『現代奇譚集 エニグマをひらいて』の感想について

はじめに

 評価は次のように行います。

 まず、総評。S~Dまでの5段階です。

 S…価格、提供される媒体に関係なく手に取るべき。恐怖のマスターピース

 A…購入推奨。もしくはkindle unlimitedにあればぜひ勧める。恐い。

 B…購入してもよい。もしくはkindle unlimitedにあれば勧める。

 C…図書館で借りる、もしくはkindle unlimitedなら読んでもよい。

 D…読むだけ時間のムダ。ゴミです。

 

 続けて、本の中で印象に残った作品を評価します。

 ☆…それ一品で本全体の価格を担保できてしまうような作品のレベル。

 ◎…一冊の中に三品以上あると、その本を買ってよかったと思えるレベル。

 ◯…一冊に七〜八品あるとその本を買ってよかったと思える作品。

 

 最後に、あらためて本全体を総評します。

 実話怪談というジャンルほどネタバレがもったいないものはないので、レビューの途中でも内容が気になった方は、そこでぜひ読むのを止めて、本自体に触れてもらえれば、と思います。

 

 よければ、こちらもどうぞ。

sanjou.hatenablog.jp

 

総評

 

 

 待ち続けた続刊である。

 

 2021年の10月に、鈴木捧は『実話怪談 蜃気楼』という本を出した。

 これは掛け値なしに鮮烈で、その作家の持っているいくつかの特徴がお互いに響き合いながら、一つのジャンルの上に、引き抜くことのできない鋭く美しい針を半永久的に打ち込むような作品だった。

 ものすごく驚いたので俺はしばらく感想が書けなくて、半年間ぐらい経ってようやく書いたのを覚えている。

 

 さて、この作品を含め、竹書房では作家の単著を一年に一冊のペースで出すことが多い。

 ということは、2022年の秋~冬には、『蜃気楼』の次の作品が出てもおかしくない。しかし、続刊の知らせはなかなか出なかった。

 俺は鈴木捧のtwitterをフォローしていて、執筆そのものは続けていることを知っていた。まったく他のジャンルにいくとか、ホラーでもフィクションの方にいくとか、そういうことかもしれないな、と思っていた。

 

 そうしたら、2023年の5月になって、ついに実話怪談の新作を出すというお知らせがあった。

 今作はkindleでの自主制作になったらしいが、読者としては別にかたちはなんでもよく、また鈴木捧の作品が読めるのは本当にありがたいことだと思う。

 それが『現代奇譚集 エニグマをひらいて』である。詳しい感想はあとに回すが、とてもいい本だ。

 怪談が好きな人に薦めるのはもちろんだが、いわゆるスリップストリームと呼ばれる文芸が好きな人も魅了されるのではないかと思っている。

 

 この本はkindle unlimitedで読めます。 

 

各作品評

 ※ 『エニグマをひらいて』の特徴の一つとして、各話には番号だけが振られており、個々のタイトルがないという点がある。

 実話怪談というジャンルに慣れていない人はピンとこないかもしれないが、これはきわめて珍しい形式である。

 一応、本の最後に「仮題」が用意されており、以下の評ではそれを使った。

 ただ、これから読む人は、題名を意識しない方が先入観なく楽しめるかもしれないとは思う。

 

 1-4 背中…◯。とても美しい話。

 あとでもう少し書くが、鈴木捧という作家は、文章の意味というのとは少しだけ違う、文字自体の佇まいというか、言葉の視覚的な美しさにとても意識的な作家なのだと思う。

 1-5 名画座の魚…◯。

 1-8 幽霊…◯。後述。

 2-4 溶解…◎。作者得意の、山で見つけた得体の知れないものの話。前にも別の記事で言ったことだが、俺はこういう怪談を読むと、「得した」と心の底から思う。

 2-5 死体忘れ…◯。

 2-6 鉄塔…◯。

 3-2 ケンカ…☆。後述。

 3-4 長い手…◯。

 3-5 誘拐…◯。

 4-2 開頭手術…◎。

 4-5 撮影…◯。

 4-7 ガガンボ…☆。別に守る必要もないのだが、ホラーを生業にする人が、切り札として一回だけ使うことを許されているセリフがあるとしたら、「死にたくない」だと思う。俺が勝手に思うそんな基準において、文句のつけようのない札の切り方をした作品。

 4-8 うつる話…☆。後述。

 5-3 空き地の話…◯。

 5-4 ラーメ…◎。後述。

 5-5 イバテル…◎。同じく実話怪談作家の我妻俊樹の作品に、『死ぬ地蔵』というすごい話があって、それを思い出した。

 怪異を中心に据えたシステムというかゲームがあり、いわゆる「因習」みたいに恐れられているわけでもなければ、肝試しのようにうかれたテンションで楽しまれているわけでもなく、ただ、なんとなくそういうものとして存在している。

 異常さが日常に織り込まれた、そういうヘンテコな状態のものほど、何かのきっかけでゆらぐと強烈に暗い部分や不安なものが出てくるのかもな、と思う。

 5-7 真夏の夜の音楽…◎。後述。

 5-8 二人目の彼女…◯。後述。

 

あらためて、総評

 ものすごく良い本である。
 
 上記の【各作品評】に◯から☆を並べたとおり、本当に素晴らしい作品。
 例えば、実話怪談の本を他に20冊、30冊買ったとして、こういうことは起きない。
 繰り返すが、絶対に起きない。断言してもいい。
 そういうレベルというか、要は鈴木捧というのはそういう作家だから、としか言えないことなのである。
 
 その一方で、とても重たい印象のある作品だな、とも思う。
 例えば音楽でいったら、シンプルで低音のビートに乗って語りかけるラップミュージックみたいな、すごく内省的で、同時に、聴く側にも耳を澄ませることを求めるような感触がある。
 
 それもあって、実は自分の中で、どう評価したらいいか難しかった。
 
 俺は実話怪談というのは基本的に、そういう重たさというか、ある種のシリアスさを押し殺した方が有利になる、アッパーなジャンルだと思う。
 それは早い話、実話怪談というのが、通常の自然法則では起きないような出来事を10ページ未満の文章量で描いて、読者を怖がらせたり不安にさせたりする試みだからである。
 こういうものを書いたり読んだりするとき、論理性を大切にしたり、読んでいる側にも同様の冷静さを求めることは、「オバケ」という異常なものを演出する上で、一種の重しというか、制約になると思う。
 幽霊や怪異とは何かを深く考えたり、考えた結果を表に出したり……そういうことをやればやるほど、文章は理性的に、「重く」なって、実話怪談としてやりにくくなっていく。
 
 もう一つ「重たさ」を感じた理由に、鈴木捧という作家自身の文章が見せる特徴がある。
 鈴木捧の文章は、怪談の体験者が思ったことや、その情景を、ものすごく丁寧に描写する。
 怪異に遭った彼女/彼が何を感じ、それが起きたのはどういう場所のどんな状況で、ということを、とても緻密に書く。これはおそらく、作家自身の姿勢によるものだろうと思う。
 
 一つ指摘をするなら、起こった怪異の大小(というものが数値化できるとして)で小さいものは、怪異以外の情報が文中に増えていくと、なかなか話の中心に出てこれなくなる。
 例えば、比較対象としてわかりやすいものに、竹書房が実話怪談のシリーズとして出している『瞬殺怪談』がある。
 瞬殺、という名前のとおり、パッと読んですぐ「オバケ」が出てくる。
 そして、話が短い=情報量が少ないと、その中で一番存在感があるのは自然と「オバケ」ということになる。まるで手順を踏むように、「オバケ」が必ずその話の中心になるようにできているのである。
 
 それに対して、鈴木捧ぐらいの文章量がある場合、ささいな怪異は話の中心にならないことがある。
 『エニグマをひらいて』にも、怪談というにはストーリーの分類が難しく、怪異はその一角を占めるだけ、という話がいくつかある。
 これも、本全体の「重たい」という印象と関係があると思う。他の実話怪談の本とは違って、「これ、怪談です」「はい、怪談ですね」という作品と読者とのコミュニケーションを簡単に取らせない部分がある。
 
 あえて比べるなら、俺は前作の『蜃気楼』の方が好みではある。
 ただ、「重たさ」云々については、実はここから本題となる。
 
 まず、この「重たさ」が欠点かどうかというと、別にそうではない。
 理知的な考え。整然と並ぶ言葉。
 それと同時にある詩情。
 それが鈴木捧の作品である。これをひれ伏すように敬愛している。
 
 その特徴を突き詰めると、自然と「重く」なるだろうな、という気がする。
 実話怪談をやるには不利なほど論理を重視していて、まるで、怪異が漫然と主役を張れてしまうオーソドックスな構造を責めるかのように丁寧で。
 『エニグマをひらいて』は作家としていずれ書かれるべき内容だったと思う。そして何より、そういう作家性どうこうを抜きにして、強烈に良い作品である。
 
 「重たさ」についてもう一つ、戦略的な面から書いておく。
 きわめて単純なことで、本が理性を重んじる内容であるほど、その「理」を突き破って吹き出すことのできる怪談は凶悪であるということである。
 
 『エニグマをひらいて』の中にもそういう話がいくつかあって、特に『4-8 うつる話』が、俺は一番こわかった。背骨をなでられるような忌まわしさがあった。
 物理的に考えた幽霊の居場所、みたいなロジカルな文章のあとに、こういう話が出てくるのである。
 これは本当に幸せなことだ。
 もし化け物に襲われて、いっそ絶望を楽しむなら、何の構えもないときではなく、自分の身を守る強固で分厚い鉄板を軽々と突き破られて攻め滅ぼされたいと思っている。
 
 結局、良い実話怪談は、「重たさ」をある程度は持たなくてはならないと思う。
 どっちだよ、という感じだが、実際そうなのである。
 
 幽霊というものが、理知的に考えたらどんなにおかしいものなのか。
 それでも、もしも幽霊がいるとすれば、それはどこにいるのか。
 普遍的な自然法則で支配されたこの世界の、どこにそういう隙間が、もしくは誰も知らない広大な闇の領域があるのか。
 
 作家の中でも、そういうことばかり考えている作家が書き、そういうことばかり考えている読者が喜んで読む、それが俺の好きな実話怪談だ。
 「重たさ」は実話怪談のやりやすさという点ではベクトルがそろわないが、それは言わば二次元の平面的な考え方であって、作品に深みという三次元を与えるには欠かせない要素でもあるのだ。
 それが、作家として、この世や、怪談を語った体験者や、そして読者に対して、誠実であるということなんだと思う。
 だから俺は鈴木捧の本が好きなのである。
 

 『1-8 幽霊』について。

 『1-4 背中』でも書いたのだが、鈴木捧は、文字そのものの佇まいみたいなものに、すごく意識的な人なのではないだろうか。

 「幽霊」という文字を目で見たときに、例えば、ひらがなの「ゆうれい」や英語の「ghost」を視界に入れたときとは違う、視覚から感じるその文字固有の息づかいみたいなものがあると思う。

 『1-8 幽霊』はそういう感覚が作家自身にもあって紹介された話のような気がする。

 個々の文字が持つ字面への愛情があって、それゆえに、それが破壊されたときの恐怖、倒錯した喜びみたいなものも同時にある気がする(『5-4 ラーメ』)。

 

 そして、言葉を文章としてつなげたときの、姿勢の美しさみたいなものに対するフェティシズムっぽいところもあると思う。

 『1-4 背中』の夕焼けの描写からはすごくそれを感じる。風景を同じ意味で説明する言葉の選び方、並べ方はたくさんあるのだが、この言葉・この配置でないといけない、という美意識を感じる(実際、ここの文章は大変に美しい)。

 

 『3-2 ケンカ』について。

 作者がどの程度、そういう読者がいると予想しているかわからないが、俺は『エニグマをひらいて』の中でこの話が一番好きである。

 デパートやスーパーで、例えば従業員用の通路へのドアが開いていて殺風景な奥の様子が見えたりすると、「なんだか、見ちゃいけないものを見ちゃったな」という気持ちになる。

 階段も同じく、はなやかな店舗エリアに比べると、ちょっとヒヤッとする空間だと思う。

 そこで起きた怪異というのが素晴らしいし、目にした後の母親の言葉が、なぜかものすごく好きである。本当にわけのわからないものの前では、大人であることなど実に無力なのだが、それでも取り繕うように何か口にするところに、親であることのいじましさと強さを感じる。

 

 『5-7 真夏の夜の音楽』について。

 鈴木捧の作品が好きな理由の一つは、怪談としてはもちろんのこと、俺たちが思い出やしがらみをひきずって、ちょっと疲れながら生きていくことを鮮やかに描く、もし文芸が人生にとってこうした役割を持つなら、つまり文学として優れているからである。

 その点で、いわゆるスリップストリームの一つとしても読めると思っている。超常的な要素はあるが、そういう方法でしか描けない、生きることの何かのかたちとか、瞬間。それに成功している文芸。

 

 スリップストリーム云々を持ち出したのは、一応、鈴木捧作品未読の人に向けたPRのつもりでもあるのだが、悲しいかな、スリップストリーム自体がメジャーではないのだった。

 おそらく、このカテゴリーで誰もがピンとくる作家を一人だけ挙げるなら、村上春樹だろう。大大大…大メジャーと強引にくくったように思われるかもしれないが、個人的には、短編の印象は本当にけっこう似ていると思う(村上春樹も、少し世の中とテンポのズレた人間、もしくは周囲と歩調がズレている時期に、音楽がふと、大きな存在感を持つことを描く作家だと思う)。

 あとは、リチャード・ブローティガンとか、アンナ・カヴァンとか。ビターで、はかなく、幻想的で美しい。

 ただ、もちろん英米のこうした作家が、泊まった旅館のテレビで開頭手術の映像を観る短編を書くことはないとは思う。

 

 『5-8 二人目の彼女』について。

 話そのものも美しいが、その締め方について、実話怪談の作家としての決意を示すような話だと思う。

 「オバケ」の正体、これはもちろん重要である。

 ただ、怪異と体験者が出会い、それと作家が出会い、最後に読者がそこに加わる、こうした関係性というか縁というか、それを実話怪談と呼ぶとして、それを尊重するなら、あえてそれを暴かなくてもいい場面はあるとも思う。そういう話だと感じた。

 

 最後に、『エニグマをひらいて』は、これまでの販路とは違うかたちでマーケットに出てきた本であるようである。

 それをふまえて思ったことと、実話怪談そのものについて感じていることをあわせて書いておく。

 

 実話怪談というのは、音楽でいうとオルタナティブ的というか、要するに本屋の棚で目立つところに来ることはほとんどないカテゴリである。

 そういうジャンルにもかかわらず、もしくはだからこそなのか、俺には非常に保守的な業界に見えて、はっきり言うと、十年以上前から同じような作家が同じような話をいつまでも書いている印象がある。

 別に、トラディショナルであることをダメだと言っているわけではなく、例えば、福澤徹三・糸柳寿昭の『忌み地』とか、実話怪談のフォーマットとしてはベタだけど、新刊を読むたびに「すげえな」と思う。

 逆に言うと、他の作家のほとんどは、俺にとって、同じような、かつ、いまいちピンと来ない話ばかりずっと書いている人たちである。

 といって、アヴァンギャルドな作風であればいいわけでもない。

 ベタな怪談じゃない、というだけなら、これもいくつか作品は挙がる。ただ、そうすると今度は、「こんなの、ただの凝ったコケオドシじゃねえか」と思うことが多い。

 我ながら面倒くさい消費者である。それでも、「ああ、金を払った甲斐があった。いい『オバケ』の話を読んだ」と思える数少ない作家が、鈴木捧である。

 

 といって、鈴木捧の新しい企画を自社で立てられなかった企業を責めるつもりもない(ややこしいですね)。

 理由は二つある。一つ目は俺自身が企業人だからである。

 例えば、事業として達成するべき数字の優先順位をつけるときに、企画を通したり見直したりするシビアさをいくらかはわかるつもりでいる。

 理由のもう一つは、そもそも鈴木捧を評価して市場に持ってきた出版社を尊敬しているからである。本当に保守性にひたりきったような業界なら、とても見出せない作家だと思っている(というのが作家への誉め言葉なのか、よくわからないが)。

 

 あえて言うなら、何かを刷新したり、何か一枚の看板を負うことになる人というのは、どこかしらオルタナティブで、地力はもちろんあって、誠実な人物だと思っている。

 もし、そのジャンル自体が出版という世界での傍流であるなら、その中でなお妙なことをやっているアウトサイダーが、良いものを真面目に作り続けた先に、何か重要なことを成すのだと思う。

 一方で、当たり前だが、特定の作家に向けて、そうあれ、と強いる権利を俺は持っていない。作家の好きにしたらいいことである。

 ただ、その人のファンであるから、その人がやりたいことを続けられればいいとは思う。そういうことを考えたので書いた。この本が多くの人の手に取られることを祈っている。