『BLUE GIANT』10巻の感想と、破壊されるために生まれてくる者たちについて

※以下、作品の内容について激しくネタバレしています。注意。

 

追記:これはマンガの無印『BLUE GIANT』10巻の感想になります。

映画版『BLUE GIANT』の感想はこちら。

 

はじめに

 いきなり『BLUE GIANT』と関係ない話から入って恐縮なんですが、以前、鬼頭莫宏の作品の感想を読んでいてこんな意見を見かけたことがある。「鬼頭作品に登場するキャラクターは、作者にもてあそばれるために生み出された人形である」と。

 

 そういうことを言いたくなる気持ちはなんとなくわかって、ネットでもよくネタにされるとおり、鬼頭莫宏は自分の作った登場人物に対してまったく容赦というものがない。線の細い少年少女が世の中≒それを作っている作者の手によってことごとくひどい目に遭わされ、再起不能の重傷を負ったり死んだりする。

 そういうとき確かに、悲劇の発生に驚いたり傷ついたりするだけでなく、その悲劇の背景にすべてを司っている作者の存在が感じられて、醒めてしまうことがあったりする。

 

 ただですね。一方で、そういう感想を抱くこと自体不思議だよなあとも思う。そうでもないですか?

 だって、鬼頭莫宏マンガに限らずすべてのフィクションのすべてのキャラクターはいわば作者の生んだ人形だし、彼らの身に降りかかった無数の災難は、基本的に作者の手のひらの上で起こされてきたものなわけで。

 なぜその中で、造物主の意図が透けてしまうものとそうでないもの、登場人物たちが操り糸にぶら下がったがらんどうに感じられるものとそうでないものがあるんでしょうか? その違いはどこにあるんだろーか、とか思う。

 

 『BLUE GIANT』10巻の感想と、破壊されるために生まれてくる者たちについて

 本題。『BLUE GIANT』10巻を読み終えたので、その感想を書く。

 『BLUE GIANT』は、ジャズを題材に若きサックス吹き宮本 大の成長と躍進を描く漫画。

 俺は、このマンガを読んでいてこれまで幾度となく震えさせられた。主人公である大の活躍もそうだけど、天賦の才とそれゆえの傲慢さ、脆さを併せ持つピアノ弾き沢辺 雪祈、ドのつく素人だったにもかかわらず大と雪祈に触発されてゼロ地点から進化と覚醒を繰り返すドラマー玉田 俊二、19歳男子三人の織りなす青春が死ぬほどアツかった。

 

 この10巻は作品の一つの区切りとなることが匂わされていたから、その分何が起こるのか期待がものすごかったんだけど…あかんかった。完全にはストーリーに没入できなかった。

 もっとも、単にあかんかっただけでなくて、心が動かされるところももちろんあったし、上で愚駄愚駄書いたような「物語の裏手にいる作者の存在」についてあらためて考えさせられたという意味で、とても印象に残る巻でもあった。

 

 そういう感想を抱いたのはやはり作中で雪祈が事故に遭う展開のせい。

 日本におけるジャズステージの聖地「So Blue」でヘルプに入り成功に貢献した雪祈は、その対価として大、玉田と組むトリオが同じステージで演奏する権利を勝ち取る。しかし、本番を翌々日にひかえた日の夜、雪祈は道路整備のバイト中にトラックにはねられ、明後日のステージに出ることはおろかピアニストとして致命的な損傷を右腕に負う。

 雪祈を欠いた状態で大と玉田はSo Blueでライブを行い、それは彼らと顔見知りの人々を含め観客のこころに訴えるステージとなったが、トリオは後日解散、大は自分の夢を叶えるため単身ヨーロッパに発つことになる。

 

 俺がこれを読んで感じたのは、雪祈が事故に遭うのははじめから決められていたことだったのだろうか、ということだった。大という主人公を日本国内では安易に大成させないために、一介の無冠のチャレンジャーとして欧州に向かわせるために、雪祈はステージに参加できず、それは最初からそう「設計」されていたのだろうか、と。

 もしそうだとしたら、もう本当に傲慢な話だけど、ちょっと許せないな、と思った。そしてそれと同時に、上で書いたような「作者とその人形であるキャラクター」という問題について考えさせられた(大好きな作品に対してヒドいことを言ってる。すみません)。

 

 上で不思議だねーと書いたとおり、作中で誰かが悲劇に見舞われても、それを不幸に「なった」、と感じる場合と、作者によって不幸に「させられた」と感じる場合がある。

 おそらくポイントは、読者が自分の想定・期待していた展開と作者が描きたい展開のズレを自覚したとき、そしてそのズレをはっきりさせるきっかけとしてキャラクターが「利用された」と感じ取ったかどうか、にあると思う。

 『BLUE GIANT』の例でいうと、俺は大たちトリオの活躍はまだ描かれるものだと思っていたし、聖地「So Blue」で派手に暴れるものだと考えていた。

 しかし実際は、雪祈の欠場によりステージは不完全なものになり、これをきっかけに大の物語は次の段階に進むことになる。

 これは、『BLUE GIANT』は最初から、もしくはすくなくとも現在はもう「大の物語」でしかないということだ。

 作中で事故から目覚めた雪祈が大に、「自分はSo Blue でプレイしたときこれが最後かもと思って臨んだが、お前はこれから何度もあるステージの一回目だと思って演奏したろ」と言ったように、そして玉田が「俺はもう十分できたがお前は違う」と言ったように、はっきりと先にすすむことが許されるのは大だけであって、もうバンドとそのメンバーの描写を期待するべきではない、ということだと思う。

 このとき俺は、自分の認識がズレていた、要は作品が目指している地点を誤解していたことを知る…んだけど、その責任が自分の勝手な期待にあるとすぐには受け入れられない。作者の誘導が思わせぶりなんが悪い、となる(この辺恋愛にも似ている)。

 と同時に、ダマされてムカついた読み手の中であることが起きる。それは、自分がこれまで接してきたものがあくまでフィクションであって現実ではないというどうしようもない真実について目を覚める、こころが一瞬作品から離れるということである。

 このとき物語の背後に作者の影がちらつく。そして、こうして醒めてしまうきっかけがキャラクターの不幸や死であった場合、読者はキャラクターの上に彼らを吊るす糸を見つける。そしてこう思うわけだ。「ああ、こいつは物語のために壊された」と。

 俺の中で、雪祈の身に起こったこととそれをきっかけに展開されたいまのストーリーは、その一例だった。肝心なことは、これはあくまで不幸の内容ではなくその見せ方の問題であって、雪祈が事故に遭おうと死のうと、うまく俺を納得させてだましてくれたのなら、それはそれでよかったんだけども、ってことだ(めちゃくちゃ言ってんな)。

 

おわりに

 長々文句を書いたけど、もっと、もっと、とバンド全体と雪祈と玉田の活躍とを求めざるを得なかったのは、これまでも十分彼らの描写に時間が割かれたからこそだし、冒頭ヘルプで入った雪祈の演奏が炸裂するシーンや、雪祈を欠いたバンドが悲愴な登場から始まって自分たちのプレイングを徹すシーンはやっぱりすげかった。

 雪祈と玉田はここで退場、なんだろうな。次巻からは『BLUE GIANT SUPREME』と改題して、大の欧州武者修行編。続きも楽しみで目が離せない。結局ね。(おわり)

 

BLUE GIANT 10 (ビッグコミックススペシャル)

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