はじめに
二十年近く前、志望校の過去問を解いているとき、英国の女流作家メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を題材にした論説が出てきた。
俺はそこで二つのことを学んだ。
あのガタイのでっかい角ばって頭にネジが刺さった怪物の名前は「フランケンシュタイン」ではなく、というか名前そのものがなく、呼ぶとしたら「フランケンシュタイン(博士の造った)・モンスター」でしかないこと。
そして、この名無しの怪物にまつわる物語をメアリー・シェリーが世に放つことは、当時の男性社会に対する反逆であり、虐げられ軽んじられるべき怪物(という立場を押し付けられる存在)は、ある意味で「女性」の暗喩であったこと。
ふーん、と思った覚えがある。
それから数年後、俺は箱根の美術館にモディリアーニの彫刻を見に行き、その訪問にこじつけて、藤田和日郎の『黒博物館 スプリンガルド』に関する日記を書いた。
さらに時は過ぎて2022年、俺は大阪にモディリアーニの絵画を見に行き、再び「黒博物館」シリーズの新しい日記を書こうとしている。メアリー・シェリーと怪物的な人造人間をめぐる物語だ。
物事は繰り返し、時間は過ぎ去る。
俺は二十年間、どこも変わることができなかったが、社会の方は変わったのだろうか。
メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、世界で最初のSFと呼ばれることがあるという。
『三日月よ、怪物と踊れ』
「黒博物館」シリーズ最新作である。
物語のフォーマットは過去作と同じ。十九世紀のロンドン警視庁に併設された犯罪証拠品を陳列する黒博物館をある人物が訪れ、博物館の(名物)女性学芸員に過去の逸話を語ることで進行する。
彼女が明かすのは、自分が『フランケンシュタイン』を上梓して何年も後に体験した、女性同士の死体をツギ足して生まれた怪物に関する記憶だ。
その怪物の首から下は、ロシアからやってきた凄腕の女暗殺者。首から上は、事故で死んだ田舎娘。
頭部の記憶と人格によって活動しながら、身体には強烈な剣技がいまも宿っているこのモンスターを教育し、女王の警護役に仕立てるのがメアリーに与えられたミッションなのだった。
「黒博物館」シリーズと言えば女性がとにかく素敵だ。
ミステリアスに見えてすぐに化けの皮がはがれて情緒豊かな本性が出る学芸員サン。
基本的におとなしいんだけど、要所でこの世界の不条理にブチ切れて啖呵を切るフローレンス(・ナイチンゲール)。
そして、新たに登場したメアリーも負けていない。メアリーは、思慮深さと火がついたような行動力のふれ幅に見とれるという点でフローレンスに似た魅力を持っている。
ただ、メアリーの方が世事に長け、演技をこなしたり駆け引きによって状況を攻略する余裕がある。簡単に言うと大人なのだ。
そのため、フローレンスほどの爆発のカタルシスはない。一方で、普段は外面をつくろっている分だけ、本音を語るときはすごく愛嬌がある。そういう主人公だ。
作品を読めばわかるが、物語のテーマの一つは明確に、女性の置かれている苦境を描くことにある。
「女のくせに」作家になったメアリーだけでなく、一般家庭の主婦や屋敷の使用人たちが耐えている苦しみが何度も描写されている。
作中世界は十九世紀だが、それから二百年経って、現代はどうだろう。
確実によくはなっているだろうけど、完璧ではないんだろう。
Me Too.
「わきまえている」女性。
どこかの大学の入学試験で非公開のまま存在していたハンディキャップ。
女性の権利に関する課題(と、それを象徴する言葉や出来事)は、現代でも次から次に出てくる。
問題がどんどん現れるのは、物事が前進している証拠? それとも、やっぱり悲しむべきことだろうか。
タイムリーなテーマだが、よく考えれば、『からくりサーカス』でも『邪眼は月輪に飛ぶ』でも、藤田和日郎のヒロインはみんな強くて、男と一緒に戦線の真正面で戦っているのだった。そういう意味では、作家の本領なのだと思う。
作家と怪物、女二人(死体の持ち主と学芸員サンを入れて数え直したら四人)、彼女たちの戦いがどうなるのかを楽しみに読んでいきたい。
ところで、タイトルにある三日月だが、一つには作中に登場する刃物に刻まれた三日月のシンボルのことだろう。
もう一つ、メアリー・シェリーに関する逸話として、『フランケンシュタイン』の物語は部屋に入ってくる月光を見たときにインスピレーションを得た、という伝説があるらしい。
もしかすると、そこにかかってくるのかもしれないと思った。まあ、当たったらすごい。以上。