遠くに走り去るような音が聴こえたのは、ドアノブを手放すだけでなく、慌てて逃げ出したものらしい。

 金属音だ、と教室の中の誰かが言った。

 確かに、はっきりとわかった。あの獣たちは金属音を著しく嫌うらしい。

 少し希望が見えた気がした。まだ外は暗いが、夜明けも少しずつ近づいている。明確な根拠はないが、朝が来れば状況は少し好転する気がする。

 それから何度か、音を殺して校舎に接近してきた獣がドアや窓を強引にこじ開けようとすることがあったが、そのたびに擦過音を聞かせて撃退することを繰り返した。

 もう少しすれば、太陽が最初の顔を出すという時刻、何か大きな音が外から聴こえてきた。

 文明的で、しかしどこか暴力的なそれは、原動機、というか車のエンジン音だと段々わかってきた。こちらに近づいてくる。わずかに薄くなった教室の闇の中で、お互いの見合わせる顔に不安の色が濃くなっていく。

 誰かが、これまでのようにドアの金属部分をこすってみた。しかし、エンジン音にかき消されて何も聞こえない。

 唐突に、獣たちに追いかけられて校舎に逃げ込んだときに、隣の教室に閉じこもったもう一つのグループのことを思い出した。そういえば、彼らはどうなったんだ?

 そのことを考え続けるより先に、裏切られた、と思った。彼らは獣と取引して、獣に食われない代わりに、こちらを売り渡したのだ。そして今、こちらの金属音から動物たちを守るために、建物の外をエンジン音で満たしている。

 怒りと恐慌に襲われ、思わず窓に近づいてカーテンを開けた。

 闇の中で、白く強烈な光が動いている。ヘッドライトを点けた車が、こちらを馬鹿にするようにだらだらと、大きなエンジン音を上げながら校舎に沿って周回している。ドライバー席には獣の黒い顔とは違う、人間の肌色の顔が見えた。

 ただ、その顔がなんだか偽物のようというか、得体の知れない違和感があった。そのとき、ドライバーが頭を動かしたわけでもないのに、顔だけがずるずるっとすべってこちらを向いた。

 それは顔の皮だった。一枚にはぎ取られた顔の皮が、何もない空っぽの二つの目の穴でこちらを見ていた。車を運転しているのは猿に似たあの獣だった。あの獣が人間の顔をかぶっていたのだ。

 獣は正面を向いたまま、見られていることに気づいたのか、笑った気がした。それと同時に、ガラスが割れる激しい音がして、窓が割れた。教室の中に転がったものを見て、石が投げ込まれたのだとわかった。確かに、これなら校舎に近づかなくても窓を壊すことができる。

 じきに、窓から獣たちが飛び込んでくるに違いない。教室の中を見わたすと、みんな恐怖を感じつつ、それでも誰も絶望しきってはいないようだった。

 空が白みつつある。もう少しで夜が明けるだろうと思った。