あまりにも扇情的な傑作。映画版『BLUE GIANT』の感想について

 



扇情的

 良いのと悪いのと二つの意味を含めて「扇情的」と言いたい。

 一つは、音響によって観客の心と体をゆすぶる、とても官能的な作品であるということ。

 原作のストーリーの良さをまったく損なわない、素晴らしく編集された映画版だが、それでも、主役は物語ではなく圧倒的に音楽だった。そのくらい、言葉にならないぐらい良かった。本当に凄い楽曲群だった。

 もう一つは、過剰に観客の感動を誘おうとしていて、はっきり言ってポルノすれすれであるということ。

 映画版『BLUE GIANT』は、観ている側の感情のツマミに遠慮なく手を伸ばして、スイッチをオンオフするような作品だと思う。強烈に気持ちが動かされる一方、どこか観客を操作しようとしているというか、「創作工学」みたいな言葉も浮かぶ。

 念のため言っておくと、創作物は例外なく、触れた者を操ろうしている。俺が主張したいのは、そのやり方にも品性というか、つつましさみたいなものがあるべき、という話である。

 あと、とにかく、登場人物がよく泣く。

 映画作品のうちで何度もキャラクターに涙を流させるのは、法律で固く禁じられている。これは俺が定めた法律である。理由は、歳を取ると、スクリーンで誰かが泣いていたら自分も泣くからである。

 俺はこんなに常に誰か泣いている映画を以前に観たことがない。冗談抜きで、5分に1回以上のペースで誰か泣いている。

 何か達成したときであったり、挫折したときであったり、とにかく感極まってしまったときであったり…。ほとんどみんな泣いている。

 そして、俺も観ていて泣く。これは反則である。一応言っておくが、本来の悪い意味で反則である。

 

 そういうことで、映画版『BLUE GIANT』はポルノまがいの怪作と紙一重である。誰に何と言われようとはっきりそう思っている。

 そして、文句のつけようもなく、ものすごい傑作である。原作ファンでまだ観ていない人は、絶対に観た方がいいし、そうでない人にもおすすめする。本当に素晴らしい体験ができた。

 

あらすじ

 物語は、世界一のサックスプレイヤーになることを目指す18歳、宮本大が東京に上京したところから始まる。そして、大が組んだトリオによる、日本ジャズ界の聖地・So Blueでの演奏で終わる。

 明確な起承転結あり、原作から漏らしたところのほとんどない、素晴らしいストーリー展開。原作ファンはみんな、「あ、このエピソードをちゃんと描くのか」と思ったんじゃないだろうか。

 『BLUE GIANT』という作品のすごいところは、大という圧倒的な輝きを放つ青色巨星が主人公として存在する一方で、周囲の人物たちの葛藤や人生をものすごく丁寧に描く群像劇でもあるところである。そういうわけで、雪祈と豆腐屋とか、玉田とそのファンになった男性とか、大切な挿話も細かいセリフもちゃんと拾われている。

 2時間にこれらをまとめたのは、ものすごい編集の力だと思う。こうして構成された「大とその周囲の人々」という世界観が、エンディングの感動(嫌な言葉ですね)に大きな役割を果たす。

 あえて、原作にあったアレも映画で観たかったな~というものを挙げると、玉田が大と雪祈の前でソロを練習した成果を見せる場面だろうか。玉田の演奏を聴く二人の表情が少しずつ変わっていくのが好きなシーンだった(っていうか、玉田に関わるエピソード全般が好き)。

 

 ちなみに映画の冒頭は、まだ何者でもない大が、雪の中でサックスを練習していて、一匹の猫と遭遇するシーンで始まる。俺は原作でもあの場面が本当に好きで、大のすごさ、孤独と共感が両立する最高のエピソードだと思うので、大事なオープニングに選ばれたのはうれしかった。

 

具体的な感想

 以下、もう少しストーリーに触れながら感想を書く。

 二重の意味でネタバレになる。原作を知らない人だけでなく、原作ファンにとってもネタバレである。なんでかというと、最終盤の展開が原作と違っていて、そのことを書くからである(こう書くこと自体がもうネタバレだが)。

 あのエンディングには賛否があると思うけど、俺は良いと思った。

 そういうわけで、詳しく書いていくが、その前にある点でも話題になっている作品でもあるため、先にそっちに触れておく。

 

CG

 演奏シーンのCGがだいぶひどい、という理由で世間をにぎわせており、「どんなもんだろう」と思っていたら、確かにひどかった。

 これは擁護のしようがなく、サックスを吹く大の動きは捕まってあばれるエビみたいだったし、雪祈はキャラクターのディテールがつぶれてマネキンのようだった(玉田が一番マシに見えたな、俺は)。

 ただ、CGでないアニメーションで描かれる部分も多かったし、幻想的なビジュアルで演出している部分も多く(こっちはすごくカッコいい)、CGの出来は作品の印象にまったく影響ない。

 要するに、絵づらで多少失点しようと、そんなもの意に介さず吹き飛ばすくらいの魅力がある内容になっている。たぶん、多くの人もそう感じたと思う。

 

具体的な感想。雪祈について(注:ネタバレしかない)

 超絶技術の持ち主で、ハンサムで傲慢で繊細な、大と同じ18歳のピアニスト。

 『BLUE GIANT』映画版は、ある意味で雪祈の作品である。主人公の大も他のキャラも、みんな良かったけど、それでも、雪祈に注目することを求める構成だったと思う。

 

 原作ファンとして、「あ、雪祈ってこういうやつだったのか」とあらためて思ったのは、雪祈がはじめて大のプレイングを聴いたときの場面である。

 初登場時から合理性と傲慢さ(そして、そういう姿勢を認めさせる才能)を鮮やかに印象づけた雪祈。その雪祈が、サックスを始めてまだ3年だという大の演奏をはじめて聴いて、涙を流す。

 雪祈の計算高さや冷たさはその後、何度も描かれるんだけど、それでも彼は相手の努力に敬意を払い、そこに込められた情熱と、費やされた膨大な時間を敬える人間なのだ。

 

 クラブ・So Blueの平から、技術を誇るような自分のプレイングをコテンパンに評されたとき、多くの読者にとって印象的だったのは、一人になった雪祈がつぶやいた「あの人、いい人だな」という言葉だったと思う。

 これは、なかなか言えない。特に、雪祈ほど優秀なら、なおさら言えない。傲慢さと謙虚さ、他人への冷たさと優しさ、自己批判が入り混じったのが雪祈なのだ。

 ちなみに、この傲慢さと〜云々は、別のもう一人の人物にも当てはまる。主人公・大である。雪祈と大は、多くの面を、しかしまったく違ったかたちで共有していると思う。

 

 はじめて大のプレイングを見たとき、もしかすると雪祈は、感動と同時に恐怖を覚えたかもしれない。

 恐怖が言い過ぎなら、「敵わない」という圧倒的な格のようなものを、かすかに意識したような気する。この点はこのあとで書く。

 

 トラックの事故は、映画版でもやりすぎだったかなあ…と思う。俺は原作のときも、ストーリー上の展開という点で批判したけど、映画版については「あまりに扇状的」という点で、やっぱり批判したい。

 事故の描写が良くも悪くもリアルすぎる。たぶん、実際の事故もああいう感じで、ちょっと目を離した隙にすさまじい暴力が無音でやってきて、最後の一瞬だけ写真を投げ込むように時間が止まって、即座にすべてを無機質に押し潰していくのだろう。

 ああいうものを見せられたら(それも、これまでの熱いドラマのあとに)、観客の感情はぐちゃぐちゃになってしまう。これは人の心の中に手を入れてかき回すようなもので、映画ってそれでいいのか? と思う。

 思うけど、でも、いいのか。何しろ、そこから先はもう、感動するしかないのだから。よくわからない。

 

最後の演奏

 原作では、So Blueでの演奏は大と玉田二人だけのものになった。

 映画版は違う。大と玉田が演奏を終えて裏にはけたところで、雪祈が片手の使えない状態で合流し、アンコールでカムバックするからである。

 これによって、So BlueのステージにJASSの三人がそろう。ただし、アンコールは自分も演奏する、と告げた雪祈は、これを最後にバンドを解散することも同時に伝える。解散ライブなのだ。

 

 この展開について、批判から書く。

 まず単純に、「さすがにその体じゃ無茶だろう」と思う。止めろよ普通に、と。

 ただ、『BLUE GIANT』というのは、ある種のブッチギレてしまっている人たちの物語でもあるので、許されるかもな、とも思う。

 大は雪の降る中で延々とサックスを吹き続けるような人物だし、雪祈も青春のすべてをピアノにかけてきた。玉田だって人生の大事な一年をすべてドラムに捧げると決めた。言い換えれば、みんな「これに狂う」ことにしたのだ。

 ポーズで情熱を装っているわけではなく、三人とも根本的にどこかネジを飛ばしている。そして、観客もたぶん、それを観に来ている。どうかしているプレイヤーたちが、ステージでさらにどうかしていくところを観に来るのだ。きっと、そうやって「狂っているやつがさらに狂う」ことの中にしか表れない、生きている価値を観るために。

 でもまあ、「いや、ステージで倒れたらその後の営業どうすんの…」と冷静に思う俺もいましたよ。

 

 もう一つの批判は、雪祈がステージに参加することで、So Blueでのライブが今後の物語に与える影響が完全に変わるからだ。

 上で書いたとおり、俺は原作での展開を批判したことがあるけど、それは、「何もここまであからさまに、今後の展開のためにキャラクターを壊さなくてもいいだろう」ということだった。「日本国内では大を成功させない」という作者の意図が見えすぎている、と思った。

 難しいのは、作者の目的そのものは理解できることだ。やりたいことはわかる(気がする)。日本では十分なキャリアを積めず(トリオでのSo Blue演奏を飾れず)、裸のチャレンジャーとして次の世界に挑む大、俺も見たい。でも、他の方法はなかったか、ということなのだ。

 しかし、映画版では雪祈が合流することになった。

 原作が「盟友のピアニストを欠いた状態で、非常に印象的ではあるものの未完全のライブを行い、次の地に向かう」のに対して、映画の「重傷から奇跡的に復活したピアニストと一緒に、完全なトリオで解散ライブを行ってから出発する」のでは、意味がかなり違う。そういう批判を書いておく。

 

 それでも。

 それでもですね。

 あの最後の三人でのライブシーンは本当に素晴らしかったよ。本当に。

 

 俺はジャズをまったく聴かないし、他の音楽の精神性なんかもわからない。

 だから、◯◯と比べてジャズは…ということはわからないけど、考えたことがある。

 劇中で雪祈が言った言葉に、「他の音楽と違い、ジャズバンドはずっと同じメンバーでは続かない」というものがある。

 この不安定なあり方と関係があるのかもしれないが、JASSの三人は強い絆で結ばれていながらも、各人が視野に入れているものは、まるでバラバラである。

 大は世界一のプレイヤーになるのが目的で、So Blueでの演奏はいわば、一つのステップに過ぎない。

 一方、雪祈は10代でSo Blueのステージに立つのが夢で、とにかく今は、そこにすべての照準が合っている。

 玉田はSo Blueとか未来とかではなく、「いま、この三人」でプレイするためにバンドを組んでいる。

 つまり、彼らは目的と技術と友情でまとまっているけど、一方で、何かのきっかけで分解する可能性を常に秘めている。こうした不安定さゆえに常に崩れてかけているものを、劇的にまとめ、一時的とはいえかたちにするのが、ステージでのライブだったのだ。

 だからこそ、雪祈の加わった最後の演奏は、すさまじい緊張感でもう、ちぎれそうになってる。

 夢のために一日も立ち止まれない大は、これ以上バンドにとどまれない。

 雪祈はこの舞台で人生最大の目的を達してしまった。

 そして、この二人と演奏できないなら、玉田にはジャズそのものを続ける理由がない。

 三人は、どうしたって今日で解散するしかない状況でプレイしているのだ。そういう分解の運命が、ステージでは反転し、一つのバンドの音となって鳴らされているわけで、この矛盾、このドラマなのだ。

 

 演奏中に、雪祈が大を見つめる場面が何度か挿入される。一方、大は雪祈をあまり見ていないように感じる。

 この先も、何度か描かれることになる、大が持つある種の残酷さ。周囲との関係性やあらゆる感情を燃焼させ、この場の演奏に変換する狂気。

 4歳の頃からピアノを弾き、音楽のキャリアではるかに先を行く自分をノックアウトした大の姿を、雪祈はまぶしそうに見つめ、もしかしたら恐れ、あこがれているのかもしれない。

 だからこそ、エンディングで大が雪祈に放ったひと言は、きわめて強い意味を持っている。

 「俺がお前のピアノの一番のファンだ」

 心底あこがれ、恐れて、でもその感情は秘めてきた相手から、こんなことを言われたら…一体どうしたらいいのでしょうか?(大は本当に罪作りだ)

 

 あらためて、ものすごい映画だと思う。

 批判も気になったことも、上で全部書いた。色々言いたいことは言ったうえで、それは、この映画がくれる感動をまったく傷つけない。

 原作ファンはもちろん、ちょっとでも興味がある人は、ぜひ行ってほしいと思う。